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患者体験記 全文

2018年05月15日 | 闘病記
白血病患者体験記を書き、「神奈川骨髄移植を考える会」の会報誌『虹』(150号)に掲載されました。
多くの反響をいただき、感謝いたします。
うかつにも、自分のブログに載せていなかったので、ここに全文を掲載します。

 ☆☆☆

【色のない病室で私を救ったいくつかのもの】

「患者体験談を書いてもらえませんか」
そう言われたのは、クリスマスも近い年の瀬のこと。

当時の日記や治療経過資料を元にすれば何とかなる か、と気楽な気持ちで引き受けた。しかし、6年前の 自分と向き合うのは容易ではなかった。
まず、私は元々患者ではなかったことを申し上げた い。ドナー登録説明員として活動する便宜上「元患者」 が肩書のようになっているが、本当は言いたくはない。 子供の頃は風邪にもインフルエンザにもかからず元気 いっぱいであった。学生時代は運動部に所属、地区大 会で優勝し東京代表になった。治療中「心臓が強いで すね」と言われ「健康が取り柄なんです」と、笑顔で 応えた。唖然とする主治医を見て、私は自分が患者で あることを自覚したのである。
「急性リンパ性白血病」と診断されたのは、2012 年 4月。ゴールデンウイーク前の穏やかな日だった。ひ どい貧血のため、すぐに輸血が始まった。本来なら即 入院のところ、空きベッドがないため家に帰されるこ とになった。一晩、家に帰ることができるとは、なん て幸せだろう! 輸血を終えて病院の外に出ると、昼 の穏やかさから一転、前が見えないほどの激しい雨が 降っている。義両親が車で迎えに来ていた。義父は無 言で微笑み、義母は駆け寄って私の手を握った。
全体の治療は、5期にわたる化学療法と骨髄移植で ある。
最初の化学療法「寛解導入」は、準無菌室にて1か 月半ほど。ステロイドと5種類の抗がん剤を大量投与 され、体はまったく動かなくなった。時々、東日本大震災(2011.3.11)の余震が起こった。有事の際、自分 は真っ先に死ぬのだろうと思った。テレビのニュース 番組では、金環日食に湧く人々の様子が流れていた。

抗がん剤オンコビンの副作用で、指先の感覚を失っ た。幼い頃から習ってきたヴァイオリンが弾けるか心 配になり、看護師に聞いた。
「指は元に戻りますか? 私はヴァイオリンを弾くの ですが」
「それはもう無理だと思います」
「まさか、2度と弾けないなんてことはないでしょう」
私が笑うと、看護師は黙って首を振った。
寛解は成功した。
しかし、移植は必要だという。都内のセカンドオピ ニオン、九州のサードオピニオンでも同じ診断結果で あった。家族とは白血球のHLA型が合わず、骨髄バ ンクに登録した。移植前に卵子を保存するか否か、選 択しなければならない。治療は選択の連続である。

第2期の化学療法では命の危険にさらされた。副作 用で白血球数がゼロに近い中、院内感染により肺炎を 発症したのである。
仕事中の夫が呼び出された。
「会話ができるのは今晩が最後でしょう」
医師は無表情のまま、説明を続けた。
「集中治療室へ移動し、喉に穴を開けて呼吸器をつけ ます。もし肺炎が治ったとしても、白血球数増加に伴って多臓器不全になるでしょう。白血病治療はここま でです」
その時私は、男泣きする夫を初めて見た。
この人にこんな顔をさせてはいけない。なかなか帰 ろうとしない夫を無理やり家に帰し、私は私の闘いを すると決めた。自分にできる最善は、その夜を生き抜 くことである。その後、41 度超の熱が 2 週間続いた。 熱が上がる時、私の体は紫色に変化したという。そば で見ていた夫はどんなに恐ろしかっただろう。
私は命を取り留めた。当時、もっとも強いと言われ た抗生剤バンコマイシンのおかげである。(現在はさ らに強力な抗生剤があるらしい)しつこく襲いかかる サイトメガロウィルスのため入院期間は伸びたものの、 その後の白血病治療に影響がなかったことは奇跡的で あった。
このころの私を勇気づけたのは、ロンドンオリンピ ック。選手たちの涙や美しさに心が震え、生きて次の オリンピックも見たいと思った。これを書いている今 は、冬季平昌オリンピックが開催している。選手たち に「感動をありがとう」と伝えたいのは、私だけでは ないと思う。

