らんすぴらしよぉん(l'inspiration) 

田窪与思子のインスピレーション
(L'inspiration de Yoshiko Takubo)

ヤクルトのお姉さん

2010-09-28 | スケッチ
ヤクルトという乳酸菌の飲み物がある。

体に良さそうだが、特に好きではない。

けれど、自転車でヤクルトを届けている、ヤクルトレディのお姉さん達は、好きだ。

みんな、感じがいい。

今夏、猛暑の中を、ヤクルトの自転車を漕いでいるお姉さんと、何度もすれ違った。

ぎらぎら照りつける太陽の下、焼けるようなアスファルトの道の上を、汗びっしょりで、一生懸命自転車を漕いでいた。

同じお給料でもっと楽な仕事もあるのに、と思った。

昨日、雨の中、狭い川沿いの道で、同じお姉さんとすれ違った。

お姉さんは、重そうな自転車を止め、バランスを取りながら、わたしに道を譲ってくれた。

ありがとう、と言うと、にっこり微笑んだ。

雨の日の憂鬱な気分が吹っ飛んでしまうような笑顔だった。

帽子付きのレインコートを着ていたが、顔は、雨で濡れていた。

製造業では、製品が良くなければいけないけれど、現場で働く人たちの振る舞いが、企業イメージに多大な貢献をする。

お姉さんがたくさんのボーナスを貰えますように・・・

真理は一つ

2010-09-27 | 色々な思い
あらゆる宗教の根源は、一つ。

そう信じる。

キリストの真理も、ブッダの真理も、クリシュナの真理も、ムハンマドの真理も、同じ。

そう思う。

みんな、宇宙根源の神さまと繋がった。

内なる神や仏と創造神が繋がった。

だから、もし、今、彼らが生きていたら、宗教戦争なんてありえない。

覚醒した人たちは、真理は一つでそこに至る道は無数にあると分かっているけれど、思考でがんじがらめの原理主義者たちは、自分たちの宗教だけが正しいと信じている。

こうなったら、みんなで悟るしかない。

悟りのチャンスは、善人にも、悪人にも、資本主義の人にも、共産主義の人にも、年寄りにも、若者にも、頭の良い人にも、悪い人にも、金持ちにも、貧乏人にも、勤労者にも、失業者にも、平等にやってくる。

修業をして悟る人もいる。が、川を眺めていて悟る人もいれば、絶望し全てを手放し全てを神さま宇宙に委ねた時に悟る人もいるそうだ。

真理は、見出されるのを待っている。

そして、自我やエゴが消えた、ほんとうの「わたし」たちは、みんな平等。


大きな、大きな、がま口

2010-09-25 | ポエム
大きな、大きな、がま口を買った。

金色で、長さは、20cm以上ある。

口金も、きんきらきんのボール。

ポイントカードが、たくさん入る。

通帳やお守りも、入る。

宝くじを入れたら、夢が膨らんだ。

開け閉めする度に、大きな音がする。

パチン。パチン。パチン。

何だかうれしくて、何度も開けた。

パチン。パチン。パチン。

夕方調べたら、宝くじは外れていた。


お彼岸

2010-09-21 | 色々な思い
お彼岸には、微生物を拝んで先祖供養をしよう、と冗談を言った人がいる。

人間、動物、植物と進化を遡っていくと、微生物に行き着くのかしら。

なんにも無い無から有が生じ、三次元的に、気が遠くなるほどの時を経て、わたし達人間が存在するようになったのかしら。

それとも天地創造の第六日に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」のかしら。

「わたし」たちの中には、何度も輪廻した魂の記憶と、今生の肉体のDNAの記憶とが入り混じっているのかしら。

かしら・・・かしら・・・かしら・・・

人生は疑問符だらけ。

いずれにせよ、お彼岸には、宇宙根源の創造神と、「わたし」の中の内在神と、かつてご縁のあった人たちに感謝すればよいと思うのだが、お墓はあちらに行ってしまった人たちとのミーティング・スポットのような気もし、お墓参りに出掛けた。

