肉をまとうイエス

 「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:37-39)

---

 いわゆるゲッセマネの祈りの箇所。

 十字架を前にして、もだえ苦しむイエス。
 十字架という杯は、御父の命令、みこころだ。

 イエスが単に神の子というのであれば、淡々と従い、もだえ苦しむことも、また泣き悲しむこともなかったろう。
 だがこの時点でのイエスは十字架を前に、私たちと同様、もだえ苦しみ、泣き悲しむ。
 それはイエスが神の子というのみならず、私たちと全く同様に、この肉を身にまとった弱い人間であったということである。
 イエスと私たちとの最大の接点は、この「肉」ということである。
 だからイエスは、私たちアダムの肉にまみれた人間に思いやり深い(参/ヘブル4:15)。

 そのイエスは、これから十字架という杯を飲みほし、身代わりの処罰を受けるのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« この杯から飲... 裏切りのあいさつ »