お勧め本(+雑談)Blog

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親分はイエス様

2006-06-03 17:28:37 | コマッタヨ
投稿者:コマッタヨ 投稿日:2004/01/25(Sun) 14:34
映画評と言えばこういうのがありました。映画評もともかく、人間観察(未信者のクリスチャン観察)も鋭いと思いました。
ttp://home.att.ne.jp/blue/yamasita/cinemaindex/2001ocinemaindex.html

2001年 分 日本 カラー
監督:野淵昶 脚本:野淵昶
撮影:三木滋人 音楽:佐藤顕雄
出演:渡瀬恒彦 ナ・ヨンヒ ユン・ユソン 奥田瑛二 渡辺裕之 ジョン・ヨンスク 渡辺哲 ジョン・ウク ガッツ石松 増田恵子 岡崎二朗 金山太一 ミッキー・カーティス 夏樹陽子 誠直也 中村嘉葎雄
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2001/10/5/金 劇場(銀座シネパトス)
観ている時は割と単純に楽しんでいたんだけど、後からオフィシャルサイトのBBSを読んでいたら、やっぱりちょいと引いてしまう気分は否めなかった。ということを極力避けるために本作は、“神様ではなくてカミさん”のためにこの十字架行進をしたと告白させているのではないか。多分それは本当の部分とは違って、実際は本当の本当に神様、イエス様を信仰したゆえの行動だったのではないかと思うのだが、あえてそうしたにもかかわらず、やはりクリスチャンの方々から見れば、これはイエス様に帰依した物語であり、この真実の物語を観て、数多くの人たちが神の愛に触れるのではないかと期待するらしいんである。うーむ、一体、どこを見ているのかなあ、と思わなくもなかったのだが……。多分この映画を観て、クリスチャンになるとか、キリスト教に興味を持つという人はいないんではないか。そして監督も、そういう方向で映画を作ってしまったら、それこそ資金力にモノを言わせて宗教宣伝映画を作り、実際は信者しか観ていない某宗教団体と同じことになると危惧したから、それを避けたのではないか。それにしても、これほどしっかり台詞に言わせ、あからさまに避けていると判るのに、そういう風に感じてしまうのは、やっぱり信仰しているからなのかなあ……。
というわけで、これはノン・クリスチャン、一般的な映画観客にとっては、キリスト教の映画と言うより、やはりヤクザである人間がカミさんの愛によって人間が生まれ変わる物語、と言った方が正しいように思う。カミさんはクリスチャンな訳だが、別に彼女たちの祈りが神に届いたわけではなく、ただただ祈り続ける=愛しているがゆえの、心痛なる心配が、彼らの心に届いたと、こういうわけなんである。祈る、信仰という行為は、愛を描くための象徴的行為に過ぎない。それは、どうしようもない極道、島をかばって刺され、ハンドバッグに入っていた聖書がクッションになったという、一見すればそれこそ神に助けられた現象だとクリスチャンの人ならば感じてしまうかもしれない場面でも同様である。それは神の奇跡ではなく、愛の奇跡なのだ。血にまみれた聖書を見て涙にくれる島は、神に感謝しているのではなく、明らかに妻の愛に感謝しているのだ。そこを間違えてはいけない。
繰り返して言うけれど、それは事実とは多分違う。原作となった元ヤクザでミッション・バラバの方たちは、真に神の愛に触れ、真にクリスチャンになったのであろうと思う。もちろん奥さんの愛、クリスチャンである奥さんの導きもあったとは思うけれど、それは又、別の意味合いにおいてだ。どちらが上とか下とかいう問題でもない。この真実の物語が私たちの胸を打つのだとしたら、それはどんな人間でも救いたもうキリスト教の素晴らしさとか、神の愛とかそんなことではない。それはキリスト教でも仏教でも、あるいは別の仕事とか、友人とか、それこそカミさんの愛とか、何でもいいのだ……一人の人間が、どうしようもなく絶望の淵にまで落ち込んでしまった人間が、全く違う人間と言っていいくらいにまで、生まれ変われる、そのあくまでも“本人”の、“人間”の底知れぬ力に対してなのだ。
