らんすぴらしよぉん(l'inspiration) 

田窪与思子のインスピレーション
(L'inspiration de Yoshiko Takubo)

みんな、美しい。

2010-08-29 | ポエム
朝露に輝くぺんぺん草も、

シャンデリアに輝くダイヤモンド・リングも、

みんな、美しい。

同じように、美しい。

醜悪を決めるのは、「わたし」たちの思考。嗜好。

存在の根源にあるものは、みんな、美しい。

会いたかった。

2010-08-28 | 色々な思い
会いたかった。

イエス・キリストに、会いたかった。

ブッダに、会いたかった。

ヨガナンダに、会いたかった。

クリシュナムルティに、会いたかった。

鈴木俊隆老師に、会いたかった。

ほんとうのTeacherに、会ってみたかった。

遠くからでも、じかに説法を聞いてみたかった。

声を、聞いてみたかった。

顔を、見てみたかった。

彼らのオーラに触れることで、エゴまみれの「わたし」にも内在するであろう神性や仏性が、触発されたかもしれない。

もう、誰も、三次元の地球にはいない。

ブッダは、「わたしを拠り所としてはいけない」、と戒めたそうだ。

それでも、ほんとうのTeacherに会いたかったなあ・・・

「わたし」を、変える。

2010-08-27 | 色々な思い
ほんとうの「わたし」は、ピュアなはず。

けれど、顕在「わたし」は、エゴまみれ。

そうだ。

「わたし」を、変えよう。

食事を変え、生活を変えた。

思考が変わり、立ち位置が変わり、風景が変わった。

いつか、ほんとうの「わたし」と顕在「わたし」がドッキングすることがあるかもしれない。

ぱかーーん。

唯今、「わたし」の改造中。

ふっ、ふっ、ふっ。

けれど、三つ子の魂百まで、だしなあ・・・

永遠の「わたし」

2010-08-26 | ポエム
ほんとうの「わたし」は、意識。

そして、永遠。

肉体が朽ちても、意識は、生きる。

光に帰るものがあるだろう。

同じような意識と集合するものがあるだろう。

新しい肉体を得て、再び三次元の星に現れるのもあるだろう。

長い長い魂の、旅路。

今生の「わたし」は、ほんの一瞬。

けれど、ほんとうの「わたし」は永遠。

ほんとうの「わたし」に進化を!

今日も、仮のお宿で、「今」を生きましょか。

一生懸命、生きましょか。

秋暑し

2010-08-25 | ポエム
往路。

みんみんみん。みんみんみん。みんみんみん。

蝉の声を浴びながら、立ち止まり、日傘を除けて、日光浴。

ハワイ、と独りごち、駅に向かう。

復路。

日没。

満月の周りに、ビームのイマージュ。イマージュ。イマージュ。

商店街で立ち止まり、月光を浴びる。

往路の、太陽光。復路の、月光。

光。光。光。

熱帯の夜に、秋風、吹く。

季節は、巡る。

けれど、太陽と月は、いつも一緒。

秋暑し。



あたり前のこと

2010-08-22 | ポエム
起きる。

身繕いをする。

朝食を取る。

食器を洗う。

洗濯をする。

掃除をする。

買出しをする。

料理をする・・・

そして、一日が終わると、寝る。

あたり前のことを、ていねいにする。

それを、毎日できる幸せ。

ようやく、分かった。

肉食

2010-08-21 | エコ&ベジタリアン
カルチャーセンターで、ブッダの瞑想法、ヴィパッサナーを習ったことがある。

その時、受講者の一人が、職場近くの屠殺場に運び込まれる牛たちの悲痛な叫び声を毎日聞いているうちに牛肉が食べられなくなった、と言っていた。

「わたし」たちも、牛に名前を付け、庭でペットとして飼っていたら、ステーキにしよう、とは思わないだろう。

食は、気候や風土と密接に結びついていて、肉料理が文化となっている場合もあり、それをとやかく言うつもりは全くない。

仏教の五戒には不殺生というのがあっても、親鸞聖人は、肉食を実行した。

ベジタリアンでも欺瞞に満ちた偽善者もいれば、肉食をしても真摯な態度で生き皆の役に立っている人もいるので、肉食だけにこだわるのはよくない。

けれど、今、「わたし」たちは、必要以上に動物を殺しているような気がする。

たんぱく質は、豆腐や湯葉やお麩や豆類でも取ることができる。

最近、世界中で、週一日は、「Meatless Monday」などとお肉を食べない日を設ける自治体や企業が増えている。

1キロの牛肉を生産するのに11キロの穀物を必要とするらしいので、牛肉の消費を減らすことは、環境にも優しい。

ニッポンでも、ミートレス・デイが普及するといいね。

「わたし」たちは親を選んで生まれてくる?

