富と物質と快楽の果て

 「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。
 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
……
 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝2:4-11)

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 この伝道者の書(コヘレトの言葉)の作者は、ソロモンだろう。 「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。」(伝1:1)を、私はほぼ額面通りに受け入れている。
 彼は、知恵のある人だった。
 知恵によって国を興隆させ、「ソロモンの栄華」(マタイ6:29)にまで至った。
 だが、そこでおぼれて、妻700人、そばめも300人などという王様に堕してしまう。
 さくじつ「マモニズム」という語句を用いたが、聖書の中でソロモンほどマモニズムを地で行った人もいないだろう。
(註:アラム語で「富」を「マモン」という。)
 そのソロモン没後、栄華を極めたイスラエル王国は、あっという間に瓦解して南北に分裂する。
 これらのことは、史書に記されている。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

 この箇所に至っては、老ソロモンの絶望に満ちた叫びという感すらある。
 ソロモンはダビデと違って、神に頼まずもっぱら自らの知恵に頼って成功してしまった。
 そこでおぼれてしまい、あれこれマテリアルでこころ満たそうとするのだが、やはりどこにも満足など見いだはせず、遂に神を見いだすことが叶わない老いた自らに思い至る。
 彼は自分の父ダビデが神を見いだして幸いだったのを見てきているので、「あなたの創造者を覚えよ」という言葉は、より切実なだろう。
 「俺のようにだけはなるな! お前は神を見いだせ、それもできるだけ早く!」、そのような絶叫のように聞こえるのは私だけだろうか。

 ダビデはなにしろ、あれだけ波瀾万丈の人生、その一生を、神と共に歩んだ。
 というよりか、幾度も裏切りに会うダビデは、神に頼るほかなかった。
 そして神を見いだしたダビデ。
 対して天下太平、繁栄の浮き世の中でマモニズムに身をやつし、気付くと神をついに見出せず、絶望的に叫ばざるを得なくなったソロモン。
 裏切りに次ぐ裏切り、周り中皆が敵、そのさなかにあって満たされていたダビデ。
 対して、1000人の女、あまたの部下、子どもたちの中に囲まれ、それにもかかわらず虚しさでいっぱいだった老ソロモン。
 「何の喜びもない」、この言葉は、ずしりと重い。

 この「伝道者の書」(コヘレトの言葉)という書物は、マモニズムに首をつっこんでもそこには見事に何もない、ということがはっきりわかれば「ご卒業」、そういう類の書物だと思う。
 そして「卒業」できるかどうかが、「いのち」についての大きな分水嶺なのである。

 「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

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[付記]
 本日の記事の履歴は以下の通りです。
   1版 2006年 9月16日
   2版 2007年 7月21日
   3版 2008年 6月28年
   4版 本日

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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 イエスが行った山上の説教の中での一節。
 長い間、私はこの箇所の意味が全く分からなかった。
 今も分かっているとは言いがたい。
 それでも、こういうことでは…? というのを書いてゆこう。

 「目」というのは、「全身」へと光を導き入れる採光窓のようなものだ。
 目が明るければよく見えて全身が明るいし、目が暗ければ全身は暗い。

 次にイエスはこう仰る。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。
 今まで用いてきた「全身」ということばではなく、「あなたのうち」という言葉が用いられている。
 だから、採光窓としての目の話から切り替わっている。というより、目の話は単なる導入にすぎない。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが光放たなければ、その暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うと、ニコデモ、彼がこの暗さに絶望している。
 いや、その点ではどの人もニコデモとなんら変わるところはない。
 その暗さにすら気付かないだけだ。

 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が、内側から輝く。
 内側から輝くいのちの光が、体内を明るく照らす。
 イエスは、すべての人が失ってしまっているこの「いのち」を与えるために、この世に来られた。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月18日付記事に筆を入れたものです。

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偽善者

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)

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 偽善というと、ここ最近ではアグネス・チャンを思い起こす。
 あれの偽善ぶりといったら、たいしたものだ。
 ただ、その気持ちは理解できる。
 絶対的弱者の上に立つ形になるので、頼られて自分の存在感を発揮できて、あれはとても気持ちがいい。「いい人」にもなれる。
 だが、弱者を真に思っているわけではなく、弱者を愛しているわけでもない。
 自分のみのためで、偽善たるゆえんだ。
 アフリカの人々は、ついに完全に援助漬けに陥ってしまった(あれは一体どうするのだろうか)。
 ボランティアは援助ビジネスへとたやすく堕してしまう。

 「父の報い」は恵みによるので、人目に付くところで施したか、隠れたところで施したかとは異なる話だ。
 だが、施しとか善行というのは、自分の気持ちにすら隠れたところでやらなければ、たやすく偽善に陥ってしまう。程度の差はあれ、誰もが偽善者なのだ。
 だが、その偽善者の上にも恵みは降り注ぐ。
 そのとき彼は自分の内に偽善を認め、赦しの十字架の前にひざまづくのである。

 完全に行うことのできる人などいない。行いで父から報いを受ける人など、いないのである。

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自分の敵を愛せよ

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

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 この世には、神の目に見て「良い人」と「悪い人」とがいる。
 「良い人」は義と認められ天に迎えられ、「悪い人」は不義のためにゲヘナへと投げ込まれる。
 だが、今のところは、「悪い人」にも「良い人」にも等しく太陽が昇り雨も与えられる。
 だから、とりあえず今は敵も味方もない。
 ゆえに神の平等に学ぶとき、「自分の隣人を愛」すのであれば、その延長線上として当然「自分の敵を愛」することになる、これが神の完全な秩序・律法なのである。
 それで、自分の敵をも愛し、それどころか自分を迫害する者を最も愛してゆく。それでこそ隣人愛を全うできる。

 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 つまり、律法は神の完全さを人間に突きつける。
 イエスを通した律法は、そこまで徹底したものなのである。
 だが、この律法を行おうと挑み続けても、結局神の完全には到底近づけずに、とうとう倒れる日が来ることだろう。
 倒れたら、その人は律法を守れなかった重罪人となる。
 その重罪人が裁かれる身代わりに、イエスは極刑の十字架に架かって下さった。
 だから、イエスを通した律法をそもそも行おうとしない者は、この十字架には無縁だ。
 十字架の先には、もちろん復活がある。それがイエスが切り開いた道である。

 そういうわけで、イエスを通した律法はどれも、行うことが到底できないものばかりであるが、それでも私たちは、自分の敵を愛し、神の完全を目指してゆく。
 そうするのは、愛のためなどではなく(アダムの肉に愛はできない)、私たちが肉に死んで復活するためなのである。


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[付記]
 本日の記事は、2008年7月14日の記事を大幅に加筆したものです。

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目には目で

 「目には目で」

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:38-41)

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 「目には目で、歯には歯で。」は、出エジプト記中の「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。」(21:33-34)より。
 目に被害があっても殺傷はするな、目までだ、という旨だと思う。

 律法の字づらは、行いを問題としている。
 しかしイエスを通した律法は、常に行おうとする心に焦点が当てられる。
 だから、「目には目を」という復讐の心、仕返ししたい心それ自体を取り上げる。
 「目を」つぶしてしまえという行為は復讐心からであり、その復讐心こそ律法が本来的に禁じたいものなので、そもそも「手向かってはいけ」ない。
 律法は、「手向かわない」という行いではなく、復讐心、仕返ししたい心そのものを私たちに突きつける。

 イエスはそこまで突き詰めて、あなたは果たして律法を守っているといえるのか? と問い続けている。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月12日付記事に筆を入れたものです。

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