バステスマ(その2)

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

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 昨日も書いたが念のため。
 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とは全く関係がない。
 だからクリスチャン、イコール、品行方正、この偽善者的図式など、ぶっ壊してしまって良い。
(だからといって獣みたいに振る舞うのは、マナー以前の問題だ。)
 「悪いこと」というのは、民俗・文化ごとに様々だ。関西で「バカ」と言ったら許してくれない、というのがわかりやすい例だと思う。
 つまり、「悪いこと」というのは普遍的とまではいえない。聖書はこの「悪いこと」を「罪」とはしていない。昨日書いた単語では、これは guilty だ。
(この部分は、主にパウロやヤコブがお説教してフォローしている。)
 どこまでも、今ここで扱っているのは、 sin としての罪だ。

 話はそれ、またこれから書くことは勇気が要ることだが、書く。
 戦後ややして、日本のいくつかの教団が大戦中の戦時体制への協力について「悔い改め」をした。
 私も平和を志向する者だが、「悔い改め」てしまうから、私はやはりキリシタンにならざるを得なかった。
 なぜ、「あのときの協力は過ちでした」ではいけないのか。
 「間違いでした、反省します」で。
 そういう意味で使ったであろう「悔い改め」、これは、 sin に対する用語で、全く意味が違う。「反省します」と「悔い改めます」とは、意味が全く異なる。
 ところが、「悔い改めます」というのは「反省します」の教会用語だと思っている人がきわめて多い。
(実際自分もそうだった。)
 悔い改めというのは、滅多にさせてもらえない。ヨブだって一度だ。
 誰だって、あっても一度。
 実際私は、いやいやキリシタンになってしばらくして、全く偶然に(しかしおそらく必然的に)面と向かわざるを得なくなった。
 ただ私は、一般に教会が不要だとは、思ってはいない。

 さて。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 この一文が「悪いことをしてはいけない」という意味とは全く異なるということを書きたくて、前書きが長くなった。
 sin に気付くや、のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」とある、そのバステスマによって、イエスと共に死ぬ。
 これが「罪に対して死んだ」ということだ。
 「悪いことをしなくなった」ということでは、まったくない。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」、その通りに、 sin は「その中」に埋葬されてしまった。
 イエスは復活した、これが福音だが、ここにも「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」あり、字義通りそのままだ。

 共に死んでくださったイエスに悔い改め、復活のイエスと共に新しい歩みが始まる。

 外見上、何一つ変わっていない。
 欠点のひとつでも直ったわけでもない。一見全く変わっていない。
 しかし、真のバステスマを受けて、見えなかった重しが取れて新しく歩むことができるようになる。

 しばらく同じようなことを書き続けてきて、 sin を明快にしてゆけばよいのだろうということが見えてきたのは収穫だった。
(いつの日になる事やら。)


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 本日の記事は、今年6月3日の記事に少々の修正を施したものです。
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