詩篇第4篇

 「あなたは私の心に喜びを下さいました。
 それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
 平安のうちに私は身を横たえ、
 すぐ、眠りにつきます。
 主よ。あなただけが、
 私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩4:7-8)

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 「詩」、その一部のみを取り上げることの愚を、重ねてご容赦願いたい。
 ゆうべ、丑三つ時に目が覚めてしまった。
 とりたてて慌てふためくこともなく、まずは椅子に腰掛け、手元の聖書、その詩篇を開いた。
 そして、今度は詩篇第4篇を、やはり丹念に眺めていた。

 ところで、教会でよく耳にした言葉だが、「旧約は新約の目で読め」。
 なんのことやら、さっぱり分からずじまいだった。
 だが、「丑三つ時」に開いた詩篇第4篇を繰り返し眺めていて、なんとなく分かったような気もした。

 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(4:7)

 この箇所を「マテリアルよりも、ずっと優れたものがある」、そのように読めるのは私だけであろうか。
 これぞイエスが語る福音、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)そのものではないか、これぞ「新約が約束するもの」、というのが「今の私」の見解だ。

 試みに、詩篇第1篇、やはりその一部と対比させてみよう。
 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩1:3)

 これは…、「旧約が約束するもの:マテリアル」を詠んでいるものであって、「新約が約束するもの:永遠のいのち」とは似て非なるものなのではなかろうか。
 「律法を守れば『繁栄』する」、そういう内容を詠んだ詩のような気がする(詩1:2に注目されたい)。

 そして、この「旧約の約束」というのは、創世記からヨシュア記あたりまでをずっと俯瞰してゆくと、当時の神の約束というのは確かに「マテリアル」だったのだろうな、そういう思いがこみ上げる。
 なにしろエジプトの地にて虐げられ、「神の主導」で出エジプトを敢行、紅海が割れて海を渡り、そしてシナイ半島を訳も分からずぐるぐる回っていたユダヤ人達なのだ(出エジプト記参照。モーセはどこまでも「神のしもべ」だ)。
 かくなる「大遠征」の「勝利条件」、それが「乳と蜜の流れる地」(たとえば出3:8)なのは、寧ろ当然の帰結だろう。
(この「乳と蜜」という語句は、出エジプト記からヨシュア記まで限定して検索するだけで「膨大な検索結果が出力される」ことを付記しよう。アブラハムの生涯も、参照されたい。)

 私は個人的に、上に挙げた詩篇第1篇を好意的に読んだことは一度たりともなく、苦々しさすら感じたことさえある。
 何故なのかずっと分からずに来たのだが…、「この難問」が「丑三つ時」に、ようやくにして「解けた」、そういうことにしておこう。
 私が最初に行った教会では、詩篇第1編、その「1:1-3だけ」を「そのまんま」、何度も何度も繰り返し「さんび」していたことを思い起こす。フォークギターをかき鳴らしつつ…。
 当時から私は、ほんとにいやいや「歌って」いた。
 「旧約は新約の目で読め」、そう「教会」は常々言っていたはずなのだが…。
 そのことを思い起こしても……、やはり個人的には教会は「卒業」、その思いを日々確認する。まさしく「自己の確認作業」だ。
 そして、私は個人的には「詩篇第1篇は不要」、そう結論づけた。これは時期尚早にすぎるだろうか。

 ところで「聖書の人」ブログ(思うところがありリンクしていない)の運営者は、この21世紀日本の地にて、「無宗教主義」というものを唱えている。
 100年前の日本人・内村鑑三が唱えた「無教会」よりも更に徹底している、そういう感を持つ。
 ああ、かくいう私も「無宗教」の人なのかな……、と、これはまあ、仮説の域を出ない。
 実は電車にして1時間も要さぬ某所にて、「無教会」の集会が毎週持たれている。
 そのこと自体は、3年前には既に知っていた。
 何度か、真剣に検討した。「行ってみようか…」。
 少し前、あるサイトにて、「無教会主義の『指導者』?の最新メッセージ」を耳にする機会を得た。
 しばらく耳を傾け続け、…「これ、『教会』とどこが違うの?」、そう思って、途中でサイトを閉じることにした。
 私が「無教会を検討」することは、もう二度とない。あの「音声」の検討、これで必要にして十分だろう。
(無教会の方々がこの小記事に接して気分を害されたならば、ご容赦願いたい。無教会の方が運営し続けているサイトに、内村鑑三のご子息の回想が掲載されているので、そちらをご参照願いたく思う。)
 そして、「無宗教」の人が三人寄らば「宗教」になりそして「教会」を形成し、……、そうぼんやりと想っている。

 寄り道がすぎた。
 詩篇第4編は、「新約の目で読むことができる」旧約の詩、そう思い至った。
 冒頭に上げた聖書箇所どおりに、「丑三つ時」に聖書を開いた私は、ふと気付くと、椅子の上ですやすやと眠っていた。
 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。」とは、よくぞ詠んでくれたものと、今書き記していてさえ、その思いは強くなるばかりだ。
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