らんすぴらしよぉん(l'inspiration) 

田窪与思子のインスピレーション
(L'inspiration de Yoshiko Takubo)

「上海にて」  by 堀田善衛

2014-07-31 | 本・文学

作家の堀田善衛さん(1918-1998)は、戦争末期に、国際文化振興会の上海事務所に赴任した。

 

敗戦時には、上海にいて、国民党に徴用された。

 

堀田さんは、1945年3月24日から1946年12月28日まで上海で生活し、1947年1月4日に引揚船で帰国した。

 

そして、三十歳前の堀田青年の、終戦後の動乱期の体験と、10年後に解放後の中国を訪れた時の体験は、1959年に、「上海にて」という本になった。

 

最初に読んだ時は、日本企業がわれ先にと中国に進出していた頃だった。

 

が、日中関係が冷え込んでしまった今、読み返すと、とても面白く、共鳴する部分が多かった。

 

堀田さんのすごいところは、半世紀以上前の、1959年の時点で、現在わたし達が直面している危機を予感していたのである。

 

<日本と中国との、歴史的な、また未来における、そのかかわりあい方というものは、単に国際問題などというよそよそしい、外在的なものではなくて、それは国内問題、というより、われわれ一人一人の、内心の、内在的な問題であると私は考えている。われわれの文化自体の歴史、いやむかしむかしからの歴史そのものでさえあるであろう。そうして、内在的な問題というものは、問題と称されるさまざまのものやことのなかでも、結局のところ、もっとも攻撃的な性格をもっているものであった。>

 

<私に一つの危機の予感がある。今日の両国の関係の仕方は、遠からぬ未来において、今日ではちょっと想像できないようなかたちの危機をもたらすのではないか。国交恢復は決定的に重大である。そのことは、われわれの国の真の独立というこことかかわりがあり、従って、われわれの倫理道徳ともかかわりがある。しかし、国交が恢復されればすべてよろしというようなことがあるわけもなく、私が予感するものは、むしろ国交恢復後について、である。恢復以後の、両国の反応の仕方、あるいは爾後の反動について、である。現代における両国のあり方の、基本的な差異は、いろいろあるにはあるが、体制の違いだけではなくて、双方の国民の内心の構造の違いから来るものは、もっとも本質的で、直接交渉のはじまったときのことを、私たちは今日からすでに予想し、見詰めていなければならないであろう。

 

<国交恢復も容易なことではないであろう。そうして、国交恢復後も容易なことでないであろう。>

 

堀田さんは、中国と日本はちがうのだと、中国人と日本人とは、まことに眼もくらむほどの深淵をへだてているところの、およそ異なったふたつの民族なのだと、言い続けていた。

 

<同文同種などという虚妄のスローガンに迷わされてはならない。中国は外国なのであり、中国人民は、外国人なのだ。>

 

<お互いに、忘れることが出来るものならば、それを学ぶことが出来るものならば、学びたいものだ。私とて、いやなことは口にしたくない、書きたくもない。むしろほんとうは、深く黙り込んでいたいのだ。しかしまた、それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる。>

 

21世紀になっても、中国は、近くて遠い国なのかしら・・・・・・。

 

領土問題での対立があっても、銀座などには中国人観光客が溢れ、有名ブランドの店は中国語ができるスタッフを雇っている。

 

日本も中国も一枚岩ではなく、現在の関係も矛盾に満ちているが、

 

学問や芸術に携わっている人たちが、違いを認め合いながら仲良くしている事は救いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おとな用三輪車

2014-07-30 | スケッチ

自転車に、乗れない。

 

(それでも、3.11直後に、電車が止まった時のために、ママチャリを買ってしまった・・・・・・。)

 

自動車も、運転できない。

 

(運転をしたことがないから、免許証はゴールド・・・・・・。)

 

 

 

先日、街を歩いていると、おとな用三輪車に遭遇した。

 

欲しい、と思った。

 

とても欲しい、と思った。

 

が、一体、どこへ乗っていくのだ。

 

海や山は、遠すぎる。

 

道路を走ると、自動車の邪魔になるだろうし、

 

