労苦ということ

 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:30-34)

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 「労苦」というのは、「その日やらなくてはならないこと」くらいの意味だろうか。
 その日その日やることをやっていれば、あすのことを心配するような暇はないし、また、心配するまでもなく必要は満たされる(希望が満たされるわけではなく、あくまで必要が満たされる)。

 さて「神の国とその義」とは、第一義的には律法を指す。神の完全な秩序・律法である。
 その律法を行い続ける。
 マタイ20:1-16のたとえ話には、5時になってもなお仕事を探し続ける人々が出てくる。彼らはぶどう園で1時間しか働かなかったにもかかわらず、いのいちばんに1デナリを与えられた。
 このように、「神の国とその義」を信じて待ち続けることは、その日の「労苦」だ。実際彼らは他の労働者以上に報われた。
 時事問題は避けたいのだが、宮崎の口蹄疫で、自分の得にも何もならない殺処分を黙々と行うことは、「神の国とその義」だと思う。農場が全滅してしまったら、もう飲んだくれてしまえばいいではないか。だが、そうはしない。

 このように、「神の国とその義」に沿った「労苦はその日その日に、十分あ」るのであり、それに従って労苦すれば、心配事は遠のき、いつのまに好転していたりする。
 逆に、心配だから、さあ祈ろう、と、一日でも三日間でも祈り続けたりしていると、心配事に神経が集中してしまって、かえって逆効果になってしまうに違いない。
 イエスが私たちに、簡明で短い主の祈り(マタイ6:9-13)をお授けになったのも、そういうことなのかも知れない。

 さしあたってなすべきことは、「神の国とその義」を労苦して行うことである。

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