それには、元ヤクザというのが、決定的な説得力を持つ。振り子の幅が大きくてわかりやすいという点であって、一般的なサラリーマンとかに置き換えて考えても、一向に構わない。ことに、組織から捨て駒にされて、見捨てられたというくだりは、確かに他に全くつぶしのきかない極道であるという点において、ヤクザというのはインパクトがあるけれども、いわゆるサラリーマン社会において、昨今しょっちゅう見られる風景である。彼らほどの絶望ではないにしても、同じように会社に捨てられ、途方にくれた人たちは、現代の日本には大勢いるに違いない。いわば、これは現代人に向けられた応援歌であって、ヤクザとかキリスト教とかイエス様というのは記号にしか過ぎない。実に普遍的な物語なのだ。
その“記号”は、しかしやはり魅力的である。重要な記号として、韓国人の妻、というのも出てくる。日本と韓国の至極複雑な歴史的背景を考え、その夫がヤクザであり、精神世界のキリスト教が絡んでくるとなると、これはもう、いかに魅力的な記号をそろえるかが大きな問題となる映画的世界においては、勝利は確実である。ちょっと昼メロっぽい造形の二人の韓国人妻が、しかしその昼メロっぽい泥臭さもまた記号であり、あっさり涙を誘ってくれる。彼女らそれぞれの夫であるヤクザ、渡瀬恒彦にしても、奥田瑛二にしても、もともと役者という、さまざまな方向のベクトルを持つ記号的職業の中でも、それを演じる時、いささかも迷うことない、ハッキリとした記号を指し示すタイプの役者である。もう齢50を越え、かつてはシブい魅力で女を泣かせ続けたにしても、そろそろ年貢の納め時であり、しかもダメ押しに組織から捨てられ……という、社会、人生、男という様々な方向からの記号に満ちたキャラクターを、固めまくって演じている。
ことに、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だなあ……と改めて感じさせる奥田瑛二は、全く違う役柄ながら、やはり同じことを感じた、「少女」に続いて、やりすぎと思えるほどの熱演。この人は本当にスタイルが良くって、いっつもこんなイカツイ表情を作っているから判らないけど、実は笑うとかなりのハンサムで、本当にイイ男なの……。その手足の長い、八頭身の骨格の美しさ、女を抱きしめた時にぎゅっという感じが色っぽく出る、その長く美しい指……あー、あー、あーもう、私は実を言うとこの映画を観ている最中ずーっとずーっと奥田瑛二に見とれ続けてニヤニヤしていたのだ。殆ど本筋なんかどうでもいいぐらい。彼が自分をかばって刺された奥さんの枕もとで、彼女から、十字架を背負って歩いてくださいと言われ、それまでのいかつい顔がどこへやらと飛んでしまい、くしゃくしゃの、子供のような泣き顔で、うん、うん、とうなづく場面には、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だあ……と嬉しくなったのであった。
まあ、彼に見とれ続けていたとはいえ、脇キャストの魅力的なメンメンにも、楽しんでいたのだが。何よりヨイのは、民宿、と呼ばれる、民宿屋のオヤジ、渡辺哲。全身に見事な刺青を施した主人公の勇次に、最初は対抗意識で近づき、彼の話を一晩中聞いてすっかりホレこみ、自らついて歩くことを志願する。十字架に車輪をつけることを思いついたのも彼で、いかにもラシくて、チャーミング。彼の奥さんである宿屋を切り盛りする女将、夏樹陽子も、この人はほおんと、幾つになってもチャーミングで、実は日本のメグ・ライアン風?などと思ったりもするのだが。年相応の色香もありつつ、チャーミングというのは、なかなかすごいと思うんだなあ。
教会でのゴスペルシーンで、陣頭指揮を取っていた女性、絶対柴田理恵さんだと信じて疑わなかったけど、キャストに名前ないし、違うんだ……うっそお、ちょっとドッペルゲンガー並みに本人そのものなのに!★★★☆☆

