脳内出血になっても、フツーのおばちゃんに戻りたい

35歳で脳内出血で倒れた「わたし」のリハビリ記録&その後

皆さん、事件です!

2006-10-20 21:59:18 | リハビリ日記
私は、脳内出血で倒れたことを、他の人には言わないでほしいと家族に伝えていました。親戚にも友人にもです。
お見舞いに来てもらっても、右半身が不自由になり、車椅子に乗った姿なんて、誰にも見られたくないというのが正直な気持ちでした。

ところが、ところがです。
父方の親戚のほうで法事があり、その時に父の口からポロリと・・・
父方の母、つまり私からいうと祖母にバレてしまったのです。

祖母は昔から神仏をすごく信仰していました。私も小さい頃は、小豆島などへお参りによく連れて行ってもらった記憶があります。

さて、バレてしまったらしょうがない。
どうなったか。
カンのいい方なら何となくお判りかもしれませんね。

ある日、母が病院へ来て一言。
「おばあちゃんが、あんたの家、お祓いせんとアカンって言うてるよ。
家相が悪いねんて。」
「で、どうせえと?」
「そんなん、いいって断ったんやけど・・・もしお祓いせんかったら、あんたが退院してもまた同じように倒れる、って言うてやねん。」
「は? 脅しやん。お父さんには?」
「お父さんは、はじめっから神さん仏さんは信じないから言うてへんし、あばあちゃんも言うなって・・・」

明らかに脅しやん!
別に、神様や仏様をまったく信じないわけではありません。実際に超能力や霊視で行方不明の人を探したりできる人もいるわけだから・・・

ただねえ・・・何かが違う、何かが。

我が家は新築して3年(当時)。
母いわく、家を建てて3年目っていうのは、結構何かよくないことが起こるらしい。
実際、私の実家も新築3年目の年に、私が複雑骨折で3ヶ月入院てなことがあったもんなあ。

で結局、お祓い自体は悪いことではないので、やってもらいましょうと。
あくまでも ”お祓い” は、ですよ。

その頃(11月半ば)、車椅子を卒業して、杖のみで歩くようになっていました。
そろそろ、自宅で外泊をしてもいいよという話がありました。

ところが!
お祓いが済むまでは、私を絶対家に入れたらアカン!
と、祖母と、祖母が連れてきた”偉い先生”から、お達しが出ていたのでした。
”偉い先生”というのは、40歳半ばくらいの人で、祖母よりも、いわゆる「そういうもの(霊的なもの)」がよく見えるということらしい。
で、お払いは、この”偉い先生”がやってくれることになりました。

私はといえば・・・
外泊許可が出ているのに、帰れないもどかしさ。
なぜ帰れないのかの理由をリハビリの先生に聞かれ
「主人が夜勤で、夜は家にいないから」と苦しいことを言っていたのでした。
夜勤があったのは事実ですが・・・

この話は、まだ続きます・・・

ラジオ体操

2006-10-19 12:48:38 | リハビリ日記
私が入院していた石川病院では、8:00朝食、その後、検温や血圧測定があります。
そして10:00になると
「回復期病棟の皆さん、おはようございます。今日も1日ラジオ体操で元気にはじめましょう」といった内容の放送がかかります。
ベッドから起き上がり、車椅子を含め何らかの形で動ける人は廊下に出てラジオ体操を始めます。もちろん、ちゃ~んとNHKラジオから録音されたラジオ体操の音楽が流れます。
そういやぁ、ラジオ体操なんて何年ぶり? 高校くらい以来?
実際やってみると、ラジオ体操ってよくできてますね。いろんな部分をまんべんなく動かすように考えられてます。

跳んだり跳ねたりするところはさすがに無理なので、その場で手すり(廊下にはぐるっと手すりが付いてました)を持って足ふみをしたり・・・
毎朝、患者さんの様子を見るという理由もあったのでしょうが、何より、少しでもリハビリの助けになれば、という意図が大きかったと思います。
入院して1ヶ月半がたった頃の10月末くらいには、ラジオ体操第一の3番目の腕を廻す体操ができるようになり、看護師さんにびっくりされました。

そんなある日、「左の生活になるでしょう」と言った主治医の先生が、ラジオ体操の途中に廊下を通りかかりました。
先生「足、ずいぶん動かせるようになったんやねぇ」
わたし「はい。これも」
そう言って、先生の目の前で右手の指を曲げ伸ばししてみせました。
「!?」
まさしく先生はこんな感じ。
「ずっ、ずいぶん手も動くようになって・・・」
「はい、おかげ様で」

