脳内出血になっても、フツーのおばちゃんに戻りたい

35歳で脳内出血で倒れた「わたし」のリハビリ記録&その後

よく聞かれたこと

2006-10-03 18:28:22 | リハビリ日記
「仕事で司会やってんの?」
入院して、先生・看護士さん・介護士さんなど、本当に多くの人に聞かれたのがこれ。倒れたときが、演奏会のリハーサル終了直後で、その司会に行っていたという情報から、当然のごとく私の仕事は司会業だろうという想像になったわけです。
でもでも、決してそうではありません!

私は学生のころ、アナウンサーか声優になりたいと思っていました。でも、太っちょで、容貌重視のアナウンサーなんて高嶺の花です。じゃあラジオ、と思ったけれど、アナウンサーという職業事態が難関ですから・・・。
で、私は大阪の旅行会社に就職しました。アナウンサーになりたいと思うくらいですから、人前で話すのはそんなに苦もなく、旅行の企画・添乗・事務などなど、旅行業に没頭していました。
ある日、電話でお客さんと話していると、お客さんが「ねーちゃーん、声だけ聞いとったらムチャクチャ美人やなあ。(関西弁でどうぞ)」と電話の向こうで一言ぽつり。果たしてけなしているのかほめているのか・・・。
これだけがきっかけではありませんが、やっぱり声を生かせる仕事がしたいなあ、と思いはじめました。
そこで、大金をはたいて、仕事が終わってから、アナウンススクールに通い始めました。でも、アナウンサーになるためではありません。結婚式の司会や、イベント・演奏会の司会など、いわゆるMC(Master of Ceremony)を目指したわけです。
そこでは腹式呼吸や滑舌など、基礎からみっちり教えてもらいました。
で、そういった事情を知った大学時代の友人が演奏会の司会を依頼してきたというわけです。
だから仕事ではないんです。仕事は別に持ってましたし・・・。ほとんどボランティア状態だったんですよ、司会は。

ということで、私は転院先の病院を選ぶときにこだわったのが、言語聴覚士の先生がいること、という条件でした。無理かもしれないと思いながら、言葉だけは失いたくなかったんです。


ささやかな望み

2006-10-03 00:05:38 | リハビリ日記
月末月初は、仕事のほうでも、家のことでも、何かといそがしくて、ここ何日か更新できませんでした。残念!

さて、転院翌日にはもちろん手足のリハビリもありました。

まず、手のリハビリ。作業療法士のM先生。女の先生で、見た感じは20代前半。すごくおっとりした話し方をする人で、癒される~という感じ。
「京都の病院ではどんなリハビリやってた?」
「左手でお箸を持つ練習だとか、左手で字を書く練習・・・」
「そっかあ、もう左で訓練してたんだあ。どうなんだろうなあ・・・。○○さん(私の名前です)はどうしたい?
この瞬間、私はおいおいと泣き始めてしまいました。胸につかえていたものが次から次へと出てくるという状態。
「ホントは右手でご飯食べたいし、右手で字も書きたい。うっ・・・」
てな具合に、心の中では左手の訓練をすることに抵抗を感じていたのが溢れ出したわけです。主治医の先生に「左の生活になりますね。」と言われたのがどこかに引っかかっていたというのもあります。
「じゃあ、右手でやろうよ、ねっ。」
M先生は、当たり前のように言ったんです。
病院ではとかく、こうしなさい、ああしなさいというような指導や訓練がほとんどだと思っていた私には、目からうろこ状態でした。
転院初日に「どうなりたい?」と聞いた看護士さんじゃないけれど、今度は「どうしたい?」ですから・・・。素人が思うことだから気にしないでいただきたいのですが、患者の望む治療というのは、こういうものも指すのじゃないかなと考えてしまいました。

足のリハビリは、理学療法士のA先生。女の先生で、20代後半かなという想像。
「元気になったら何したい?」
まただわ、また私の希望を聞いてくれる・・・。
「スキーしたいなあ。」
きっと、A先生にしてみれば、なんて無謀な希望を言うとるんだ、コイツは、と思ったに違いありません。でも、「頑張ればできるようになるって、ねっ。」これもサラリと言われてしまいました。

まだこの時点でもわかってなかったんだよね~、脳内出血の後遺症ってものを。

何はともあれ、3人の力強い先生方に支えられて、私の姫路でのリハビリ生活が始まりました。