話を元に戻そう。
肺炎の危機から脱する頃、5 人のドナー候補者が選 出されたことを聞いた。ただし、すべての型が一致す るのは一人だけだという。主治医は言葉を選びながら も、感触としては悪くない、というようなことを言っ た。夫と相談し、卵子は保存しないことに決めた。
骨髄移植の日は 2013 年の大寒の時期と決まった。 唯一のドナー候補者、24 歳(当時)の男性がすぐに行 動を起こしてくれていたのである。
一時退院中に年末年始を家で過ごすことが出来たの は、幸運だった。体は不自由でほとんど歩くことがで きず、おばあさんのように動きは遅く、食べるものも 限られている。しかし、夫は面白いことを言って一日 一回笑わせてくれる。主治医以外、家族にも友人にも 内緒で、夫婦で旅行をした。「移植なんかやめて2人 で逃げちゃおうか」という夫の言葉が忘れられない。 私は初めて泣いた。子供もできず、迷惑ばかりかけて ごめん、と。
いよいよ骨髄移植。抗がん剤と放射線による前処置 は 4 日間かけて行われた。
もっとも辛い時期、アメリカ・ヒューストンから星 出宇宙飛行士の写真とサインが届いた。宇宙好きな私 の為に、知人を通じて JAXA の方々が動いてくれたの である。また、難病であるピアニストの友人が、自ら 演奏と録音をしたCDも届いた。病のために筋力が衰 えベストな演奏ではないと彼女は言ったが、私は大勢 の医師や看護師、家族とともにそのシューベルトを聴 きながら移植にのぞんだ。
隣室には生後 10 カ月の男の子がいた。首から挿入 された点滴用の針は、体が小さいために腕にまで到達 している。「生」を主張する命の塊のような泣き声に、 何度励まされただろう。心の中で、今日も元気いっぱ い泣いてるね、と語りかけた。
新しい骨髄が入ると、顔面が崩壊し、手の平や足の 裏の皮膚が剥がれた。ろれつが回らず、手は震え、食 べることも飲むこともできない。
「外からは見えないけれど、体内ではものすごいダイ ナミズムが起こっているんですよ」
と、医師は言った。

ゴッホの絵のような幻覚を見た。めくるめく原色の 世界。モルヒネの離脱症状ではないだろうか(臨床報 告がないと医師は否定するが)。色のない完全無菌室 において、有り難いくらいの芸術であった。
夫は毎日、仕事帰りに見舞いに来た。滅菌のため一 枚一枚、アイロンがけしたタオルや着替えを持ってく る。約1年に及ぶ入院期間のうち夫が来られなかった のは、サードオピニオンのため日帰りで九州へ行った 時と、自身の体調不良で無菌室に入室できなかった時 の2回である。ひどい寝不足と疲れのために、病室や ロビーで寝てしまうことも少なくなかった。

桜が咲く頃、すべての治療が終わった。理学療法士 の方に付き添われ、久しぶりに病院の外へ出る。雨上がりの澄んだ空気。海から吹く柔らかく湿った風。世 界は色彩に満ちていた。
退院後、ドナーの男性に感謝の手紙を送った。まも なく、丁寧な文字で書かれた三枚の手紙が届いた。 20歳でドナー登録をした決意、候補者となってから 提供にいたるまで、そして見ず知らずの私への激励の 言葉……。私は、この手紙を星出宇宙飛行士の写真と ともに額に入れ、宝物として今も大切に飾っている。
ヴァイオリンは、一からやり直すつもりでレッスン に通った。そして移植の翌年、音楽を届けてくれたピ アニストの友人とともに発表の舞台に立った。温かく 小さな音楽会。指の感覚は完全に元に戻った。これを 機に、私は今も音楽活動を続けている。
また昨年、音楽と兄弟間の移植を描いた小説『雨 音のプレガンド』を執筆。「プレガンド」とは「祈る ように」という音楽用語である。
私を救うため行動を起こしてくれた全ての方への感 謝と、今も病気と闘う方々への祈りをこめて。
ペンネーム:毛津アルト 2018.2.22

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2 コメント

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Unknown (チロル)
2018-06-23 07:16:14
すばらしいですね
チロルさん (liberta)
2018-06-23 09:47:16
長文、読んでいただきありがとうございます

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