イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
死からいのちに
「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:13-16)
---
私たちは、キリストが「ご自分のいのちをお捨てにな」り更に復活されたことを知ったからこそ、「死からいのちに移った」。
そのことを知るためには、「いのちを捨て」る必要が、つまりキリストの後を追う必要がある。
そうすると、いのちを捨てた先にあるものは、よみがえりである。
上に「知る」と書いたが、それはこの一連の流れを実体験することである。
「死からいのちに移った」人は、おのずと原理が異なってくる。便宜的にキリストの原理とでも書いておこう。
すると、世は世の原理で動いておりキリストの原理では動いていないから、キリストの原理の人を訝しみ気味悪く感じ、そして憎悪する。
そのことは、少しも不思議ではない。
死といのちとは、水と油のようなものなのだ。
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私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:13-16)
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私たちは、キリストが「ご自分のいのちをお捨てにな」り更に復活されたことを知ったからこそ、「死からいのちに移った」。
そのことを知るためには、「いのちを捨て」る必要が、つまりキリストの後を追う必要がある。
そうすると、いのちを捨てた先にあるものは、よみがえりである。
上に「知る」と書いたが、それはこの一連の流れを実体験することである。
「死からいのちに移った」人は、おのずと原理が異なってくる。便宜的にキリストの原理とでも書いておこう。
すると、世は世の原理で動いておりキリストの原理では動いていないから、キリストの原理の人を訝しみ気味悪く感じ、そして憎悪する。
そのことは、少しも不思議ではない。
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