おとな用三輪車の駐車場が完備している店はない。

 

マンションにも、おとな用三輪車用の駐輪場はない。

 

実家の駐車場に置けば、無用の長物になるだけだ。

 

一体、何に使おうというのだ・・・・・・。

 

お米やお水など重たいものは、宅配便を利用している。

 

こまごました買い物は、自然食のお店やスーパーや薬局で事足りる。

 

それでも、欲しい。おとな用三輪車。

 

もしも、老後(すでにそうだが)、郊外か地方都市に移住したら、買いましょか。おとな用三輪車を。 

 

のどかな道を、サングラスをかけ、ぺったんこの靴を履いて、おとな用三輪車で移動するおばあさん・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カラスのゴチソウ

2014-07-29 | 動植物

早朝、犬と散歩に行こうとしていた。

 

と、老母の家の門扉近くで、あお向けになったセミがいた。

 

生きてはいなかった。

 

犬は、全く無関心。

 

臭いを嗅ごうともしなかった。

 

散歩から戻ったら、庭の隅にでも置いておこう、と思った。

 

が、不思議なことに、散歩から戻ると、セミは消えていた。

 

えっ・・・・・・。

 

傍の階段の上に、黒々としたカラスがいた。

 

カラスを見つめると、ニコニコしているような気がした。

 

セミは、カラスのゴチソウになったのだ。

 

犬を抱いて階段を上がった。

 

犬とカラスは、至近距離にあっても、お互い無関心。

 

どちらも、威嚇はしなかった。

 

帰宅する時、玄関の近くに落ちていたセミの羽に小さな蟻が群がっていた。

 

カラスの残り物は、蟻のゴチソウ・・・・・・。

 

都会の郊外でも、生きもの達は共存している・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


蝉の声

2014-07-27 | スケッチ

昨夕、近くにある桜並木の下を歩いていたら、蝉が鳴いていた。

 

一匹だけでなく、たくさんの蝉が大合唱をしていた。

 

道のあちこちには、蝉の抜け殻があった。

 

夏だ、夏が来た。そう思った。

 

ふと、昔、夫とポーランドの教授夫妻を明治神宮へ案内した時、教授が、明治神宮で大合唱をしていた蝉に苛立ったことを思い出した。

 

温厚な人柄で知られる教授が、あの昆虫はうるさい、と神宮にいる間中、文句を言っていた。

 

神宮を出てからも、ポーランドにはあんなにうるさい昆虫はいない、と言っていた。

 

わたしは、蝉の声を、うるさい、とは思わなかった。

 

昔、角田忠信教授という人の、「日本人は、鳥の声や虫の鳴き声も言語音として左脳で処理をするが、欧米人は言語は左脳で、音楽は右脳で聞く」という説を聞いた時に、そうかしら? と思った。

 

 が、神宮で、教授の苛立ちに遭遇した時、角田さんの説は正しいかもしれない、と思った。

 

いにしえのニッポン人は、花鳥風月を愛で、鳥の声や虫の声に感応した。

 

自然と共栄に在ろうとした。

 

が、終戦後、欧米化が進み、都市は、人工音に浸食され、コンクリート・ジャングルと化し、職場でも家庭でも、コンピューターに依存する生活となってしまった。

 

こういう時代には、なおさら、鳥の囀りや虫の声にやすらぎを覚える感覚を大切にしたいと思う。

 

それにしても、暑い・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


絵葉書

2014-07-26 | 色々な思い

<Summer greetings from US!>と、アメリカ人の、フォトジャーナリストの友人から、モノクロ写真の絵葉書が届いた。

 

絵葉書だぁ・・・・・・とノスタルジックな気分になった。

 

と、翌日、南アフリカの友人から、世界中の人たちと絵葉書を交換するサイトを知らせてきた。

 

メールには、<I think you will like>とあり、参加を促していたが、そういうのは、苦手なのだ。

 

彼女はP.O.Boxを持っているが、わたしは、住所氏名をサイトに載せたくはない。

 

その旨を伝え、時々ニッポンから絵葉書を送る、と返事をした。

 

