イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ギデオン協会の聖書
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
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今日は写真を掲げてみた。
某ホテルに備え付けられていた、ギデオン協会の聖書。
世界各国の様々な「ことば」が並記されている。
中国語の「漢字」に目が行って、あ、これは、ヨハネ3:16、この聖句を世界各国語で紹介しているのか、と、ようやくにして思い至った。
ゆうに3ページほど、各国語が並記されていただろうか。
今の私は、ヨハネ伝3:16は、確かに巷間言われているように「聖書の中の聖書」、聖書の中の大支柱だ! そう位置づけている。
ひとことひとことが、ありがたい。
ところで私は、ギデオン協会には敬意を常々感じている者である。これは、今もってなお、そうだ。
「この宝物」・聖書を、学校で、病院で、ホテルで配布し、ほとんど全てのそれらが放擲され、それでもなお配り続けているうちに、ごくごく一部の人が「この宝物」に光明を見いだし救われる。
ある晩私は、とある初老の男性と帰り道を共にしたことがある。
ギデオン協会の方で、寡黙でおとなしい方だった。
私はお調子者なので、ぺらぺらとしゃべり出す。
「ギデオン協会の働きは、ほんと尊いですよねー。学校とかで聖書配って、でも、みんな押し入れの中に捨てちゃうんだけど、それでも日々配り続けて……」、大方、こんな話で切り出したろうか。
「…押し入れの中から見つかった聖書で、私は救われました。」
静かな、しかし重みのある回答だった。
この方がギデオン協会の、労多くして実の少ない役務に身を投ずる、その理由は、今思い出して、かろうじて微かに分かる程度にすぎない。
この方も、聖書に「宝物」を見いだした、そのことだけは、確かだろう。
今日の写真を撮影した晩、私はほうほうの体でホテルに「逃げ帰り」、「そうだ、何といってもホテルなんだから聖書は置いてある!」、それで見いだし、この「救急箱」にすがりついた。
上に記したように、ギデオン協会への感謝の念は尽きない。
だからこそ、穏やかに申し上げたい。
上の写真は、もっぱら「ある聖句」を用いて、「聖書はワールドワイドの書物だ」、と言わんという意図かと思う。
聖書は、そういうものではないように思う。
これは、「ヨハネ3:16」を用いたお遊びの類だ、そう思う。残念だが。
また、このように「聖書は(キリスト教は)ワールドワイドだ」とやって、この二百年間、どれほどの失敗をしてきたことか。
聖書をワールドワイドにしたくて、でも、全く異なる現実。
ところでガンジーは、おおよそ次のようなことを言っている。
「聖書はそのものは素晴らしいが、もし、イギリス宣教師・牧師が聖書通りに生きていれば、インドはとうにキリスト教国になっていたであろう。」
かの地(パキスタンとバングラデシュも含む)の現状、それは周知のことと思う。
私は「この島国」で七年ほどやってきて、そうして、このガンジーの言に静かに頷く者である。
私が教会に通い出した頃、「日本のクリスチャン人口割合は1%」と言われていた(「分子」がどのようなものなのかは、全く不明)。
私が教会を去る頃、「人口割合は0.8%」と小耳に挟んだ。
やればやるほど、「割合」が落ちる……。
私自身は、(昨日書いたように)教会には別れを告げた。
だが、教会を全否定する者でもまた、ない。
教会を要する人々、というのが確かにいることを知っているからだ(それもおおぜい)。
その点では、昨日の記事は、誤解を招きやすかったかと思う。
だからこそ、教会も、「そのニーズ」を満たしてあげて欲しく思う。
教会内でしばし「この人を見よ!」という偉人伝?を見かけたが、本当に「この人をこそ見よ!」という人は、実はひっそりと世を去った人々だと思う(私はお一人、巡り会うこと叶った。そして、このお一人で、十分に満ち足りた)。
ギデオン協会の方々がもし、この「秘湯の地」の小記事を見かけられましたならば、初心に戻って下されば、そう思います。
