カーテン、というものは
たまに洗わないと、
とんでもなく汚れているもの。
--
だからといって
普通に洗濯してしまうと
「ドライクリーニングしか、できませんよ?」 ←という説明書が付いていることもあるし、付いてないこともある。
・・・
気付かなかったなぁ。
普通に洗濯した。
カーテン、一気に縮んだ。
後悔した。
はっはっはっ。 ←笑うな!
昔のことさ。
「もうだめだー! この間まで、普通のカーテン丈だったのに! 太陽が見える!! 意味がなーい!」 ←さらに縮めて、カフェカーテンにしますか?
・・・。
とにかく、昔のことさ。
自分のカーテンで、やったから、
それでいいわけだけど
人のカーテンでやったら、気まずいだろうな。
今でも、考える。
縮んだカーテンへの、対策としては
「なんでもいいから、縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足す」
「見なかったふりをして、そのまま、縮んだカーテンを使う」
「あばれる」
等が、使えるんだな。
最後の、
「あばれる」は、
不幸という衝動に、身を任せすぎだな。
できるかぎり、他の選択肢をえらびたい。
当時は
縮んだカーテンを、使ったな。
当然、気分が悪かった。
太陽が、覗き行為をするからだ。
・・・
では
今の私が、縮んだカーテンを手にしたら?
「なんでもいいから、縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足す」を、選ぶだろうね。
しかも、
爆笑しながら接ぐだろうね。
布を継ぎ足したカーテンを、使うだろう。
「この柄を、ここに、はぎ合わせるのか!」とか、言ってね? 笑いすぎ?
--
いろいろ、かわってしまったよ。
「私の、何が変わったんだろう?」
そんな気分で
カーテンを見やる、今日このごろ。
我慢して
縮んだカーテンをかけ、気分悪くなっていた
あの頃と
きっと、
また、カーテンが縮んでも
我慢しないで
縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足し、はぎ合わせ
爆笑してしまうだろう
今と。
・・・
いったい
何が、違うんだろうね?
自分的には、
今のセンスのほうが、好き。
特に、
不機嫌になりにくい、という点で。
--
もちろん
ドライクリーニングしかできないカーテンは、
ドライクリーニングで洗って、
最初から、カーテンが縮むような事態にはしない
というのが、
一番正しいことだと、知ってるよ。
でも
「カーテンが縮む」とかいう事態は
たまに起きる。 ←「油断したら、また、カーテンが縮む」とか、思ってる。諦観というか、納得というか。そういう気分なんだ
--
だから
最近は
扱いやすいカーテンを選んでる。
たまに、カーテンを自作もする。
だってね?
「縮む」とか思ってるんだよ?
この状態で、
全てを他人に任せると、
他人への負担が、半端じゃなくなってしまう。
だから、たまには、
それがカーテンであっても、自作するんだ。
( ↑ 「回数自作しないと、センスは、よくならない」とかいうのが、カーテン自作して、感じた事実 )
色んなレベルの、
カーテンができたよ。
ただの
「金具がついた、切りっぱなしの布」とか
「ものすごい柄」とか
「遮光できていない、薄い布」とか
「裾が斜めだ」とか
とんでもないレベルでの、多様性。
散らばり。
でも、たのしかったな。
--
・・・
洗濯ばさみで
布をつるしたら、カーテン?
いいえ。
洗濯物は
カーテンに、ならない。
丈夫な布が、カーテンになる。
実は、
薄い布でも、
数使えば、いいカーテンになるんじゃない?、などと思ってるよ。
小さい窓で、実験したいな。
こういう
ややこしいのは、趣味の域に入るんだろうな。
あまりに
カーテンを、継ぎ接ぎすると
継ぎ接ぎという趣味が、
外界に向け、丸出しになるよ。
発信されるよ。
だから
カーテンで遊ぶこと、
あまり、お勧めできない。
でもねー。
想像するのは、自由だから・・・。
イタリア国旗みたいな配色で、
カーテンつるしたら、
カラフルで、楽しいだろう・・・。
想像するから・・・。
実際は、無難なカーテンをつるす。
しかし
心の中は、自由。
--
無難でない配色を試す場所を、
ある程度、
意識して、つくったほうがいいな、自分。
ストレス、たまりすぎ。
( カーテンや、壁紙で自己主張する人、というのは、かなり、趣味嗜好の表明、という点において、自由な生活環境にいる、と思うわけ。うらやましいことだ )
・・・
だが
人の環境を
うらやましがっているだけでは、意味がないよ、自分。
このままでは、
ただの、やきもち焼き。
その手の
自己主張が、本当にしたいのなら
好きなのなら
私は、つかまないといけない。
・・・
やきもち焼く、場所を! ←最後が、なんか、ちがうぞ?!
