らんすぴらしよぉん(l'inspiration) 

田窪与思子のインスピレーション
(L'inspiration de Yoshiko Takubo)

車中の読書

2013-11-30 | スケッチ

急行電車に乗り換えないで、そのまま各駅停車に乗って、空いている席に座った。

 

目の前の、三人掛けの席には、おじいさんと、二人のおばあさんが座っていた。

 

三人とも、文庫本を読んでいた。

 

おじいさんは、淡々とページを繰っていた。

 

一人のおばあさんは、ニコニコ顔で読んでいた。

 

もう一人のおばあさんは、眉間に皺をよせて読んでいた。

 

カバーがしてあったので、どんな本を読んでいるのか分からなかった。

 

本棚を見ればその人が分かる、という。

 

本当だと思う。

 

「わたし」達は、みんな、「わたし」に出会う本を選ぶ・・・・・・。

 

それにしても、携帯電話の普及で、車中で本を読む人が激減した。

 

「わたし」も、スマホを見ることが多くなった。

 

いつだったか、満員電車で詩集を読んでいるおじさんに遭遇した時は、ある種の感動を覚えた・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


よかったです。

2013-11-29 | ポエム

太陽が照っていて、よかったです。

 

水が飲めて、よかったです。

 

食物があって、よかったです。

 

衣服があって、よかったです。

 

住居があって、よかったです。

 

家族や友達がいて、よかったです。

 

今、この時が平和で、よかったです。

 

人生を肯定できるようになって、よかったです。

 

よかったです、と思えるようになって、よかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

 

 


中道

2013-11-28 | ポエム

上でもなく、下でもない。

 

左でもなく、右でもない。

 

真ん中は、まあるくて、心地よい。

 

中道で、ゆらゆら、あるがまま。

 

あゝ、ブッダ、「あなた」は、偉かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より


パリの乞食とニッポンのホームレス

2013-11-27 | 色々な思い

パリの教会前では、乞食に遭遇することが多い。

 

中に入ろうとすると、マダム、シルヴプレ、と乞食の手が伸びてくる。

 

大型犬を連れた乞食や子供を連れた女の乞食が、今日は何も食べていない、と自己主張することもある。

 

「わたし」は、小銭を施すこともあれば、無言で通り過ぎることもあった。

 

先日、新宿の熊野神社の前を通ると、入口近くに、ホームレスが居た。 

 

ダンボールやブルーのシートで自分の寝床を作って寝ていた。まるで、世間のバカが起きて働け、といった風情。

 

ニッポンのホームレスは、自己主張をしたり物乞いはしない。

 

彼ら独自の宇宙を創り、その中でひっそりと生きているような気がする。

 

昔、パリの語学学校の教師に、大学の教員だった人が乞食になっているのを知っている、と言われて驚いたことがある。

 

パリでも東京でも、ちょっとしたことで転落して浮浪者になる人が多い。

 

が、彼ら自身が、自立を拒み、「浮浪者」を選んでいる場合もある。

 

最近は、楽園であるはずのハワイでもホームレスが増えているそうだ・・・・・・。

 

縄文時代にも浮浪者がいたのだろうか・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ニッポン人のやさしさ

2013-11-26 | スケッチ

次の停車場で降りよう、と立ち上がって出入り口に行くと、録音テープが回った。バスが停まるまで立ち上がらないでください。

 

渋滞に巻き込まれたバスは動かなかった。

 

区が設置した、街のエリアガイドが、目の前の、出入り口の窓から動かなかった。

 

地図の右上には、災害時等の避難地域が記されていた。

 

日本語、英語、韓国語、中国語の表記を見て、あゝ、なんとニッポン人はやさしいのだろう、と思った。

 

最近は、私鉄などの駅やデパートでも、英語、韓国語、中国語の表記を見かける。

 

昔暮したブリュッセルでは、フランス語とフラマン語(オランダ語)の表記が見られたが、ブリュッセルを離れると、フランス語を話す地域ではフランス語、そしてフラマン語を話す地域ではフラマン語のみの表記で、戸惑うことが多かった。

 

ブルージュはフランス語で、フラマン語ではブルッヘ。

 

ベルギー北西部を表すフランドルという言葉はフランス語で、フラマン語ではヴランデレンで、英語ではフランダース。

 

小さな国なのに、フランス語とフラマン語とドイツ語が入り乱れていて、違う言語を話す人たちの対立は根深かった。

 

友人のイザベルは、フランス系だったが、フラマン語にも堪能だった。

 

彼女は、北部の景色の良い所に引っ越そうとしたが、結局、フラマン語を話す人達の地域なので、諦めた。

 

人種のルツボであるパリでは、取りあえず、フランス語を話す人は仲間、という印象を受けた。

 

街の標識も、ほとんどフランス語。

 

ニッポンの首都は、なんと外国人にやさしいのだろう。

 

 ニッポン人のやさしさは、言葉の壁を打ち破る。

 