今日も寡黙に聖書を配り続ける「聖書を生きる方々」に向けて笑顔でエールを送りたく、筆を執らせていただきました。
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今日は写真を掲げてみた。
某ホテルに備え付けられていた、ギデオン協会の聖書。
世界各国の様々な「ことば」が並記されている。
中国語の「漢字」に目が行って、あ、これは、ヨハネ3:16、この聖句を世界各国語で紹介しているのか、と、ようやくにして思い至った。
ゆうに3ページほど、各国語が並記されていただろうか。
今の私は、ヨハネ伝3:16は、確かに巷間言われているように「聖書の中の聖書」、聖書の中の大支柱だ! そう位置づけている。
ひとことひとことが、ありがたい。
ところで私は、ギデオン協会には敬意を常々感じている者である。これは、今もってなお、そうだ。
「この宝物」・聖書を、学校で、病院で、ホテルで配布し、ほとんど全てのそれらが放擲され、それでもなお配り続けているうちに、ごくごく一部の人が「この宝物」に光明を見いだし救われる。
ある晩私は、とある初老の男性と帰り道を共にしたことがある。
ギデオン協会の方で、寡黙でおとなしい方だった。
私はお調子者なので、ぺらぺらとしゃべり出す。
「ギデオン協会の働きは、ほんと尊いですよねー。学校とかで聖書配って、でも、みんな押し入れの中に捨てちゃうんだけど、それでも日々配り続けて……」、大方、こんな話で切り出したろうか。
「…押し入れの中から見つかった聖書で、私は救われました。」
静かな、しかし重みのある回答だった。
この方がギデオン協会の、労多くして実の少ない役務に身を投ずる、その理由は、今思い出して、かろうじて微かに分かる程度にすぎない。
この方も、聖書に「宝物」を見いだした、そのことだけは、確かだろう。
今日の写真を撮影した晩、私はほうほうの体でホテルに「逃げ帰り」、「そうだ、何といってもホテルなんだから聖書は置いてある!」、それで見いだし、この「救急箱」にすがりついた。
上に記したように、ギデオン協会への感謝の念は尽きない。
だからこそ、穏やかに申し上げたい。
上の写真は、もっぱら「ある聖句」を用いて、「聖書はワールドワイドの書物だ」、と言わんという意図かと思う。
聖書は、そういうものではないように思う。
これは、「ヨハネ3:16」を用いたお遊びの類だ、そう思う。残念だが。
また、このように「聖書は(キリスト教は)ワールドワイドだ」とやって、この二百年間、どれほどの失敗をしてきたことか。
聖書をワールドワイドにしたくて、でも、全く異なる現実。
ところでガンジーは、おおよそ次のようなことを言っている。
「聖書はそのものは素晴らしいが、もし、イギリス宣教師・牧師が聖書通りに生きていれば、インドはとうにキリスト教国になっていたであろう。」
かの地(パキスタンとバングラデシュも含む)の現状、それは周知のことと思う。
私は「この島国」で七年ほどやってきて、そうして、このガンジーの言に静かに頷く者である。
私が教会に通い出した頃、「日本のクリスチャン人口割合は1%」と言われていた(「分子」がどのようなものなのかは、全く不明)。
私が教会を去る頃、「人口割合は0.8%」と小耳に挟んだ。
やればやるほど、「割合」が落ちる……。
私自身は、(昨日書いたように)教会には別れを告げた。
だが、教会を全否定する者でもまた、ない。
教会を要する人々、というのが確かにいることを知っているからだ(それもおおぜい)。
その点では、昨日の記事は、誤解を招きやすかったかと思う。
だからこそ、教会も、「そのニーズ」を満たしてあげて欲しく思う。
教会内でしばし「この人を見よ!」という偉人伝?を見かけたが、本当に「この人をこそ見よ!」という人は、実はひっそりと世を去った人々だと思う(私はお一人、巡り会うこと叶った。そして、このお一人で、十分に満ち足りた)。
ギデオン協会の方々がもし、この「秘湯の地」の小記事を見かけられましたならば、初心に戻って下されば、そう思います。
今日も寡黙に聖書を配り続ける「聖書を生きる方々」に向けて笑顔でエールを送りたく、筆を執らせていただきました。
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