やった~! ちゃ~んと、右でもモノがつかめるようになったんだよ~
だけの生活ではなくなるんだよ~

私にしてみれば、主治医の先生の「左の生活になる」という言葉が、バネになったんですね。いい意味で。

うれしかった言葉・・・

2006-10-18 19:44:17 | リハビリ日記
言語聴覚士という資格は、平成9年に国家資格として認められたそうです。
したがって、理学療法士や作業療法士の人数と比べ、非常に少ないそうです。したがって、リハビリを行っている病院でも、言語聴覚士がいないという病院がまだまだ多いようです。
脳内出血で右が不自由になり、おそらくもう楽器は吹けないだろうと、自分なりに考えたとき、言葉だけは失いたくない、本当に強くそう思いました。
せめて言葉が元に戻れば、司会という形で吹奏楽に関わっていける・・・。

で、言語のりはびり。
右の唇・顔面にやはりシビレ。
あ・い・う・え・お と大きな口で言いながら鏡を見ると、右の口角が下がり、顔全体が左右対称じゃない・・・
変な顔・・・
そりゃあ、もともと美人じゃないから、今更変な顔というのもおかしいとは思うのですが、右と左の顔の動きが違うんですもの。
やはり、(一応?)女としてショックでしたね。

そして、舌の先を口の中の上あごと下あごに交互につけるという動作。不思議なほど、これが上手くできない。
ろれつがまわらない、というのはこの舌の動きがうまくいかないから、というのが原因。
確かに、ラ行・マ行・ハ行などがしゃべりにくい。
らりるれろ と言ってるつもりが、どう聞いても だでぃどぅでど。
だから”それぞれ”なんていう言葉、舌噛んじゃいます。

でも、言語のリハビリは楽しかったですよ~。
毎回、”おしゃべり” が大半。
T先生いわく・・・
「実際に口を動かしてしゃべることで、舌や唇の筋肉が動きを覚えていく。つまり、何でもいいからしゃべることがリハビリなんやで」
だから、お互いの子供のこと、先生が事故に遭うまでやっていた野球のこと、私の音楽や司会のこと・・・本当にたくさんのことを話しました。
そんな中で、T先生がぽつり。
「大丈夫。司会できるようにしてあげる。できるようになるから。」

ほんと? ホント?
信じていいの?

リハビリで、いわゆる ”滑舌(かつぜつ)”をやるようになったのはこの頃から・・・そう、アナウンサーが「あめんぼあかいなあいうえお」ってやる、アレです。
あと、”外郎売(ういろううり)”もやりましたね。
まるで、かつて通っていた、アナウンススクールのよう・・・

でも、これで目標がまた1つできた!
司会で復活






敵を知り、自分も知る

2006-10-17 21:43:19 | リハビリ日記
Dr.コトーを見て気付いたこと。
私ってそういえば、自分の頭ん中がどんなふうになっちゃったか、CTの写真も何もみてないんじゃないの? ってこと
周りのいろんな人からは、脳内出血で云々・・・という話は聞いたけど、テレビのドラマでよく見る、脳の断面図(!?)は見てない! 見せてもらってない。

「私・・・、まだ一度もCTの写真見てないんですけど・・・」
「えーーーっ、ホント??」
リハビリの先生方は、みんなして物凄い驚き。

というわけで、見せてもらうことにしました。

1週間に1度、循環器センターから脳外科の偉い先生が来られていて、その先生に直々に話を聞くことになりました。

さて当日、再度CTを撮り、いざ診察室へ。
ちょっと怖そうな先生。だけど質問にはきちんと答えてくれました。

京都で倒れた直後に撮ったCTと、今日撮ったCTを並べて、現在がどういう状況かの説明をしてくれました。

始めて見る私の脳の白黒写真。
この白い部分は何だ?
出血した部分は、この白くなってるところ。で、今は徐々に吸収してきているということ。
出血した部分が運動神経にダメージを与えていなかったので、徐々にだけれど手足が動かせるようになってきたこと。これがもし、運動神経にダメージを与えていたら、一生車椅子の生活になっただろうこと。
そして、シビレについて。
中枢神経にダメージが少しかかっているようなので、シビレが今後ひどくなるかもしれないこと。そして、シビレはおそらく一生残るだろう事
他に脳梗塞等は見当たらないので、ひどくなっているわけではないこと。シビレがキツく出てきたために、ひどくなったように感じているだけだということ。
あと、これは「脅し」に近いかも

血管は左右対称です。同じように仕事してます。つまり、左が出血したということは、右の血管も同じように傷んでいる可能性大です。今度右が出血したら両麻痺の可能性があるんですよ! 血圧の管理だけはきちんと!