彼女は、アンティークの絵葉書だけでなく、絵葉書を送ったり受け取ったりすることが大好きなのだ。

 

手紙は2年ぐらいで破棄するのだが、彼女から送られてきた珍しい絵葉書はまだ取ってある。

 

サイト内の彼女のページを見ると、絵葉書は封筒に入れないで送って欲しい、とあって、思わず微笑んだ。

 

絵葉書に付いた、異国の切手と消印が好きなのだろう。

 

 

 

 

パリやブリュッセルの蚤の市では、アンティークの絵葉書も売られていた。

 

一枚一枚熱心に眺めて、気に入ったものを買う人がいて、驚いた。

 

いにしえの、見知らぬ人の絵葉書・・・・・・。

 

戦前の上海の租界からの絵葉書などにはロマンを感じるが、自分でそれを所有しようとは思わない。

 

今は、旅先から、Ipadやスマートフォンからメールをする人が多いが、昔は、パリのカフェで、絵葉書を何枚も書いている人をよく見かけた。

 

長い間、絵葉書を送っていない。

 

来週あたり、ニッポンの絵葉書を南アフリカに送ろうかしら・・・・・・。

 

観光地でなんとなく買ってしまった絵葉書が山のようにある・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


感謝デー

2014-07-24 | ポエム

感謝。感謝。多謝。

 

本日は、感謝デー。

 

何もないけれど、感謝デー。

 

呼吸ができる、感謝デー。

 

水が飲める、感謝デー。

 

食事ができる、感謝デー。

 

洋服がある、感謝デー。

 

家に住める、感謝デー。

 

本が読める、感謝デー。

 

ブログが書ける、感謝デー。

 

大地が静かな、感謝デー。

 

お天道さま、感謝デーを、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」より。>

 

 

 

 

 

 

 


「こどもたち」  by  茨木のり子

2014-07-23 | 本・文学

夏休みが始まり、どこへ行っても、こどもたちの姿を目にする。

 

茨木のり子さんの詩に、「こどもたち」というのがあるが、こどもたちの、たしかな「目」を侮ってはいけない・・・・・・。

 

<「こどもたち」

 

こどもたちの視るものはいつも断片

それだけではなんの意味もなさない断片

たとえ視られても

おとなたちは安心している

なんにもわかりはしないさ あれだけじゃ

 

しかし

それら一つ一つとの出会いは

すばらしく新鮮なので

こどもたちは永く記憶にとどめている

よろこびでもあったもの 驚いたもの

神秘なもの 醜いものなどを

 

青春が嵐のようにどっと襲ってくると

こどもたちはなぎ倒されながら

ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる

かれらはかれらのゴブラン織りを織りはじめる

 

その時に

父や母 教師や祖国などが

ウミヘビや毒草 こわれた甕 ゆがんだ顔の

イメージで ちいさくかたどられるとしたら

それはやはり哀しいことではないのか

 

おとなたちにとって

ゆめゆめ油断のならないのは

なによりもまず まわりを走るこどもたち

今はお菓子ばかりをねらいにかかっている

この栗鼠どもなのである              >

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2014-07-21 | ポエム

電車に、乗った。

 

顔、顔、顔。

 

地下道を、歩いた。

 

顔、顔、顔。

 

エレベーターに、乗った。

 

顔、顔、顔。

 

顔には、その人の「今」が、顕れる。

 

過去と未来を内在した、「今」が、顕れる。

 

表情には、本性。

 

「わたし」は、分かりやすい。

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

 


オルセー美術館展

2014-07-18 | アート・映画・演劇

毎晩、老母の家に泊まりに行く。

 

やれやれ、と思うことがある。

 

そんな時は、友人と美術館で気分転換。

 

国立新美術館に、オルセー美術館展を見に行った。

 

入口に掲げられていた、オルセー美術館の写真を見た時、懐かしさがこみあげてきた。

 

パリの町は、安息日である日曜日になると、多くの店が閉まり、閑散としている。

 

開いているのは、イスラム系やアジア系の店やファーストフードや文房具を扱う店や観光客用のカフェぐらい。

 