The Apostle

2006-06-03 17:27:55 | コマッタヨ
投稿者:あだち 投稿日:2004/01/14(Wed) 16:10

映画評でお邪魔します。

ペンテコステ派の牧師ゾニーは、豊かな個性と奔放な生活の持ち主。しかし、ないがしろにしてきた妻ジェシーが若い副牧師と不倫。さらにジェシーの陰謀で教会を追い出されることになり、暴力ざたを起こしてしまう。全てを失ったゾニーは素性を隠してルイジアナへ。そこで親しくなったブラックウエルとともに、新しい生活を始める。

名優ロバート・デュバルが監督・主演したこの作品、人間の性を実に絶妙に表わした作品として評価も高く、アカデミー賞主演男優賞部門にノミネートされた。ペンテコステ(カリスマ)派=セックス、田舎の老人=癒しと包容というシンボルがアメリカンなイメージを反映していて面白い。一時日本でも大人気だったファラー・フォーセットの円熟の演技も必見。

情熱と純潔

2006-06-03 17:27:14 | 信仰書
投稿者:しもべ 投稿日:2003/12/12(Fri) 17:17

著者:エリザベス・エリオット
発行:いのちのことば社

今は絶版になってしまっている本らしく、手に入らなくって残念なんだけれど、とてもオススメです。
これから本当に必要になってくる本だと思うので、是非再販して欲しい本なのです。
ちなみに呼んだことある方いらっしゃいますか?
私は、教会の先生にお借りして読んでいるのですが、
クリスチャンの男女交際についての本です。
聖書的にどうなのか、結婚とは?お付き合いのなかでどこまで許されるのかなど、書かれていて皆に良いお付き合いをしていただくために知っていて欲しいことが書いてあるので手に入ったら是非読んでみてください。
エリザベス・エリオットは、宣教師で、相手の方も宣教師、叉アメリカ人というのもあるので、私も始めはパターンが自分と違いすぎるから、あまり参考にならないって思っていました。でも、冷静に読むときが与えられた時に、自分が2人で関係を清く保っていくことの難しさを体験した後に、これは是非主の前に清い付き合いお互いを傷つけない付き合いをするために、必要なことが書いてあると、思うことが出来た本です。
まだ自分の問題となっていない人も、是非読んでみてください。その時に冷静に読んでおけたら良いのかもな~。とも、思っています。
読んだことがある方、叉読んでみたい方、読んだよ~という方意見を聞かせてください。

聖書の暗号(原題:THE BIBLE CODE)

2006-06-03 17:26:42 | コマッタヨ
投稿者:コマッタヨ 投稿日:2003/12/08(Mon) 16:47

著者:マイケル・ドロズニン
訳者:木原武一
発行:新潮社
分類:トンデモ本

 この本には、99.99%の日本人にとって未知の言語であるヘブライ語が敷き詰められた、「暗号表」が頻出します。一般の読者は読み飛ばしている所でしょうが、あえて「暗号」を味わうためにも(意地悪)、ここで、ヘブライ語の基礎的な特徴を簡単に紹介しておきます。

 まずヘブライ語には母音にあたる字(A/E/I/O/U)がありません。たとえばエルサレムは「YRWSLM」と表記します。子供用の絵本などには各文字に母音記号が付されていますが、普通に教育を受けたユダヤ人は記号がなくてもイェルシャライムと読めます。ちょうど日本人が、漢字にルビを振らなくても熟語を読めるようなものです。

 したがって、「広島」は「HRSM」という綴りになりますが、この本は母音記号というものの存在を完全に無視していますので、読もうと思えばハルサメとも読めます。だから、暗号文に「HRSM」と現れたからって、それが広島の事を表しているとは限らない。実は暗号の作者は1945年に原爆がどこかの春雨工場を破壊した悲劇を予言していたんじゃないか、という解釈もできます(←それじゃ『ノストラダまス』だよ!)。

 そしてヘブライ語アルファベット22文字には各々1から400までの「数価」があり、数字を使わずとも文字で数を表す事ができます(オカルトでおなじみの数秘術などにもこの数価が利用されている)。暗号文中の「年号」(と著者が言っている部分)も数字や言葉ではなくこの数価で表されています(例:HTSNW=5,400+300+50+6→5756)。要するに聖書のヘブライ文字は全部数字に置き換えられるわけで(笑)、組み合わせ次第でほぼ無限の年号を導き出す事が可能です……っておいこら!

 いちおう年号はユダヤ暦でカウントして「それらしさ」を演出していますが、これがまたズサンで。たとえば《日本》《原爆によるホロコースト(暗号表では「ホロコースト」じゃなくてちゃんとヘブライ語の「虐殺」にあたる「ショアー」SW'H になっている所はまぁほめてあげよう)》と一緒に《5705年(西暦1945年)》という年代が現れているという【暗号表45】を見ると、「705」としか書いてない。1997年を「'97」と表記するように千の位は省略してオッケーと思っているんでしょうが、数千年単位のスパンで書かれた予言が年号の千の位を省略しちゃ何の役にも立たないと思うんですけどねぇ。