この一言はききました。
両麻痺・・・考えたくない・・・

この日、私は、自分の現在の状況をはじめて納得して理解しました。

今の自分を受け入れなければ。
で、受け入れて、これからどうするかが問題。

リハビリ頑張ろう

通勤途中で

2006-10-14 20:05:06 | 今日の風景
朝、普通より少し早めに家を出て、通勤途中にあるコスモス畑に立ち寄りました。
ほかに車が1台止まっていただけで、思う存分コスモスの花の中を歩き、満喫しました。
きれいでしょ~。
小高い丘を上ったところで、目の前一面にコスモス畑が開けます。
神戸新聞の夕刊の1面に写真が載りました。
なんだか、甲子園球場の2.6倍もの広さだそうですよ。

こんな風景を、素敵だと思えることに感謝ですね。
生きててよかった



Dr.コトー診療所

2006-10-13 14:14:18 | リハビリ日記
このタイトルでピンときた方はすごい!
昨日からまた始まりましたね、ドラマ。
すごく楽しみにしてたんです。

2年前、入院しているときに、2夜連続で「Dr.コトー診療所2004」が放送され、私も病院で見ました。
9時消灯なのに、こっそり(でもない・・・みんな見てるのです)TVをつけ、1日目の放送を最後まで見ました。
最後のほうで、彩佳(柴咲コウ)のお母さんの昌代(朝加真由美)が脳内出血で倒れるシーン。2年前、見た方は覚えていらっしゃいますか?

私はもちろん覚えています。忘れることはできません。
体の右側を下にして、台所で崩れるように倒れる・・・。

自分のこととダブってしまったんです。昌代も右麻痺なので・・・。
勝手に涙が出ました。
思い出し涙でしょうか。自分が倒れた瞬間の映像が目の前に現れました。

2日目の夜。昌代が倒れてからの物語でした。
TVが霞んで、あまりよく見えませんでした。(涙涙
倒れたこと自体が、自分のことと重なってしまう。そして、周りの人たちに、こんな思いをさせていたのかという申し訳なさ。そして何より、リハビリをしてどこまでよくなるのかという不安・・・。

翌日、リハビリができなくなりました。

ご飯も喉を通らず、TVすら見る気がしない。
ベッドから起き上がることもできないくらいのショックでした。
自分の状態を客観的に見てしまった、自分で自分の今の姿を見た、という感じです。
あと、今まで自分が気づいていなかったことに気付いてしまった・・・。

右半身の麻痺は手足だけでなく、味覚もそうだとういうこと。
左側の舌で味を感じていただけだったんですね。右側だけで食べ物を食べると、何も味を感じない。この時はじめて気付きました。
そして、この頃、右半身にきついシビレを感じ始めていました。
これが「どこまでよくなるのか。逆にひどくなっているのではないか」という不安につながったわけです。

その日は結局リハビリはお休み。
ショックから立ち直るには、少々時間が必要でした。


答え

2006-10-12 22:01:41 | リハビリ日記
今日、会社の帰りに立ち寄ったコスモス畑で見つけました。
コスモス畑、とってもキレイだったんだけど、写真が上手く撮れてなくて・・・。また今度、お披露目しますね。

さて、リハビリの続き。
翌日、理学療法士のA先生・作業療法士のM先生・言語聴覚士のT先生3人に、例の質問をぶつけてみた・・・。

「若いから大丈夫って、どういうこと?」

若いからって言われても、若いから何がどう大丈夫なの~?っていうのが私の本音&疑問。

で、3人の先生の話をまとめると・・・
(素人の私がわかる言葉で説明してくれたので、少し極端な言い方もあるかもしれませんが)