2010-08-20 | 色々な思い

スピリチュアル・ピープルは、「わたし」たちは親を選んで生まれてくる、と断言する。

3、4歳の幼児が、あちらの世界で親を選んでいた時の記憶を話すことがあるそうだ。

昨夜、たまたま見ていたNHKの番組で、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが、様々な苦難のエピソードの後に、自分で家を選んで生まれてきたのだから、と話していた。

オレその家、という感じで、誰かを押しのけて、歌舞伎俳優の家に生まれてきた時のことを覚えているそうだ。

本当のことは分からない。

けれど、自分が、親や環境を選んで生まれてきた、と信じる人と、親や環境を呪う人とでは、人生が全く違ってくるだろう。

そう思いながら、老母の顔を思い浮かべて、複雑な気分になった・・・

選んだのは「わたし」?

自分以外は、変えられない。

2010-08-19 | 色々な思い
妻は、夫をコントロールしようとし、

親は、子供をコントロールしようとし、

教師は、生徒をコントロールしようとする。

そして、自分の思い通りにいかないと、腹をたてる。

無駄。無駄。無駄。

誰もが、自分の信条に合った現実を創りだし、

自分の波動と同じ人や出来事を引き寄せている。

自分以外の心や波動は、変えられない。

自分以外は、変えられない。

まず自分を整え、自分を変えて、望む現実を創っていく。

と、いつの間にか、周りの人たちも変化している。

「わたし」、気づくのがちょっと遅かった・・・


みんな完璧

2010-08-17 | 色々な思い
みんな完璧、と言うと、反発する人と共感する人がいる。

視点と立ち位置が違うのだろう。

どんな人間も、心の奥底には、美しい純粋さを持っている。

そこを見る人は、みんな完璧、と思う。

けれど、その純粋さの上に幾重にも覆いかぶさったエゴや欲などを見る人は、完璧な人などいない、と断言する。

心は、マトリョーシカの人形のように、エゴや見栄や思考や知識などで過剰装備をしている。

一皮むけても、また別の皮がある。

けれど、最後の一皮が取れると、ぱかーーん・・・

そこは空(くう)でからっぽ・・・みんなブッダ・・・宇宙と一体・・・みんな完璧・・・

ブッダは、どんな人にもその人の仏性を見て接していたけれど、「わたし」たちはなかなかそうはいかない・・・あるがまま・・・あるがまま・・・


マン・レイ

2010-08-16 | アート・映画・演劇
マン・レイ展に行った。

マン・レイといえば、モンパルナスのキキ。

世界中の芸術家たちが吸い寄せられるように集まった、1920年代のパリで、キキは、売れっ子モデルだった。

藤田嗣治、スーチン、キスリング、パスキンたちが贔屓にした。

キキは、アメリカから来た、写真家マン・レイとも恋に落ち、被写体となり、一時期結婚もしていた。

1920年代の、マン・レイのモノクロ写真には、ぽっちゃり太っておかっぱ頭のキキがしばしば現れる。

マン・レイは、キキを起用して「ひとで」というフィルムも制作している。

昔、詩人の竹中郁が、1928年にマン・レイとキキに会って写真をもらったことを綴った「ひとで」というエッセイを読んだ時、どんな映像か見てみたい、と思ったがすっかり忘れていた。

ところが、会場の一室にふらりと入ったら、「ひとで」が上映されていて、驚いた。

写真や絵でしか見たことのないキキが、前衛シネポエムの中で、微笑んだりしなを作ったりしていて、不思議な感じがした。

展覧会場の作品は、New York 1890-1921、Paris 1921-1940、Los Angeles 1940-1951、Paris 1951-76と分類されていたが、やはり、デュシャン、ピカソ、ルソー、パスキン、コクトー、ラディゲ、ヘミングウェイ、サティ、ストラヴィンスキー、ジャコメッティ、エルンスト、キキなどの写真が並ぶ、戦前のパリ時代に魅せられた。

1920年代のパリは、美術だけでなく、文学、演劇、音楽、ファッションの中心で、20世紀文化の基礎が育まれた、といっても過言ではない。

その頃のパリに暮らしたかったなあ・・・今日も暑いね。

                                  

