キリストにおける平和

 「『天路歴程』の記者ジョン・バンヤン、いまだ宗教上の事に関して雲霧の中に彷徨せし時、一日、懐疑やむあたわずして近隣の一牧師をおとない、彼の心事を吐露して牧師の慰めにあずからんとせり。バンヤンいわく、「余の心中に悪念かぎりなく湧出するは、まさしく余が神に捨てられ悪魔の奴隷となりし徴候たらん」と。牧師これを聞いて嘆じていわく、「たぶん、しからん」と。過敏なるバンヤンは失望の上になおいっそうの失望を失望を加え、ほとんど立つあたわざるの位置に至れりという。
 彼、時を経て、キリストにおける平和を得し後、彼の友人に告げていわく、「かの牧師は神学にはくわしき人なれども、いまだ悪魔との経験においては乏しかりし人なりき」と。」

(内村鑑三「求安録」、「内心の分離」の項より)

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 あることを確認しようと思って内村鑑三の著作群をぱらぱらめくっていて、偶然に突き当たったのが上の文章。
 「キリストにおける平和」という語句に、ふと目が留まる。

 「悪魔の奴隷」といもいうべき長い戦争期間をくぐり抜けてはじめて、この「平和」を味わうことができよう。
 戦争、これを言い換えると「まとわりつく罪意識を振り払う行為」とでも言おうか。
 聖書をもってしても、祈祷をもってしても、讃美をもってしても、この罪意識を振り払うことは到底できなかった。
 では何によってか? ただ神のあわれみのみによって、というのが最も近いような気がする。その神のあわれみにあずかるために、日々聖書に接し、日々祈り讃美をするのではなかろうか。

 さて、「戦争期間」を経るということは、「開戦時」があるということだ。
 自らの罪に気付いた時が、その「開戦時」だ。
 キリストは、この罪から救うために来られたお方であり、開戦以来、孤独なその人を支え続けて下さり、終戦へと導いて下さる。そうして「キリストにおける平和」へと至らせる。
 戦争のただ中にいたバンヤンが相談をもちかけた牧師は、この戦争そのものを知らなかった。

 探していた「あること」は、結局見つからなかった。
 バンヤンの名著は、長期間 amazon のカートに入れておいて、いざ買おうとしたら時既に遅し、品切れになっていた。
 だが、今朝もこうして書くことが見つかったので、それはよかった。
 調べたり慌てたりすることはない。
 与えられるのだから。


(求安録は、やはり名著ですね。)
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