 ついでにツッコむと、「広島」は「原爆が投下された年と同じ 1945字の文字間隔で記されている」(P.123)んだそうですが、何故ここだけいきなり西暦になるんだコラ。


 何にせよ本書に紹介された予言解読法の最も困った所は、最初に特定のキーワードを得て検索しない限り、聖書の中にどんな予言が隠されているか知る由もないという点です。つまり、ラビン暗殺や広島の原爆など、すでに起こった事件のキーワードならいくらでも検索できますが、未来に起こるであろう予想外の事件事故に関する予言は探しようがないのです。つ、使えねぇー……(涙)。可能なのはせいぜい、たとえば《日本》と《滅亡》が一緒に出てくる箇所を検索して、そこから他の関連単語を探し「予言」と言い張るぐらい。

 ……何かどこかで聞いたような話ですね。そう、凡百の「ノストラダムスの大予言」解読本と同じ構造です。結局この手の本は似たようなパターンになるようです。予言が外れた時も、やっぱり同様にシラを切るんでしょうな。

 それにしてもこんな素敵な本が徳●や光●社やた●出版ではなく、教養書籍に関しては定評のある(はずの)新潮社から出版されているってんですから、いい時代になったもんです。こと宗教方面においてはミソとクソの区別もつかない日本人の教養のウスさを象徴してて嬉しくなります。

 余談ながら著者のドロズニンは、リップス&ウィツタムの両人から「誰も『聖書の暗号が最終戦争を黙示している』なんて言っとらん」と非難され(1997年6月エルサレムでの記者会見より)、ヘブライ語を解するイスラエルの学識者たちからは本書の計算の妥当性を大いに疑問視され「ゴミ」「たわごと」など散々言われてるそうです(Jerusalem Report 誌 1997.9.4号)。まぁ、こんだけ売れてりゃ何言われたって気になんないだろーけど。ああうらやましい。

牧師さんになったお坊さんの話-イエスか釈迦か , イエスに出会った僧侶-ありのままの仏教入門

2006-06-03 17:25:43 | 入門書
投稿者:librarian 投稿日:2003/12/03(Wed) 14:11

著者:松岡広和
発行:いのちのことば社
分類:入門書

 天台宗の僧侶からキリスト教の牧師になった松岡広和先生の本。

 前半は由緒あるお寺の次男に生まれ、大学院で仏教哲学まで修めた僧侶が回心してキリストを信じ牧師となった半生の証で、後半では仏教とキリスト教の両方を究めた目で、仏教の歴史や教えをかみくだいて解説。先生の経歴の特異さもあり、前半後半どちらも説得力ある本だと思う。

 一つ惜しまれるのは、韓国での回心体験のところ。「悔い改め」に関する学びの感想文を何度も何度も書き直させられて青年会で発表するうちに涙があふれ出てきたというものだが、ここを読む普通の日本人は何かマインドコントロールのような印象を持たないだろうか。韓国のお国柄だと思うが違和感が感じられた。(韓国の教会の批判ではありません)

獄中からの賛美

2006-06-03 17:24:44 | コマッタヨ
投稿者:NorthMan 投稿日:2003/11/25(Tue) 12:12

著者:マーリン・キャロザース
発行:生ける水の川
分類:信仰書?

マーリン・キャロザーズ氏の「讃美の力」シリーズは、聖霊派が福音派を勧誘する時に使う本として定番です。
シリーズ第三作「獄中からの賛美」についてあるmlで議論がありました。

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 うーん、なんというか、私、この本の読み方がよくわからないです。
 ちょっと、私個人としては単純にお薦めできないものを感じてるので、
横からレスしますね。
 たとえば、ベトナム戦争にキャロザーズさんが参加した
ときのことなんかが書かれてますよね。
 それで、故郷アメリカに残してきた問題の解決を、みんな
でお祈りしたら見事解決した!!っていう証がいっぱい書かれています。
 それはそれで「ハレルヤ!」なんです。神さまに
不可能がないことがわかりますから。
 でも、この本を通して、戦争に関わったことへの反省
が一度もなくて、また、戦争に対する祈りや、ベトナムの
人々を殺戮しなければならない事への祈りとかもないのです。
 「アメリカへ残してきた、自分の息子が非行から救わ
れた!ハレルヤ!」と言っていたその兵士が、次の日
には無差別爆撃に行く。そのことをなんとも思っていな
いようなキャロザーズ氏の姿勢に、反発を感じるんです。
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「聖霊を受けた」という人が「御霊に満たされながら?」、ナパーム弾でベトナムの人達を焼き殺す光景は、想像するとかなり恐いです。お薦め本ではなくてあぶない本の紹介になってしまいました。