だから、観光客で賑わっていて、カフェもあり、安全な美術館は、何も予定のない日曜日の避難所だった。

 

1848年から1914年頃までの作品はオルセー美術館で、そしてそれ以前の作品はルーヴル美術館で見ることができる。

 

オルセー美術館は、1900年に建設されたオルセー駅が、改造されて生まれた。

 

建物全体に駅舎の雰囲気が残り、中央ホールは、駅の地下ホームの吹き抜け構造がそのまま利用されていて、明るい。

 

オルセー美術館は、絵画や彫刻の他に、写真、グラフィック・アート、家具、工芸品などのコレクションも充実している。

 

今回の展覧会では、オルセー美術館のコレクションから84点の名画が展示されていた。

 

エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」やジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」やアレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」など、おなじみの作品の他に、カミーユ・コロー、エドガー・ドガ、オーギュスト・ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ポール・セザンヌなど、日本人に人気のある画家の作品が並んでいた。

 

ただ、クロード・モネの「草上の昼食」ではなくて、エドゥアール・マネの「草上の昼食」が展示されていればよかったのに、と少し残念に思った。

 

 

 

絵を描いていた老母は、印象派の画家の展覧会には必ず出かけていた。

 

何となく、彼女には、オルセー美術館展を見に行った、とは言わなかった・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フェニックス

2014-07-16 | スケッチ

駅近くの花屋さんで、アレカヤシの鉢を売っていた。

 

買いたいな、と思ったが雨が降っていた。

 

翌日、行ったら、売れていた。

 

ホームセンターに行ったら、おそらく天井まであるだろうと思われる大きなアレカヤシを売っていた。

 

欲しいな、と思ったが、他に黒竹やフェニックスなどもあって、迷ってしまい、その日は買わなかった。

 

翌日行ったら、アレカヤシも、黒竹も、いいなと思ったフェニックスも売れていた。

 

フェニックスと小さなアレカヤシの鉢はいくつかあったので、その日は買わずに帰った。

 

今日出掛けたら、フェニックスの鉢があと一つになっていた。

 

値段も、他の店よりはるかに安い。

 

キャリーを取りに自宅に戻って、最後の一鉢を買った。

 

オリズルラン、ポトス、ゴムの木、カネノナルキ、テーブルヤシ、トックリヤシ、ガジュマル、アロエ、アボカド、観音竹の鉢が並ぶ、リビング兼仕事部屋には、今日から、フェニックスが加わる。

 

たぶん、小さなアレカヤシも買ってしまうだろう・・・・・・。

 

みんな、みんな、仲良くね・・・・・・。

 

なぜか、観葉植物が好きなのだ・・・・・・。

 

 

 

 

 

 P.S.

翌日、実家から帰る途中に、アレカヤシを買ってしまった・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「伝説」 by 茨木のり子

2014-07-15 | 本・文学

茨木のり子さん(1926-2010)の、青春を詠んだ詩、「伝説」を読んで、そうそう、と納得する自分がいる。

 

 

<「伝説」

 

青春が美しい というのは

伝説である

からだは日々にみずみずしく増殖するのに

こころはひどい囚れびと 木偶の坊

青春はみにくく歪み へまだらけ

ちぎっては投げ ちぎっては投げ

どれが自分かわからない

残酷で 恥多い季節

そこを通ってきた私にはよく見える

 

青春は

自分を捜しに出る旅の 長い旅の

靴ひも結ぶ 暗い未明のおののきだ

 

ようやくこころが自在さを得る頃には

からだは がくりと 衰えてくる

人生の秤はいやになるほど

よくバランスがとれている

失ったものに人々は敏感だから

思わず知らず叫んでしまう

<青か春は うつくしかりし!>と           >

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おばさんのミニスカート

2014-07-14 | スケッチ

学校の多い町でバスに乗った。

 

一番後の席に座って、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 

ふと、目の前を見ると、濃紺のプリーツのミニスカートが・・・・・・。

 

ぺったんこの黒の靴に、濃紺のハイソックス。

 

