投稿者:コマッタヨ 投稿日:2004/01/25(Sun) 14:34
映画評と言えばこういうのがありました。映画評もともかく、人間観察(未信者のクリスチャン観察)も鋭いと思いました。
ttp://home.att.ne.jp/blue/yamasita/cinemaindex/2001ocinemaindex.html
2001年 分 日本 カラー
監督:野淵昶 脚本:野淵昶
撮影:三木滋人 音楽:佐藤顕雄
出演:渡瀬恒彦 ナ・ヨンヒ ユン・ユソン 奥田瑛二 渡辺裕之 ジョン・ヨンスク 渡辺哲 ジョン・ウク ガッツ石松 増田恵子 岡崎二朗 金山太一 ミッキー・カーティス 夏樹陽子 誠直也 中村嘉葎雄
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2001/10/5/金 劇場(銀座シネパトス)
観ている時は割と単純に楽しんでいたんだけど、後からオフィシャルサイトのBBSを読んでいたら、やっぱりちょいと引いてしまう気分は否めなかった。ということを極力避けるために本作は、“神様ではなくてカミさん”のためにこの十字架行進をしたと告白させているのではないか。多分それは本当の部分とは違って、実際は本当の本当に神様、イエス様を信仰したゆえの行動だったのではないかと思うのだが、あえてそうしたにもかかわらず、やはりクリスチャンの方々から見れば、これはイエス様に帰依した物語であり、この真実の物語を観て、数多くの人たちが神の愛に触れるのではないかと期待するらしいんである。うーむ、一体、どこを見ているのかなあ、と思わなくもなかったのだが……。多分この映画を観て、クリスチャンになるとか、キリスト教に興味を持つという人はいないんではないか。そして監督も、そういう方向で映画を作ってしまったら、それこそ資金力にモノを言わせて宗教宣伝映画を作り、実際は信者しか観ていない某宗教団体と同じことになると危惧したから、それを避けたのではないか。それにしても、これほどしっかり台詞に言わせ、あからさまに避けていると判るのに、そういう風に感じてしまうのは、やっぱり信仰しているからなのかなあ……。
というわけで、これはノン・クリスチャン、一般的な映画観客にとっては、キリスト教の映画と言うより、やはりヤクザである人間がカミさんの愛によって人間が生まれ変わる物語、と言った方が正しいように思う。カミさんはクリスチャンな訳だが、別に彼女たちの祈りが神に届いたわけではなく、ただただ祈り続ける=愛しているがゆえの、心痛なる心配が、彼らの心に届いたと、こういうわけなんである。祈る、信仰という行為は、愛を描くための象徴的行為に過ぎない。それは、どうしようもない極道、島をかばって刺され、ハンドバッグに入っていた聖書がクッションになったという、一見すればそれこそ神に助けられた現象だとクリスチャンの人ならば感じてしまうかもしれない場面でも同様である。それは神の奇跡ではなく、愛の奇跡なのだ。血にまみれた聖書を見て涙にくれる島は、神に感謝しているのではなく、明らかに妻の愛に感謝しているのだ。そこを間違えてはいけない。
繰り返して言うけれど、それは事実とは多分違う。原作となった元ヤクザでミッション・バラバの方たちは、真に神の愛に触れ、真にクリスチャンになったのであろうと思う。もちろん奥さんの愛、クリスチャンである奥さんの導きもあったとは思うけれど、それは又、別の意味合いにおいてだ。どちらが上とか下とかいう問題でもない。この真実の物語が私たちの胸を打つのだとしたら、それはどんな人間でも救いたもうキリスト教の素晴らしさとか、神の愛とかそんなことではない。それはキリスト教でも仏教でも、あるいは別の仕事とか、友人とか、それこそカミさんの愛とか、何でもいいのだ……一人の人間が、どうしようもなく絶望の淵にまで落ち込んでしまった人間が、全く違う人間と言っていいくらいにまで、生まれ変われる、そのあくまでも“本人”の、“人間”の底知れぬ力に対してなのだ。