神と魂と世界と ~宗教改革小史~

2006-06-03 17:23:46 | 信仰書
投稿者:ハセクニオ 投稿日:2003/11/06(Thu) 20:42


著者:渡辺信夫
発行:白水社 1980刊
分類:入門書

カルヴァンの「綱要」訳者として知られる著者が20年前に一般向けに出した宗教改革入門。著者の戦争体験におけるキリスト者としての挫折を出発点に、自己と教会と世界の改革を目指した宗教改革者たちの軌跡を追う。少し昔に書かれているので、最新の研究成果による修正は必要なのかもしれないが、宗教改革ってなんだ?という問いを探る人たちには、分かりやすく書かれているし、分量も260項ほどなので、一読の価値ありの書です。個人的に感動したのは、改革派の専売特許の念もある信仰問答集が実はブレザレン系の人たちの遺産を受け継ぐものだったことなど、キリストのからだに見る摂理の跡を知っていけるところが多くあったので良かったです。他にも宗教改革に関する良書はあるのでしょうが、僕が最近読んでいるので、紹介させて頂きました。


はじめまして、東大阪在住のクリスチャン大学生のハセクニオと申します。

Achipu's Roomから流れてきました。いわゆる福音派と呼ばれる田舎の小さな教会で育って、大学のために関西に来て、そのときにAchipuさんと知り合い、今日ひさしぶりにHPを見てて、お!と思い、ここに来ました。

僕も本が好きで、信仰、神学書の類にばかり偏ってますが(苦笑)
でも、こんなHPがあってうれしいです。僕のまわりには、あまり読書、とくにキリスト教書を読む友人がいなくて、いろんな話をしたいのに、できなくて、むむ~と思ってました。読書量も所見も至らない者ですが、みなさんから良い刺激とご指導ご鞭撻のほどを頂ければと思っていますので、よろしくお願いします。

ちなみに、CSルイスやAEマクグラス、Pヤンシー、Oハレスビー、ヘンリJMナウェンなどが好きです。最近やっと、福音主義神学内でのダッチ改革派と古プリンストン学派の違いを知るために、マクグラス先生に勧められたAカイパーについて書かれた本を読み始めました。あとは、夏頃に「綱要」全巻を9500円で手に入れました☆
内田和彦先生や宇田進先生の本にもお世話になっています。


それじゃ、さっそく雑談を☆
最近、大阪梅田の紀伊国屋のキリスト教の棚が少し変わりました。以前は、突拍子もないけど、少しの論拠があれば何でもいいような本がたくさん並んでたのに、この前行くと、なんと!ことば社の本がたくさん置いてあるし、教文館や女子パウロ会とか、信仰を持った人たちが書いた本がたくさんありました。きっと、担当者の方がクリスチャンの人に変わったんだと思いますが、なんともうれしく思いました。

あと、府立図書館の品揃えも少しまともになってて、多元主義的なものが多かったように覚えてましたが、昨日行くと、「現代福音主義神学/宇田進」「キリスト教神学/MJエリクソン」(共に、ことば社)やヘンリJMナウェンの本などが増えてました。よく見ると、一府民寄贈という蔵書印が押してあったので、おそらくクリスチャンの方が寄付されたのでしょう。そのおかげで、お世辞にも良いとは言えなかった府立図書館のキリスト教書棚が豊かになっていて、うれしい限りです。

一般書店でのキリスト教書ってどんな基準で選んでいるんでしょうね?何かしらのキリスト教信仰を持っていない人や全く無関心の人が選ぶときの基準って、どんなのだろう?と、ちょっと興味深くもあります。

初めてなのに長文になりごめんなさい(>_<)
うれしくて、つい長くなりました。また覗きに来ます。
もしよろしければ、返信をメールにもくださるとうれしいです。

それでわ、ほんとに読んでくださってありがとうございました。


キリスト教、知っていますか?