言葉ができなくても、心が読める人が多いような気がする。

 

残念なのは、やさしさが、ニッポンのフクシマの人達にではなく、異国の人に向けられていることだ・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


デラシネ

2013-11-25 | 色々な思い

この2か月、実家で寝泊まりをし、日中の何時間かを自宅で過ごしている。

 

夜中にふと目が覚めて、どこにいるのか分からなくなることがあり、ケージから聞こえてくる、プードルのかすかな寝息を聞き、ああ、そうだ、実家にいるのだ、と気づき、さまざまな旅を思い出す。

 

なんだか、デラシネになった気分。

 

3.11以後は、ニッポンに根を張りたいと思うようになった。

 

が、一時期、老後はパリで暮らしたい、と思っていた。

 

パリ、パリ、パリ・・・・・・、と言いながらカルチエ・ラタンを歩いていたら、連れに、ああなるのがオチだ、と諭された。

 

見ると、うつろな眼差しの女乞食が、誰かにもらったのか、どこからか見つけてきたのか分からないが、薄汚れたベッドのマットレスを路上に敷いて、ぽつねんと座っていた。

 

道行人たちは、足早で通り過ぎて行った。

 

彼らには、彼女は存在していなかった。

 

彼女は、彼らの人生の「外」にいた。

 

人は顕れ、人は消える。

 

が、誰もが、いつかは、ほんとうの故郷に帰る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二人のババア

2013-11-24 | ポエム

固まった心がますます固くなる、頑固ババア。

 

澄んだ心がますます透明になる、透明ババア。

 

嫌なものは、嫌! と言い切る、頑固ババア。

 

いつもニコニコ、透明ババア。

 

「わたし」の中には、二人のババアがいる。

 

どちらも、「わたし」。

 

どちらに出会うかは、「あなた」次第。

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

最近、ずっと、頑固ババア・・・・・・・。

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

 

 

 

 

 


バトンタッチ

2013-11-23 | ポエム

腰の曲がったおばあさんが、歩いていた。

 

一人で、杖をついて、ゆっくり、歩いていた。

 

少女が、おばあさんの前を通った。

 

おばあさんは、立ち止まって、少女を見た。

 

じっと見た。

 

時間は止まり、過去と未来が、交差した。

 

バトンタッチ。

 

人類は、綿々と続く。

 

アフリカのイヴよ、ありがとう。

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


詩人と借金

2013-11-22 | 色々な思い

貧しさの中で飄々と詩を書き続けた、詩人、山之口獏さんの全集の第一巻が発売され、「現代詩手帖」で特集が組まれている。

 

かつて、詩人の金子光晴さんは言った。<僕は、言う。獏さんは第一級の詩人で、その詩は従って第一級の詩であると。日本のはえぬきの詩人と言えば、萩原朔太郎、それ以後は、獏さんだらう。>

 

詩人の吉増剛造さんは書いた。<・・・山之口獏さんの、・・・・・・しかもそれは沖縄からやってきて、孤独とか、貧困とか、そんなものではなく、もっと宙に浮いたような存在として、詩人として自分を立たせていった姿に敬愛の念を抱く、・・・・・・。>

 

そして、詩人の茨木のり子さんは、山之口獏さんのことを<精神の貴族>と命名した。

 

山之口獏さんは、一篇の詩を書くのに、原稿用紙100枚位は推敲したそうだ。

 

そのように推敲された詩だからこそ、時代が変わっても、「わたし」たちの心に響くのだろう。

 

「現代詩手帖」の特集を読んで、全集の第一巻を入手しよう、と思った。

 

ところが、山之口獏さんが借金ばかりしていたと知り、本を買うことをためらう「わたし」がいるのだ。

 

人を殺めたわけではない。ただ借金をしまくっただけなのだ。

 

芸術は、作品のみで判断するべきで、作者の私生活などどうでもよい、と思っている。

 

それに、「わたし」のような者が人を裁いてはいけないし、ほんとうは、善も悪もない。

 

けれど、もしも、「わたし」が彼と同時代に生き、たまたま彼にお金を貸して返してもらえなかったら、たぶん、彼の詩は読まなかっただろう。

 

なぜか、借金はイヤなのだ。

 

イヤだと思う自分の度量の狭さは、もっとイヤだ。

 

全ての人の、ベーシック・インカムと住居が保証され、働きたい人はそれ以上に働き、アーティストは芸術活動に没頭できるような時代が来れば良い、と思う。

 

 

<ねずみ          by山之口獏

 

生死の生をほっぽり出して

ねずみが一匹浮彫みたいに

往来のまんなかにもりあがっていた

まもなくねずみはひらたくなった

いろんな

車輪が

すべって来ては

あいろんみたいにねずみをのした

ねずみはだんだんひらたくなった

ひらたくなるにしたがって

ねずみは

ねずみ一匹の

ねずみでもなければ一匹でもなくなって

その死の影すら消え果てた

ある日 往来に出て見ると

ひらたい物が一枚

陽にたゝかれて反っていた >

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


旅での洗濯

2013-11-21 | 色々な思い

今月号の「現代詩手帖」には、詩人の高橋睦郎さんが一箇月のアテネ周辺とエーゲ海の旅を綴った、「ギリシアなるものを求めて」という日記が掲載されている。

 