考え直すよ?
私は、つかまないといけない。
「センスが、『うへー!』なカーテンができても、それなりに、問題ない場所を。『ぎゃー! ひどいー!』的カーテンでも、つるせる場所を。大概のものは、作り続けていれば、だんだん、マシになるのだから。場所を、作らないといけない」
・・・
きっと
「無様なものは、タンスの中につるせ」的な
自分の内部
隠そうとする声と、どう折り合うかが問題。
難しい。
だが
たのしい。
そして
おかしな事態。
--
だって
欲しい柄のカーテンが、そこに無い
そんな事態は
消費者的には、悔しがるべき事態。
商品が
ないんだからね?
お金出しても、無いんだからね?
本来は
悔しいはずなんだ。この事態。
・・・
そして
好きなカーテン、つるしたら
誰かに
何か言われそう、というのも
怒っても、しょうがない事態。
だって、
好きなカーテンが、つるせないんだからね?
こちらは
不服を表明したい事態。
なのに
この2つが
衝突した時
私は
「タンスの中に」などと、いう。
周囲の価値観と
自分の価値観の
中間を、捜している
といえば、聞こえはいい。だが・・・
タンスの中だけ、盛り上がるのもなぁ・・・。
ちょっとだけ、変な感じ。
--
そういえば
最初、
ドールハウスを製作した人は
どうして、ドールハウスを製作したのだろう?
「タンスの中だけ」的な意味で
隠す目的で、つくってたの?
・・・
わからないな。
しかし
悩むぐらいなら、
「隠す目的で、しっかりつくれ。つくりこめ。できたら、隠せ。それでいいじゃないか。つくって、『できた』とか言って、笑え。作品の完成が好きなら、できたときが、うれしい時だ。一致させると、いい」
的な気分になるのが、最近の自分。
--
たぶん
ものすごく
性格が、かわった。
・・・
この世に
生まれたときは、
こんなに
性格が、変わる予定じゃなかったはず。変わるんだなー。
--
さて
そろそろ
もう一度、カーテンのチェックと
他の、改善できる物のチェック
現在、製作してるものの進行と
製作予定のものの準備でも、しようか。
--
また
たまに洗わないと、
とんでもなく汚れているもの。
--
だからといって
普通に洗濯してしまうと
「ドライクリーニングしか、できませんよ?」 ←という説明書が付いていることもあるし、付いてないこともある。
・・・
気付かなかったなぁ。
普通に洗濯した。
カーテン、一気に縮んだ。
後悔した。
はっはっはっ。 ←笑うな!
昔のことさ。
「もうだめだー! この間まで、普通のカーテン丈だったのに! 太陽が見える!! 意味がなーい!」 ←さらに縮めて、カフェカーテンにしますか?
・・・。
とにかく、昔のことさ。
自分のカーテンで、やったから、
それでいいわけだけど
人のカーテンでやったら、気まずいだろうな。
今でも、考える。
縮んだカーテンへの、対策としては
「なんでもいいから、縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足す」
「見なかったふりをして、そのまま、縮んだカーテンを使う」
「あばれる」
等が、使えるんだな。
最後の、
「あばれる」は、
不幸という衝動に、身を任せすぎだな。
できるかぎり、他の選択肢をえらびたい。
当時は
縮んだカーテンを、使ったな。
当然、気分が悪かった。
太陽が、覗き行為をするからだ。
・・・
では
今の私が、縮んだカーテンを手にしたら?
「なんでもいいから、縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足す」を、選ぶだろうね。
しかも、
爆笑しながら接ぐだろうね。
布を継ぎ足したカーテンを、使うだろう。
「この柄を、ここに、はぎ合わせるのか!」とか、言ってね? 笑いすぎ?
--
いろいろ、かわってしまったよ。
「私の、何が変わったんだろう?」
そんな気分で
カーテンを見やる、今日このごろ。
我慢して
縮んだカーテンをかけ、気分悪くなっていた
あの頃と
きっと、
また、カーテンが縮んでも
我慢しないで
縮んだカーテンの下に、布を継ぎ足し、はぎ合わせ
爆笑してしまうだろう
今と。
・・・
いったい
何が、違うんだろうね?