それには、元ヤクザというのが、決定的な説得力を持つ。振り子の幅が大きくてわかりやすいという点であって、一般的なサラリーマンとかに置き換えて考えても、一向に構わない。ことに、組織から捨て駒にされて、見捨てられたというくだりは、確かに他に全くつぶしのきかない極道であるという点において、ヤクザというのはインパクトがあるけれども、いわゆるサラリーマン社会において、昨今しょっちゅう見られる風景である。彼らほどの絶望ではないにしても、同じように会社に捨てられ、途方にくれた人たちは、現代の日本には大勢いるに違いない。いわば、これは現代人に向けられた応援歌であって、ヤクザとかキリスト教とかイエス様というのは記号にしか過ぎない。実に普遍的な物語なのだ。
その“記号”は、しかしやはり魅力的である。重要な記号として、韓国人の妻、というのも出てくる。日本と韓国の至極複雑な歴史的背景を考え、その夫がヤクザであり、精神世界のキリスト教が絡んでくるとなると、これはもう、いかに魅力的な記号をそろえるかが大きな問題となる映画的世界においては、勝利は確実である。ちょっと昼メロっぽい造形の二人の韓国人妻が、しかしその昼メロっぽい泥臭さもまた記号であり、あっさり涙を誘ってくれる。彼女らそれぞれの夫であるヤクザ、渡瀬恒彦にしても、奥田瑛二にしても、もともと役者という、さまざまな方向のベクトルを持つ記号的職業の中でも、それを演じる時、いささかも迷うことない、ハッキリとした記号を指し示すタイプの役者である。もう齢50を越え、かつてはシブい魅力で女を泣かせ続けたにしても、そろそろ年貢の納め時であり、しかもダメ押しに組織から捨てられ……という、社会、人生、男という様々な方向からの記号に満ちたキャラクターを、固めまくって演じている。
ことに、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だなあ……と改めて感じさせる奥田瑛二は、全く違う役柄ながら、やはり同じことを感じた、「少女」に続いて、やりすぎと思えるほどの熱演。この人は本当にスタイルが良くって、いっつもこんなイカツイ表情を作っているから判らないけど、実は笑うとかなりのハンサムで、本当にイイ男なの……。その手足の長い、八頭身の骨格の美しさ、女を抱きしめた時にぎゅっという感じが色っぽく出る、その長く美しい指……あー、あー、あーもう、私は実を言うとこの映画を観ている最中ずーっとずーっと奥田瑛二に見とれ続けてニヤニヤしていたのだ。殆ど本筋なんかどうでもいいぐらい。彼が自分をかばって刺された奥さんの枕もとで、彼女から、十字架を背負って歩いてくださいと言われ、それまでのいかつい顔がどこへやらと飛んでしまい、くしゃくしゃの、子供のような泣き顔で、うん、うん、とうなづく場面には、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だあ……と嬉しくなったのであった。
まあ、彼に見とれ続けていたとはいえ、脇キャストの魅力的なメンメンにも、楽しんでいたのだが。何よりヨイのは、民宿、と呼ばれる、民宿屋のオヤジ、渡辺哲。全身に見事な刺青を施した主人公の勇次に、最初は対抗意識で近づき、彼の話を一晩中聞いてすっかりホレこみ、自らついて歩くことを志願する。十字架に車輪をつけることを思いついたのも彼で、いかにもラシくて、チャーミング。彼の奥さんである宿屋を切り盛りする女将、夏樹陽子も、この人はほおんと、幾つになってもチャーミングで、実は日本のメグ・ライアン風?などと思ったりもするのだが。年相応の色香もありつつ、チャーミングというのは、なかなかすごいと思うんだなあ。
教会でのゴスペルシーンで、陣頭指揮を取っていた女性、絶対柴田理恵さんだと信じて疑わなかったけど、キャストに名前ないし、違うんだ……うっそお、ちょっとドッペルゲンガー並みに本人そのものなのに!★★★☆☆