まず、脳内出血とは?
脳の中の血管に、高血圧などの理由で負担がかかり、血管が破裂して出血すること。それにより、脳の細胞に血液が行かなくなって、脳細胞が死滅してしまうこと。
じゃあ、死滅した脳細胞は再びよみがえるのか?!
答えは、NO。一度壊れた脳細胞は元には戻りません。
じゃあ、なぜリハビリをするのか?
脳卒中の場合、壊れた細胞は元通りにはならない。そのかわりに、壊れた細胞の周辺の違う細胞が、壊れた細胞と同じような働きをするようになる。その周辺の細胞に、壊れた細胞の働きをしてください、と覚えさせるために、何度も何度も同じリハビリをするのです。
たとえば、壊れた細胞が
「右手を動かしなさい」という指令を出す細胞だったとしたら、「右手を動かす」という仕事を、別の細胞が指示を出してくれるようになるわけです。
そこで、この周辺の細胞というのが「若い」ということに大きく関係するわけです。正直なところ、お年寄りの方は、かわりの働きをしてくれる元気な周辺の細胞が残り少ないわけです。年齢が若いほど、たくさんの細胞が生きていているというわけです。つまり、代わりの働きをしてくれる周辺の細胞がたくさん残っているのよ。

はは~ん。そういうことか。やっとわかった。
やっぱり、わからないことは聞いてみるもんだ。


足のリハビリ

2006-10-10 17:57:32 | リハビリ日記
足のリハビリも手と同様に、ベッド(のようなもの)の上に横たわり、理学療法士のA先生が、ひざを曲げ伸ばししたり、足首の関節をゆっくりと動かしてくれたりします。
そうしているうちに、A先生が、私の足に負荷をかけてくるのです。どういうことかというと・・・
ちょうど「むこうずね」のところをA先生が手で押さえ、それに対抗して私が足を持ち上げるというもの。
このA先生、すごく小柄なのに結構な力。最初は、ほんの10センチくらいしか持ち上がりませんでした。しかも、そんな少しの量を、ほんの10回持ち上げただけで、ものすごく疲れる!
そのうちハードルはどんどん高くなるわけです。10回が20回に、10センチが20センチに・・・。
次にバーを持って立つ練習。ホントに最初は立つだけで精一杯。
そのうち、装具を付けて、杖を持って歩く練習。杖といっても、先が4つにわかれた、安定感のいいやつです。右手は麻痺しているので、杖は左手で持ちます。杖を1歩前に出してから、無事な左足を出し、それに続いて右足。1歩といっても最初はほんの10センチくらいから。徐々に歩幅を大きくして慣らしていくわけです。
ひとまずリハビリルームを1周。あ~、疲れたあ。これが本音。1週なんて50メートルあるかないかだよお。まあ、リハビリ室では、他のたくさんの人がリハビリしてるから、それを避けるのに気疲れしたというのもあるかな。
そのうち、1本の杖になりました。最初はどうしても杖に体重をかけすぎて、バランスを崩しこけそうになることも多々・・・。少し慣れてくると、ゆっくりではありますが、何とか1本杖でリハビリ室を1周できるようになりました。もちろん、いつこけても大丈夫なように、A先生が私の後ろをぴったりくっついて歩いてくれます。
その頃、私がリハビリしている横で、40歳半ばくらいの男の人がリハビリしてました。聞くと、脳梗塞で運ばれたとか。その男性はどうやら左半身が不自由になったようなのですが、なんと! 私の横でうさぎ跳びしてる へ?
「私もうさぎ跳びできるようになるかなあ」と私がポツリ。
A先生「大丈夫よぉ。若いから。できるようになるよ。」
ん ん ん? 出た、「若いから」攻撃。なんで若いと大丈夫なんだ???
私、うさぎ跳びどころか、歩くことすらあまならないのに。第一、いまだに車椅子生活だよお。ホントかあ?