あちらに行ってみないと分からないけれど、なんとなく、あちらからはこちらの世界が丸見えのような気がした。

公園墓地は、レジャーランドのように賑わっていて、夏のように暑かった。

蝉も鳴いていた。

暑さ寒さも彼岸まで、じゃないのぉ・・・

秋が来た。

2010-09-20 | ポエム
秋が、来た。

夜になると、虫の音が聞こえる。

と、猛暑が、懐かしい。

昔の艱難辛苦も、懐かしい。

季節は、巡る。

人生の季節も、巡る。

変わらぬものなど、何もない。

だから、流れにまかせて、行きましょう。生きましょう。




川鵜

2010-09-19 | 動植物

近くの川で、黒い川鵜を見かけることがある。



鴨たちは仲間と一緒だが、川鵜と白鷺は、いつもひとりぼっちでぽつねんとしている。



川鵜は魚を食べつくす、といわれる。


その川でも、時折、鯉を見かける。



広げた羽を、小刻みに揺らして乾かしている川鵜を見ると、鯉を食べたのぉ、と心配になる。


昨日、駅に向かって歩いていると、川鵜がいた。


あたりをきょろきょろ見ながら、川の中に立っていた。



獲物を探しているのぉ、と立ち止まったその瞬間、川鵜は、シューと凄い勢いで、体内から排泄物を出した。


あたりの水が濁った。


川には、清濁、色々なものが混じりあう。


が、いずれ、何もかも流れ流れて、大海に溶け込む。

 

 

 

 






スープ鍋と蓋がくっ付いた!

2010-09-17 | スケッチ
夕食は、マクロビオティック、と決めた。

ベジミートの肉じゃが風とサラダとスープと玄米ご飯。

ダシを椎茸と昆布で取り、椎茸、生姜、玉葱、大根、人参、セロリの入った、野菜スープを作った。

スープ皿にスープを取り分けた後、鍋の蓋をして、そのままにしておいた。

夕食の後片付けが終わり、残ったスープを保存容器に移し替えようとした。

が、ステンレス製の鍋と蓋がくっ付いて、取れない。

鍋の淵を叩いても、取れない。

鍋と蓋の間にバターナイフで隙間を作ろうとしても、取れない。

鍋を逆さまにして、激しく揺すっても、思い切り叩いても、取れない。

難問に遭遇した猿のように悪戦苦闘したが、蓋は取れなかった。

それでもスープが腐らないように、冷凍庫から氷枕風のソフト枕を出して、蓋の上に置いて寝た。

朝起きて、蓋を取ろうとしたが、取れない。

揺すっても、逆さまにしても、叩いても、取れない。

何か意味があるのだろうか・・・

仕方がない、実家の庭に置いて、金鎚で叩くか、などと思いながら、お茶用のお湯を沸かした。

と、ひらめいた。

熱湯をかけてみよう。

鍋をシンクに斜めに置いて、熱湯をかけた。

と、蓋はするりと移動した。

なんだか天才になった気分だ。

空は晴れ渡り、秋の空気が心地よい。

一羽の白鷺

2010-09-16 | 動植物

一羽の白鷺が、近くの川に住み着いて久しい。



毎日、見る。



いつも、一羽。



周りには、鴨の群がたむろしている。



川沿いの並木道では、鳩たちが、そして電線では、雀たちが、羽を休める。



時折、カラスたちも飛んで来る。



みんな、仲間と一緒。



けれど、白鷺は、ひとりぼっち。



長い首を伸ばして、つんとしている。



川上で見かけることもあれば、川下で見かけることもある。


家族がいなくて、悲しくないかい?



友達がいなくて、淋しくないかい?



何を食べてるの?



どこで寝るの?



昨日、川の側を通りがかると、老夫婦が、ビニール袋から食パンを小さく切ったものを、鴨たちに投げていた。


一羽の鴨が見つけると、仲間たちも、すーいすーいと泳いできた。



と、突然、白鷺が、水平飛行で飛んできて、鴨たちの間に入り、長いくちばしでパンを突きながら取っていった。



まるで、バーゲン会場で見かけるたくましいおばさんのようだった。



白鷺は、白鷺を生きている。

 

 

 

 



 


へび

2010-09-13 | 動植物

昨夏、

川沿いの道で、黄緑色の、長い、長い、へびに、遭遇した。



道の上を、ゆっくり這っていた。



ひと夏に、3度も遭遇した。



今夏、

同じ道で、そっくりのへびに、遭遇した。



へびは、周りのことなど気にせずに、ゆっくり這っていたが、小走りで、避けた。



へびは、ほんとうに、エバをそそのかしたのだろうか?