映画評と言えばこういうのがありました。映画評もともかく、人間観察(未信者のクリスチャン観察)も鋭いと思いました。
ttp://home.att.ne.jp/blue/yamasita/cinemaindex/2001ocinemaindex.html
2001年 分 日本 カラー
監督:野淵昶 脚本:野淵昶
撮影:三木滋人 音楽:佐藤顕雄
出演:渡瀬恒彦 ナ・ヨンヒ ユン・ユソン 奥田瑛二 渡辺裕之 ジョン・ヨンスク 渡辺哲 ジョン・ウク ガッツ石松 増田恵子 岡崎二朗 金山太一 ミッキー・カーティス 夏樹陽子 誠直也 中村嘉葎雄
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2001/10/5/金 劇場(銀座シネパトス)
観ている時は割と単純に楽しんでいたんだけど、後からオフィシャルサイトのBBSを読んでいたら、やっぱりちょいと引いてしまう気分は否めなかった。ということを極力避けるために本作は、“神様ではなくてカミさん”のためにこの十字架行進をしたと告白させているのではないか。多分それは本当の部分とは違って、実際は本当の本当に神様、イエス様を信仰したゆえの行動だったのではないかと思うのだが、あえてそうしたにもかかわらず、やはりクリスチャンの方々から見れば、これはイエス様に帰依した物語であり、この真実の物語を観て、数多くの人たちが神の愛に触れるのではないかと期待するらしいんである。うーむ、一体、どこを見ているのかなあ、と思わなくもなかったのだが……。多分この映画を観て、クリスチャンになるとか、キリスト教に興味を持つという人はいないんではないか。そして監督も、そういう方向で映画を作ってしまったら、それこそ資金力にモノを言わせて宗教宣伝映画を作り、実際は信者しか観ていない某宗教団体と同じことになると危惧したから、それを避けたのではないか。それにしても、これほどしっかり台詞に言わせ、あからさまに避けていると判るのに、そういう風に感じてしまうのは、やっぱり信仰しているからなのかなあ……。
というわけで、これはノン・クリスチャン、一般的な映画観客にとっては、キリスト教の映画と言うより、やはりヤクザである人間がカミさんの愛によって人間が生まれ変わる物語、と言った方が正しいように思う。カミさんはクリスチャンな訳だが、別に彼女たちの祈りが神に届いたわけではなく、ただただ祈り続ける=愛しているがゆえの、心痛なる心配が、彼らの心に届いたと、こういうわけなんである。祈る、信仰という行為は、愛を描くための象徴的行為に過ぎない。それは、どうしようもない極道、島をかばって刺され、ハンドバッグに入っていた聖書がクッションになったという、一見すればそれこそ神に助けられた現象だとクリスチャンの人ならば感じてしまうかもしれない場面でも同様である。それは神の奇跡ではなく、愛の奇跡なのだ。血にまみれた聖書を見て涙にくれる島は、神に感謝しているのではなく、明らかに妻の愛に感謝しているのだ。そこを間違えてはいけない。
繰り返して言うけれど、それは事実とは多分違う。原作となった元ヤクザでミッション・バラバの方たちは、真に神の愛に触れ、真にクリスチャンになったのであろうと思う。もちろん奥さんの愛、クリスチャンである奥さんの導きもあったとは思うけれど、それは又、別の意味合いにおいてだ。どちらが上とか下とかいう問題でもない。この真実の物語が私たちの胸を打つのだとしたら、それはどんな人間でも救いたもうキリスト教の素晴らしさとか、神の愛とかそんなことではない。それはキリスト教でも仏教でも、あるいは別の仕事とか、友人とか、それこそカミさんの愛とか、何でもいいのだ……一人の人間が、どうしようもなく絶望の淵にまで落ち込んでしまった人間が、全く違う人間と言っていいくらいにまで、生まれ変われる、そのあくまでも“本人”の、“人間”の底知れぬ力に対してなのだ。
