迫害

 「イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(マタイ26:64-68)

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 律法には「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:16)とあるので、大祭司は「彼は死刑に当たる。」と言っている。
 ここで、神の子イエスは果たして神を冒涜しているのか、というのがあるが、判断する主体はここでは大祭司なのである。
 もっとも、ローマの支配下にあるため、裁判や執行はローマが行い自分たちにその権限はないから、大祭司の判断には実際上の効力はない。その権限を有するのは、ポンテオ・ピラトである。
 ではどうなったかというと、リンチが始まった。これは律法にはない。
 みんなでやってしまえば、律法もローマも、なんでもいいのである。
 今までの積もり重なった憎しみを、このときとばかりにイエスにぶち当てている。「当ててみろ。キリスト」と、からかったりもする。

 ここまではいかなくとも、むき出しのどす黒い憎悪をぶち当てられるという経験を、多くの人は持っているはずだ。
 その経験は何に生かされるというのだろうか。
 イエス同様に、もっぱら死ぬためにその経験が生かされる。
 死んで、復活するためなのである。
 当のイエスも、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)と祝福している。

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