詩でもなく紀行文でもない、日記には、詩人の行動や食した物が綴られていて、読者を舞台裏に連れて行ってくれる。

 

その中で、「わたし」は、詩人の知識や感性ではなく、例えば、「7時過ぎ起床。入浴。洗濯。8時過ぎ、一階食堂で朝食。・・・・・・」や「帰るとベランダに干した洗濯もののうち、濡れて床に落ちたTシャツは乾かず、椅子に掛かったトランクスと靴下は生乾き。・・・・・・・」などという記載に現れる、「洗濯」に感応した。

 

「わたし」の頭の中では、詩人と洗濯が、なかなか結びつかない。

 

男性だって、洗濯や掃除もするだろう。

 

一箇月の旅であれば、旅先のホテルの風呂場で洗濯をするのは当たり前。

 

が、詩人は、霞を食ってイマージュの中で生きている、という先入観があり、淡々と「洗濯」、などと書いてあると、驚いてしまう。

 

日本では、作家が、お気に入りのホテルに長逗留して作品を仕上げることがあるが、その際、洗濯はどうしているのだろう・・・・・・。

 

風呂場で下着などの洗濯をするのだろうか、それともホテルのクリーニングサービスを利用するのだろうか・・・・・・。

 

2007年までは、しばしば海外に行く機会に恵まれた。

 

長い旅でも10日ぐらいだったから、洗濯はしなかった。

 

たいてい一日中歩き回っていたから、夜、洗濯物を手洗いする気力がなかったのと、旅に出てまで洗濯をしたくなかった。

 

帰りのトランクは、きれいに袋詰めされた洗濯物で一杯だった。

 

おみやげは、手荷物として機内に持ち込んだ。

 

できれば、旅先で洗濯はしたくない・・・・・・。

 

なぜなら、「わたし」にとって、旅とは日常を離れた空間での命の洗濯だから・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「わたし」

2013-11-20 | ポエム

赤子の時も、私は、「わたし」。

 

子供の時も、私は、「わたし」。

 

ムスメの時も、私は、「わたし」。

 

おばさんの時も、私は、「わたし」。

 

おばあさんの時も、私は、「わたし」。

 

いつまでたっても、私は、「わたし」。

 

どこまでいっても、私は、「わたし」。

 

私が、「わたし」でなくなるとき、

 

私は、みんなの、「わたし」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


リアリティの向こう側

2013-11-19 | 色々な思い

画家や俳人の写生は、人物や景色を写し出すだけではない。

 

すぐれたアーティストや写真家は、いわゆる「心の目」で、リアリティの向こう側にある何かを、すくい取るような気がする。

 

それは、真実かもしれないし、真実に近い何かかもしれない。

 

そして、その何かに、「わたし」たちの無意識は感応する。

 

「わたし」は、読んだり見たりしながらも、「わたし」を捜している・・・・・・。

 

そして、「わたし」が見つかった時、その作品が大好きになるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


道具

2013-11-18 | 色々な思い

一流のアーティストや職人は、道具をとても大切にする。

 

画家は、画材や絵筆や絵の具を、

 

書家は、筆や硯を、

 

写真家は、カメラを、

 

音楽家は、楽器を、

 

まるで自分の分身のように、とても大切に扱う。

 

一流の料理人も、鍋釜や包丁を、

 

一流の野球選手も、グローブやバットを、

 

まるで物に魂があるかのように扱う。

 

万物は振動し、道具にも意識があり、大切にされると、それに答えてくれるような気がする。

 

アーティストも職人さんも、道具を粗末に扱っているうちは、一流にはなれないんじゃないかしら・・・・・・。

 

 

コンピュータさん、どうか、フリーズしないでくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


微笑

2013-11-17 | ポエム

放射能がじゃじゃ漏れでも、微笑む。

 

政局がぐちゃぐちゃでも、微笑む。

 

不安が押し寄せても、微笑む。

 

微笑むと、身体が安らぐ。

 

心が落ち着く。

 

深刻にならないように、微笑む。

 

真剣に、微笑む。

 

微笑みながら、踏ん張る。

 

微笑で取り戻す、ニッポン人の底力。

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より


人生

2013-11-16 | ポエム

画家が、絵を描くように、

 

音楽家が、作曲をするように、

 

詩人が、言葉を紡ぐように、

 

「わたし」が、「わたし」を、創る。

 

人生は、「わたし」の作品。

 

心が、習慣が、人生を、創る。

 

けれど、いつだって、軌道修正ができる。

 

今、意識を変えれば、

 

今日から、人生が変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

詩集、<みんな、「わたし」。>より