しっぺ返し

 「ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:22-25)

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 ここで「十字架につけろ」とか「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と叫び続けた人々は、少し前にはイエスを「ホサナ!」と持ち上げていた民衆である(マタイ21:9)。
 日本のことわざにいう「長いものに巻かれろ」というやつで、その場での有利・不利だけで行動している。
 このピラトの法廷では、指導者層であるサドカイ人・パリサイ人に従っている方が、民衆たちにとって明らかに有利なのだ。

 そうやって行動していれば、確かにこの世でやってゆくのはだいぶ楽だろう。
 だが、この「長いものに巻かれろ」という行動原理は、いわば広い道であり、滅びに至る門にほかならない。
(「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」マタイ7:13。)

 なによりも、イエスが歩んだのは十字架への道という狭い道である。
 イエスが切り開いたこの道を歩むことでしか、本当の生はない。
 死んでよみがえって、罪赦され重荷のなくなった生のことである。
 その時々の損得だけで動いていると、復活に至るための死の間口にすら、そもそも行き着かないのではないか。

 イエスは十字架の上で、民衆からしたたかしっぺ返しを食らった。しかも、理不尽なしっぺ返しだ。
 損得だけで動いているこのような連中にしたたかしっぺ返しを食らうとすれば、それは自分が十字架への狭い道の途上にいることの明らかなサインであるから、むしろ喜ぶべき事に違いない。
 「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:12)

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[一版]2010年 9月23日
[二版]2014年 1月19日
[三版]2016年11月13日(本日)

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