よっしゃ、明日聞いてみよう。うさぎ跳びに近づくために・・・


手のリハビリ

2006-10-08 20:31:41 | リハビリ日記
回復期病棟の1階がリハビリルームになっていました。1階から5階まで吹き抜けになっていて、各階からリハビリルームの様子が見えるようになっていました。
最初のころは毎日同じことの繰り返しでした。まず簡単なベッドのようなものに横たわると、作業療法士のM先生が、指を1本ずつゆっくりと曲げたり伸ばしたり。次に腕。まずひじを曲げたり伸ばしたり。続いて肩。肩は”亜脱臼”になっていたらしく、右肩が下がっていたようです。亜脱臼というのは・・・
「脳障害や頸椎疾患などにより肩関節周囲筋の筋力が低下し、上肢(腕)の重さの懸垂ができなくなったとき、上肢の重量により上腕骨が下垂します」ということです。
そして、毎日少しずつ自分の力で曲げたり伸ばしたりできる量が増えてきました。肩もとりあえず上にあがるようになってきました。けれど、すぐにだるくなって降ろしてしまいます。
筋力が弱っているので筋力アップのために、テーブルの上で”ぞうきんがけ”。両手でぞうきんを押さえ、前後に何度も机を拭く動作をします。次にまるく円を書くようにぞうきんがけの動作をします。
また、板に20個くらい穴が開いていて、その穴に円柱形の積み木を差し込んでいく。たったそれだけのことなのに、2歳くらいの赤ちゃんでもできそうなのに、私には出来ない。手首や指先、指の関節が麻痺のせいで上手く使えないからです。太い積み木でできるようになると、徐々に穴と積み木も小さくなりました。
また、粘土の中に埋まっている小さなビーズを、右手で取り出し、また今度は右手で粘土の中に埋め込んでいく。右が麻痺すると、」どうしても左ばかり使うことが多くなるので、まず手のひらの筋力を衰えさせないようにということ。また、感覚がないので、ビーズという異物で感覚が少しでも戻れば、ということだそうです。
そうしているうちに、M先生が「何か手芸してみる?」とアドバイスしてくれました。リハビリルームでリハビリをしている時間以外はフリーなので、その間に何か訓練になることがあればと薦めてくれたのです。私はビーズで作るのれんに挑戦しようということになりました。いきなり小さいビーズでは難しいので、直径7ミリくらいのものにしました。「スキルスクリーン」というもので、30センチくらいの糸に図案ににあわせてビーズをつないでゆき、1本1本は何の模様かわからないけれど、50本くらいをきれいに並べると1つの模様になるというものです。私は子供のためにクマちゃんの模様にしました。針と糸とビーズを使うので、指先の細かい訓練にはもってこいでしたよ。
少しリハビリに楽しみが見えたころです。

世の中狭い

2006-10-06 18:28:40 | 友達
6月に披露宴の司会をした友人(これが男の子なんだな~)は大学時代の友人です。
もうお気づきの方もあるかと思いますが、私はずっと吹奏楽をやっていました。クラリネットです。
ぼくの大好きなクラ~リネット パパから貰ったクラ~リネット
まあ、それはさておき。大学でももちろん吹奏楽部に入っていた私は、京都府大学吹奏楽連盟の役員をしていました。連盟に所属している各学校に1人ずつ役員がいるわけです。当時は10大学くらいあったと思います。(うーん、記憶が定かではない) で、毎年5月に連盟に加盟している大学の吹奏楽部のメンバー(選抜ですが)で、合同演奏会をするのです。この際、連盟役員が中心となり、演奏会の企画・運営を行うわけです。
吹奏楽の演奏会ですから、当然のことながら指揮者が必要です。その指揮者も各大学の学生指揮者が合同演奏会の指揮者を務めます。したがって、連盟役員と指揮者は他大学でもしょっちゅう顔をあわせることとなるわけです。
このとき、私が担当していたステージの担当指揮者が彼でした。同級生ですから20歳のときですね。私が持った第一印象は・・・年のわりに落ち着いてんなあ。
彼と知り合ったのはその時です。それまでは全く知らない人。
演奏会が済んでからも、同じステージを担当していた他のスタッフも交えてしょっちゅう遊んでましたね。夜中にラーメン食べに行ったりとか・・・。下宿してましたから・・・。
卒業後、彼は神戸の実家へ戻り就職。そして、彼の中学時代の友人が主宰する一般吹奏楽団に入り楽器を続けていました。
私は大阪の会社へ就職、西宮市に引越し。その時に、彼の所属する吹奏楽団に誘ってくれたんです。その時に、新婦に出会いました。
おわかりですか? 新郎新婦ともに友人だったんですよ。友達の友達はみんな友達だ!っていうのがありましたけど、まさにそれ! 彼女もクラリネット吹きです。
もっと驚いたのは・・・彼女は、理学療法士なんです。
だから、私がこの病気だった(退院してから初めて伝えたのですが)本当に心配してくれました。なんだか、私が入院していた病院に、先輩の理学療法士がいると聞き、またまた驚き。世の中って狭いですねえ。

というわけで、じつはこの年の12月に行われる、彼と彼女の所属する吹奏楽団の演奏会の司会を頼まれていたわけですよ。なのに、なのに・・・。
9月に倒れて12月に復活なんて、そうはいきません。
てなわけで、取り急ぎ、病名は伝えず、入院したことをメールで伝え(携帯のメールって便利だよねぇ)司会を断りました。