サマリアの女

 「女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」(ヨハネ伝4:17-18)

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 ヨハネ4章、いわゆる「サマリアの女」の箇所、そのやりとりの「要所」、それが冒頭の聖句。
 イエスがこの女の身について「預言したこと自体」は、今の私には比較的どうでもよい(神だから当たり前、くらいにしか考えていない)。
 この女の前歴、それは「夫が五人あった」。
 すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返して、しかし満足を得られず、そうして今は「6人目の男」と同居中、そういう、正に「底なし沼の欲望女」なのである。

 「自由という名の無秩序」。
 その無秩序状態のさなか、欲望のままに身をやつしやつし……、気付くと「男は6人目」。
 この状態をこそ「死んでいる状態」、イエスはそう断ずる。
 このイエスが与えるもの、それこそが「永遠のいのち」なのである(例えばヨハネ3:16参照。下に引用した)。
 ヨハネ伝の著者・ヨハネさんが「サマリアの女の箇所」を記したのは、その「死んでいる状態」と「永遠のいのち」、その対比を鮮やかに描きたかったからなのではなかろうか、そう想いを馳せる。

 そして、この「サマリアの女(男)」が山ほどいるように、お見受けする。
(テレビのスイッチを入れてみれば、「その類の情報」が溢れ出てくる。)

 実に、もっぱら「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために、このイエスは来られた。

 病人を癒すために来られたならば、2000年後の今も全世界で活躍されているに違いない。
 5000人の給食の奇跡(ヨハネ6:5-15参照)のような、「マテリアルなしるし」を行うために来られたならば、2000年後の今も、最貧国と呼ばれる地で盛んに働いておられたことだろう。
(なお、特にヨハネ6:15に注目されたい。ヨハネ伝にしかない「特徴的な記載」である。)
 繰り言になるが、実に、もっぱら「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために、このイエスは来られたのである。

 ここにヨハネ伝3:16、「聖書の中の聖書」を引用しよう。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ伝3:16)

 そう、神は、「ひとりとして滅びることな」い、そのようになることを真に願っておられるはずだ。

 「御子」は、商売道具などではない。
 ましてや、おのれの権威付けの道具に用いるなど、御自身がお断りするだろう。
 両者とも、いやというほど見てきた「七年間」であった。

 何度でも繰り返すが、実に、もっぱら「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために、このイエスは来られたのである。
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