自分的には、
今のセンスのほうが、好き。
特に、
不機嫌になりにくい、という点で。
--
もちろん
ドライクリーニングしかできないカーテンは、
ドライクリーニングで洗って、
最初から、カーテンが縮むような事態にはしない
というのが、
一番正しいことだと、知ってるよ。
でも
「カーテンが縮む」とかいう事態は
たまに起きる。 ←「油断したら、また、カーテンが縮む」とか、思ってる。諦観というか、納得というか。そういう気分なんだ
--
だから
最近は
扱いやすいカーテンを選んでる。
たまに、カーテンを自作もする。
だってね?
「縮む」とか思ってるんだよ?
この状態で、
全てを他人に任せると、
他人への負担が、半端じゃなくなってしまう。
だから、たまには、
それがカーテンであっても、自作するんだ。
( ↑ 「回数自作しないと、センスは、よくならない」とかいうのが、カーテン自作して、感じた事実 )
色んなレベルの、
カーテンができたよ。
ただの
「金具がついた、切りっぱなしの布」とか
「ものすごい柄」とか
「遮光できていない、薄い布」とか
「裾が斜めだ」とか
とんでもないレベルでの、多様性。
散らばり。
でも、たのしかったな。
--
・・・
洗濯ばさみで
布をつるしたら、カーテン?
いいえ。
洗濯物は
カーテンに、ならない。
丈夫な布が、カーテンになる。
実は、
薄い布でも、
数使えば、いいカーテンになるんじゃない?、などと思ってるよ。
小さい窓で、実験したいな。
こういう
ややこしいのは、趣味の域に入るんだろうな。
あまりに
カーテンを、継ぎ接ぎすると
継ぎ接ぎという趣味が、
外界に向け、丸出しになるよ。
発信されるよ。
だから
カーテンで遊ぶこと、
あまり、お勧めできない。
でもねー。
想像するのは、自由だから・・・。
イタリア国旗みたいな配色で、
カーテンつるしたら、
カラフルで、楽しいだろう・・・。
想像するから・・・。
実際は、無難なカーテンをつるす。
しかし
心の中は、自由。
--
無難でない配色を試す場所を、
ある程度、
意識して、つくったほうがいいな、自分。
ストレス、たまりすぎ。
( カーテンや、壁紙で自己主張する人、というのは、かなり、趣味嗜好の表明、という点において、自由な生活環境にいる、と思うわけ。うらやましいことだ )
・・・
だが
人の環境を
うらやましがっているだけでは、意味がないよ、自分。
このままでは、
ただの、やきもち焼き。
その手の
自己主張が、本当にしたいのなら
好きなのなら
私は、つかまないといけない。
・・・
やきもち焼く、場所を! ←最後が、なんか、ちがうぞ?!
考え直すよ?
私は、つかまないといけない。
「センスが、『うへー!』なカーテンができても、それなりに、問題ない場所を。『ぎゃー! ひどいー!』的カーテンでも、つるせる場所を。大概のものは、作り続けていれば、だんだん、マシになるのだから。場所を、作らないといけない」
・・・
きっと
「無様なものは、タンスの中につるせ」的な
自分の内部
隠そうとする声と、どう折り合うかが問題。
難しい。
だが
たのしい。
そして
おかしな事態。
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だって
欲しい柄のカーテンが、そこに無い
そんな事態は
消費者的には、悔しがるべき事態。
商品が
ないんだからね?
お金出しても、無いんだからね?
本来は
悔しいはずなんだ。この事態。
・・・
そして
好きなカーテン、つるしたら
誰かに
何か言われそう、というのも
怒っても、しょうがない事態。
だって、
好きなカーテンが、つるせないんだからね?
こちらは
不服を表明したい事態。
なのに
この2つが
衝突した時
私は
「タンスの中に」などと、いう。
周囲の価値観と
自分の価値観の
中間を、捜している
といえば、聞こえはいい。だが・・・
タンスの中だけ、盛り上がるのもなぁ・・・。
ちょっとだけ、変な感じ。
--
そういえば
最初、
ドールハウスを製作した人は
どうして、ドールハウスを製作したのだろう?
「タンスの中だけ」的な意味で
隠す目的で、つくってたの?
・・・
わからないな。
しかし
悩むぐらいなら、
「隠す目的で、しっかりつくれ。つくりこめ。できたら、隠せ。それでいいじゃないか。つくって、『できた』とか言って、笑え。作品の完成が好きなら、できたときが、うれしい時だ。一致させると、いい」
的な気分になるのが、最近の自分。
--
たぶん
ものすごく
性格が、かわった。
・・・
この世に
生まれたときは、
こんなに
性格が、変わる予定じゃなかったはず。変わるんだなー。
--
さて
そろそろ
もう一度、カーテンのチェックと
他の、改善できる物のチェック
現在、製作してるものの進行と
製作予定のものの準備でも、しようか。
--
また