トンボが舞い、コスモスが咲いているのに、猛暑が続く。








今は、結果。

2010-09-12 | 色々な思い
現象界の、「わたし」の今は、結果。

長い、長い、魂の旅路の、結果。

「わたし」の意識が創りだした、結果。

意識を、思考を、変えれば、未来が変わる。

選ぶのは、「わたし」。

自分のカンバスは、自分で色を塗る。

紫、ピンク、白、グレー・・・

無心で塗っていると、本当の「わたし」に出合えるかもぉ。

真理は、発見されたがっているんだってさ。


アーユルヴェーダ

2010-09-11 | エコ&ベジタリアン
2007年より、家では出来るだけマクロビオティックで、外ではお肉以外何でも食べる、というなんちゃってベジタリアンになった。

先日、何となく、本屋さんに行った。

そして、何となく、アーユルヴェーダ認定医、蓮村誠著『「いのち」の取り扱い説明書』という本を買った。

読みかけのその本を持って、何となく、カルチャーセンターを覗いたら、偶然、著者の講座のチラシが目に入った。

で、何となく、二時間の講座を聞いたら、おもしろかったので、まとめてみた。

               *

心と体の健康をトータルなものとして捉える、インドの伝承医学、アーユルヴェーダには、5000年の歴史がある。

アーユルヴェーダでは、命を、「心、理知、五感、身体の四つの要素が、意識によって統合されたもの」、と捉える。

命には、心と身体を機能させるための、ドーシャと呼ばれる三つの要素(ヴァータ、ピッタ、カバ)が備わっている。

ヴァータは、風(動き)。

ピッタは、火(熱)。

カパは、水(安定)。

健康であるということは、ドーシャの三つのエネルギー・バランスが整っていて、消化力が安定していて、組織の機能と排泄が正常で、意識と心と五感が至福に満ちている状態。

オージャスと呼ばれる、輝くエネルギーが、内から外に溢れ出ているのが良い。

食事は、落ち着いた雰囲気の良い場所で、出来立てを温かいうちに食べる。

旬の食材を、よく噛んで食べる。

適度なスピードで食事を終える。

テレビを見ながら食べない。

生の食べ物を取り過ぎないようにする。

残り物や冷たい物、そして寝る前の食事は避ける。

               *

面白いエピソードも聞いた。

アーユルヴェーダの食事では、味見をした食事は残り物とみなされるため、味見はしない。

ある時、新米の料理人が、聖者たちの料理を任された。

料理人は一生懸命料理を作ったが、最後に不安を覚えて、味見をして、料理を出した。

聖者たちは全員、一口食べただけで、食事を残した。

うーーむ。恐るべき、聖者たち・・・

ニッポンの禅寺で料理をする人は、味見をするのだろうか。

悟った人たちは慈悲の心があるから、出された物はありがたく頂くのではないのか、とふと思った。

今、ベジタリアンの間で、ローフード(raw food)が流行っている。

酵素やミネラルを有効的に摂取するために、48度以上では調理せず、できるだけ生の物を食べる。

けれど、アーユルヴェーダやマクロビオティックでは、あまり生の物は食べない。

お水もがぶがぶ飲まない。アーユルヴェーダでは、お白湯をすすり、マクロビオティックでは3年番茶が定番だ。

また、ヴィーガン(純粋な菜食主義者)は牛乳を飲まないが、アーユルヴェーダでは、飲み方に気をつければ牛乳はOKで、マクロビオティックでは、牛乳は避けた方が良い陰性の飲み物、となっている。

うーーむ。悩むなぁ。

さまざまな食事法の話を聞くたびに、頭がこんがらかる。

取り合えず、旬の物をよく噛んで頂きましょか・・・

食事は、風土と文化と密接な関係がある。

最近のニッポンの夏は、インドのようになってきたので、暑い間は、スパイスの効いたアーユルヴェーダの食事も良いかもぉ・・・

以前は、アーユルヴェーダに関心を持つのは、ヨガをやっている人やインド文化が好きな人たちに限定されていたけれど、誰もがモークシャ(覚醒、悟り、啓発)に至る道を持ち、歩んで行くことができるという、アーユルヴェーダの考えは、スピ系女子に受けている。