2006-06-03 17:23:09 | 入門書
投稿者:librarian 投稿日:2003/11/04(Tue) 06:43

著者:石橋久子
発行:いのちのことば社
分類:入門書

 信仰、創造者なる神、罪、イエス・キリスト、十字架、新生、復活、再臨などについて、それぞれ「よく聞く」話がまんべんなく書かれた入門書。しかし、一テーマあたりのボリュームが3ページということで説明が深まらず、(書いている方は当たり前のように書いていても)読む方にとっては、期待に反してあまり意図が伝わらないのではないか。まんべんなく語ってはいるが、まんべんなく簡単すぎて「通りいっぺん」で終わってしまう印象を受ける。

 逆に、あとがきの個人的な証は「圧倒的な恵みに負けたのです」「そこで、私は自分のために生きる権利を放棄し」「心を尽くして信頼する者に力を現される生ける神を経験しました」等々、うって変わって重たい。これではおセンチな印象だけ与えて終わってしまうのではと心配になってしまった。すばらしい証なのだからコッテリやるなら、本文からコッテリやってほしいし、アッサリ行くなら最後までアッサリ行ってほしいと思う。辛口ですみません。

キリスト教とは何か リベラリズムとの対決

2006-06-03 17:22:09 | 信仰書
投稿者:まっち 投稿日:2003/10/16(Thu) 18:53

復帰おめでとうございます。

著者:J.G.メイチェン
訳者:吉岡繁
発行:いのちのことば社
分類:信仰書

『20世紀初期、メイチェンはリベラリズムと真向から戦い、福音的キリスト教を守ろうとした。本書はその信仰的遺産である。』(いのちのことば社の帯文)

原題はChristianity and Liberalismで日本でも昭和8年、30年、51年に出版された名著で、いのちのことば社のリバブックスで復刊されたものです。

神、キリスト、聖書、教会と、キリスト教とリベラリズムを比べ、リベラリズムがキリスト教とは別の所から来たものであることを教えます。ちと論文チックで読みにくいかもしれません。

章ごとにリベラリズムの誤りや危険性について教えられますが、何といっても「真理に真剣であること」の重さを教える本だと思います。
この本の73ページから引用します。

この見解の相違(注 聖餐に関するルターの共存説とツウィングリの象徴説の相違)は、教会に、ルター派と改革派の分裂を生ぜしめた。
それは非常に大きな不幸であった。しかし、彼が聖餐について誤っていながら、この問題をすべてつまらぬ問題だと片づけてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。ルターは聖餐に関して誤っていた。けれどもそれは、彼が誤っていながら、その論敵に向かって、「兄弟たちよ、この問題はつまらないことである。人が、主の食卓についてどう考えようと、実際には大した差はない」というよりもまし
であった。聖餐論で妥協するようなルターは、ウォルムスの国会で「私はここに立つ。私は他に何もすることができない。神よ、私を助けたまえ。アーメン」とは決して言い得なかったであろう。教理についての無関心主義は、信仰の英雄をつくらないのである。(73ページ)

スヌーピーたちの聖書のはなし

2006-06-03 17:21:30 | コマッタヨ
投稿者:librarian 投稿日:2003/10/16(Thu) 10:16

著者:ロバート・L.ショート
訳者:笹野洋子
発行:講談社
分類:入門書

『全米で1000万部突破の名著!!悩み多き人々におくる心の本。落ちこんだとき、さびしいとき、生きるのがつらくなったとき…聖書をひもときながらスヌーピーたちの活躍を読めば、勇気と力がわいてくる。聖書のたとえ話、罪と罰、不安と恐れ、愛と信仰などを語る現代版聖書入門。』(講談社のコピー)

 原題は『The Gospel According to Peanuts(ピーナッツによる福音書)』。ピーナッツはスヌーピーが登場する漫画のタイトル。

 小さいときから聖書の物語を知っていてモチーフに馴染んでいる読者が、スヌーピーのストーリーや登場人物に秘められたキリスト教的な意味を解きあかされるからこの本はおもしろいのであって、そんな背景を持たない日本人にとっては回りくどくてわかりにくいだけだろう。キャッチコピーが言うような「聖書入門」にはなりそうもない。聖書そのものを読んだ方が入門としては早そう。

 致命傷は、原著にない冒頭の解説部分。そこいらのリベラルな聖書事典からの引き写しで、原著者(ショート)が読んだら怒り出すようなものになっている。原著者は知らされていないのだろうか。中身がまだるっこしい以前に、まず冒頭でぶち壊している点が本書の最大の問題と言えよう。

 タイトルで期待させる分、ガッカリ度も最高。本はイメージではなく中身で勝負、ということで、買うと損します。