厚手の、帆布で作られた、ベージュ色のショルダーバッグ。

 

どこかの学生さんだろう、と思った。

 

それにしても、スカートが短すぎた。

 

屈むと下着が見えそうだ。

 

まったく近頃の学生さんは、と思った。

 

が、携帯電話でメールをしている彼女の顔を見て驚いた。

 

どう見ても、40代後半。

 

ショートカットの頭には、白髪もちらほら・・・・・・。

 

顔には、ほうれい線も・・・・・・。

 

なぜか、帆布のショルダーバッグでは、「日常」と書かれたストラップが揺れていた・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ポエマー

2014-07-13 | 色々な思い

ブログやツイッターなどに、気取った詩のようなものを書く人たちが増えていて、そういう人たちのことをポエマーと揶揄するそうだ。

 

和製英語の、ポエマーという言葉には、蔑みの響きがある。

 

が、それって、わたしじゃん、と失笑・・・・・・。

 

英語で、詩人はPoet。

 

吉増剛造さんや谷川俊太郎さんや白石かずこさんたちが、職業を尋ねられ、詩人といっても何の違和感も感じない。(それでも、彼らは名刺に詩人とは印刷していないような気がする・・・・・・)

 

また、思潮社の現代詩文庫などで詩集が出版されている人たちが、自分のことを詩人と称しても良いと思う。

 

が、同人誌に詩を書いている人たちが、自分のことを詩人というと、ある種の違和感を覚える。

 

わたしは、ブログに詩を書いているとか、詩集を出したとは言うことがあるが、自分のことを、詩人とはいわないし、いえない。

 

ブログ内におけるカテゴリーも、詩ではなく、ポエムにしてある。

 

 

 

戦後を代表する詩人の一人である、飯島耕一さん(1930-2013)の<詩情の恐怖>という詩を読んだ時、思わず、笑ってしまった。

 

<「詩情の恐怖」

 

詩という文字

詩ということば

を見ると

ぞっとする。

 

詩情

詩的

詩心

詩魂

詩恨

詩趣・・・・・・

 

なかでも

詩情ゆたかな名所旧蹟をまえにして

一句どうでげすか

というのにはぞっとする

これくらい恐怖をおぼえる瞬間はない。         >

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


踊りと覚醒

2014-07-10 | 色々な思い

舞踏家の人たちには、舞台で踊っているときに、至高体験をし、上の方から踊っている自分を見る、ということがあるようだ。

 

色彩の魔術師といわれたアンリ・マティスの作品の、「ダンス」という絵では、裸の人間たちが手を繋いで輪になって踊っている。

 

それを見た時、マティスは悟ったのかもしれない、と思った。

 

西洋でも東洋でも、踊りでは、人間の喜怒哀楽を表現したり神への感謝を表現する。

 

そして、ダンサーたちは、喜怒哀楽を表現しているうちにそういうものを超えて無の境地になることがある。

 

タンゴでもフラメンコでもフラダンスでも社交ダンスでも阿波踊りでもかまわない。踊りには、瞑想と同じ効果があると思う。

 

踊っている時は、誰もがとても良い顔をしている。

 

踊るあほうに、見るあほう、同じあほなら踊らにゃそんそん・・・・・・。

 

踊ってみたい、と思うのだが、体が動かない・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


赤いハイヒール

2014-07-09 | スケッチ

電車に乗った。

 

赤いハイヒールが目についた。

 

真っ赤のエナメルで、リボンが付いていた。

 

薄化粧の中年女性が履いていた。

 

洋服は、長めの白黒のボーダーシャツに白いスパッツ。

 

バッグは、オフホワイト。

 

真っ赤なハイヒールがとても引き立っていて、素敵だった。

 

 

若い頃、赤いハイヒールを履いていたことがある。

 

歩くと、コツコツと音をたてた。

 

足元から元気になっていくようだった。

 

 

ハイヒールやパンプスを履かなくなって、久しい。

 

もし、まるくてぺったんこの赤い靴に出合ったら、買おうかしらん・・・・・・。

 

赤い靴のおばあさん・・・・・・。