それには、元ヤクザというのが、決定的な説得力を持つ。振り子の幅が大きくてわかりやすいという点であって、一般的なサラリーマンとかに置き換えて考えても、一向に構わない。ことに、組織から捨て駒にされて、見捨てられたというくだりは、確かに他に全くつぶしのきかない極道であるという点において、ヤクザというのはインパクトがあるけれども、いわゆるサラリーマン社会において、昨今しょっちゅう見られる風景である。彼らほどの絶望ではないにしても、同じように会社に捨てられ、途方にくれた人たちは、現代の日本には大勢いるに違いない。いわば、これは現代人に向けられた応援歌であって、ヤクザとかキリスト教とかイエス様というのは記号にしか過ぎない。実に普遍的な物語なのだ。
その“記号”は、しかしやはり魅力的である。重要な記号として、韓国人の妻、というのも出てくる。日本と韓国の至極複雑な歴史的背景を考え、その夫がヤクザであり、精神世界のキリスト教が絡んでくるとなると、これはもう、いかに魅力的な記号をそろえるかが大きな問題となる映画的世界においては、勝利は確実である。ちょっと昼メロっぽい造形の二人の韓国人妻が、しかしその昼メロっぽい泥臭さもまた記号であり、あっさり涙を誘ってくれる。彼女らそれぞれの夫であるヤクザ、渡瀬恒彦にしても、奥田瑛二にしても、もともと役者という、さまざまな方向のベクトルを持つ記号的職業の中でも、それを演じる時、いささかも迷うことない、ハッキリとした記号を指し示すタイプの役者である。もう齢50を越え、かつてはシブい魅力で女を泣かせ続けたにしても、そろそろ年貢の納め時であり、しかもダメ押しに組織から捨てられ……という、社会、人生、男という様々な方向からの記号に満ちたキャラクターを、固めまくって演じている。
ことに、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だなあ……と改めて感じさせる奥田瑛二は、全く違う役柄ながら、やはり同じことを感じた、「少女」に続いて、やりすぎと思えるほどの熱演。この人は本当にスタイルが良くって、いっつもこんなイカツイ表情を作っているから判らないけど、実は笑うとかなりのハンサムで、本当にイイ男なの……。その手足の長い、八頭身の骨格の美しさ、女を抱きしめた時にぎゅっという感じが色っぽく出る、その長く美しい指……あー、あー、あーもう、私は実を言うとこの映画を観ている最中ずーっとずーっと奥田瑛二に見とれ続けてニヤニヤしていたのだ。殆ど本筋なんかどうでもいいぐらい。彼が自分をかばって刺された奥さんの枕もとで、彼女から、十字架を背負って歩いてくださいと言われ、それまでのいかつい顔がどこへやらと飛んでしまい、くしゃくしゃの、子供のような泣き顔で、うん、うん、とうなづく場面には、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だあ……と嬉しくなったのであった。
まあ、彼に見とれ続けていたとはいえ、脇キャストの魅力的なメンメンにも、楽しんでいたのだが。何よりヨイのは、民宿、と呼ばれる、民宿屋のオヤジ、渡辺哲。全身に見事な刺青を施した主人公の勇次に、最初は対抗意識で近づき、彼の話を一晩中聞いてすっかりホレこみ、自らついて歩くことを志願する。十字架に車輪をつけることを思いついたのも彼で、いかにもラシくて、チャーミング。彼の奥さんである宿屋を切り盛りする女将、夏樹陽子も、この人はほおんと、幾つになってもチャーミングで、実は日本のメグ・ライアン風?などと思ったりもするのだが。年相応の色香もありつつ、チャーミングというのは、なかなかすごいと思うんだなあ。
教会でのゴスペルシーンで、陣頭指揮を取っていた女性、絶対柴田理恵さんだと信じて疑わなかったけど、キャストに名前ないし、違うんだ……うっそお、ちょっとドッペルゲンガー並みに本人そのものなのに!★★★☆☆