ああ、温故知新。








ブーメラン

2010-09-09 | 色々な思い
投げかけたものは、戻ってくる。

ブーメランのように。

すぐに戻ってくることもあれば、過去世でしたことが、今生、違う形で戻ってくることもあるかもしれない。

それを、カルマと呼ぶ人もいれば、潜在意識のメモリーと呼ぶ人もいる。

だからという訳ではないが、誰かに皮肉を言われても、電車で足を踏まれても、いつかどこかで仕出かしたことのお返し、と思うようになった。

とにかく、加害者にはなりたくない、とも思うようになった。

時間のない、サトリの境地になると、カルマやメモリーも消え失せてしまうのだろうか。

ブッダやイエスにも、カルマがあったのだろうか・・・

雨が降って、突然、秋が来た。

ブーメランを投げる時は、愛と平和のブーメラン。

肉体はレンタカー?

2010-09-08 | 色々な思い
ある人が、肉体は今生のレンタカー、と呟いた。

なるほど、そうかもしれない。

車は自分で選び、前世は、フランス車だったけれど、今生は、日本車に乗っている、と考えると分かりやすい。

高級車を選ぶ人もいれば、ポンコツ車を選ぶ人もいる。

高速道路を好む人もいれば、田舎道が好きな人もいる。

100年走り続ける人もいれば、20年位で車が壊れてしまう人もいる。

大勢で走る人。パートナーと走る人。一人で走る人。

ひたすら前進する人。ぐるぐる同じ道を走る人。後戻りする人。

快晴に恵まれる時もあれば、嵐の時もある。

車の寿命がくると、あちらの世界のドアが開く。

まったく、世の中、うまく出来ている。

ところで、「わたし」の車は、どんな車?

無国籍の「黄色い車」で、ピポー、ピポー、ピポー、と迷走中?

窓辺のハイビスカス

2010-09-07 | 色々な思い
窓辺に、ハイビスカスの鉢を置いてある。

蕾が膨らんできた、と思ったら、翌日、鮮やかなショッキング・ピンクの大きな花を咲かせた。

鉢をよく見える位置に移動させたり、クーラーの冷気が当らないようにしたりしながら、花を楽しんだ。

けれど、花の命は、短い。

気が付くと、しぼみかけていた。

夜が更けると、くるくると花びらを畳んでいた。

朝日が当るように、鉢を再び窓辺に移動させて寝た。

翌朝、窓辺に行くと、花が落ちていた。

棒状に花びらを畳んで、落ちていた。

まるで、遺体。

ゴミ箱に入れる気にならなくて、未だに流しの傍に置いてある。

ハイビスカスは、一生懸命自分の花を咲かせた。

部屋に誰もいなくても、花を咲かせただろう。

沖縄やハワイにいたかった、とも思わなかっただろう。

薔薇になりたい、などとも思わなかっただろう。

花は、悟っている。

だから、わたし達は、どんな花にも癒される。


『赤ん坊のお祝い!』ザ+コレクション+ヴィンタートゥールより

2010-09-06 | アート・映画・演劇
世田谷美術館に行ったら、アンリ・ルソーの『赤ん坊のお祝い!』という絵に出合った。

不思議な絵だ。

やけに大きな赤ん坊が、キャンバスの真ん中に突っ立っている。

右手で、白いワンピースをたくし上げている。

中には、花の束。

中年女のような太い足が、むき出し。

腕も、レスラーのように太い。

左手で、ピエロに似た操り人形を握り締めている。

人形の顔は、ルソーに似ているらしい。

赤ん坊は、正面を見据えている。

えらが張った顔。大きな目。真っ赤な唇。

我の強そうな、大きな大きな赤ん坊。

大人子どもの赤ん坊は、大きな目を見開いて、しっかり立っている。

世間を、世界を、見据えているようなイメージ。

背景は、ルソー独特の青い空に緑の深緑の木々。

画家には、モデルの赤ん坊の将来が見えたのだろうか。

シャガールは、「画家は内にあるものを写す」、と言った。

だとすれば、赤ん坊は、画家の肥大したインナー・チャイルドなのだろうか・・・

絵画は、不思議。