女の首

2010-08-14 | スケッチ
電車に、乗った。

目の前に、長い髪の素敵な女性が座っていた。

真っ赤なブラウスに黒のスパッツ。赤い縞模様のハンチング帽を深めに被り、下を向いて文庫本を読んでいた。

若い人はいいなあ、と羨んだ。

ところが・・・

彼女が顔を上げた時、首が見えた。

深い皺が刻まれていて、どう見ても、50代。

帰宅して、眼鏡を付けたまま、鏡の前に立った。

ぎゃーっと叫んで、ロクロックビ。

そこには、電車で見たのと同じ首が・・・

洗顔や化粧のときは眼鏡を外しているから、気が付かなかった。

女の首は正直だ。



ベジタリアン

2010-08-13 | エコ&ベジタリアン
2007年から、突然、ゆるやかベジタリアンになった。

何となく、牛さんや羊さんや豚さんを食べたくなくなったのだ。

精進料理、インドのアーユルベーダー料理、マクロビオティック、ローフードなどの料理法があるが、まず、リマ・クッキング・スクールという所で、マクロビオティックの初級、中級、上級のコースを取った。

マクロビオティックでは、その土地で取れる旬の安全な食材を良く噛んで食べる。

食物を陰性と陽性に分け、野菜と塩で陰陽の調和をはかり、できるだけ中庸の食事をする。

また、一物全体と、野菜はできるだけ皮をむかずに丸ごと利用する。

その時は、かなりストイックな玄米菜食主義者となったが、今は、家ではマクロビオティックでも、外ではお肉以外何でも頂く、というなんちゃってベジタリアンだ。

ヴィーガンと呼ばれる、動物や蜂蜜を食さないばかりか衣服も動物のものは一切使わないという、純菜食主義者からは程遠いが、ヴィーガンのレストランに行くのは大好きだ。

終戦後、他の物は倹約しても、お肉や牛乳やバターをたっぷり取らないといけないと思い込んでいた昭和初期生まれの母親の影響で、小さい頃から、肉料理と甘いケーキが大好きだった。

若い頃は、豚カツやビーフカツなどは、一人で3枚くらいはぺろっと食べ、フライド・ポテトやチョコレートやケーキが大好物だったから、太っていて、顔はニキビだらけだった。

いつもイライラしていて、しょっちゅうキレていた。その上、ブスだったから、「わたし」の青春、暗かった。

三十を過ぎて、ヨーロッパで5年暮らした時も、肉料理と甘いケーキやチョコレートばかり食べていたので、胃腸や肌の調子はあまり良くなかった。

ゆるやかベジタリアンになってからは、胃腸の調子も良く、性格も穏やかになり、やさしくなった。

やっぱり、食は人を作る。

You are what you eat、と言った人がいるが、本当にそうだと思う。

けれど、ある時、お肉を除けながらチャンプルーを頂いていたら、ある宮司さんに諭された。「出された物は、何でも感謝して頂くのです。真心を頂くのです。」

深く深く反省したけれど、やっぱりお肉は食べたくない。だから、人様に招待された時は、前もって、お肉以外は何でも頂きます、と言うようにした。

人様がお肉を食べるのは全く気にならないし、人様の嗜好を変えようとも思わない。

みんな、自由。ベジタリアンじゃなくたって、天国に行ける。

ベジ・バーガーやテンペ・バーガーが大好物のなんちゃってベジタリアン。最近は、生野菜や果物ナッツが中心で48度以下で調理したものを食べるローフード(raw food)にも興味がある。

なかなかベジな日々なんだわ・・・

夏の夕暮れ

2010-08-11 | スケッチ
暑い一日が終わろうとしていた。

桜並木に吹く風が、そっと秋を運んでいた。

蝉の声を浴びながら、ピンクのワンピースを着た少女が、空を見上げて、佇んでいた。

何だかこころもとなかった。

虹色に輝いていたシャボン玉が消えてゆくのを見つめる、そんな淋しさを感じた。

夏の夕暮れは、切ない。

冬の夕暮れは、春が来てやがて夏が来ることを知らせてくれるが、夏の夕暮れは、秋が来て冬となることを思い出させる。

冬の夕暮れはクレッシェンドだけど、夏の夕暮れはデクレッシェンド。

けれど、大丈夫。

秋が来て、冬が来ても、その後にはまた春がくるよーーっ。

人生はロンドさ。





2010-08-09 | エコ&ベジタリアン
バスの窓から、リヤカーが見えた。

バスを降り、用事を済ませ、再び停留所に向かって歩いていると、街角に同じリヤカーが止まっていた。

青年が叫んでいた。おいしい桃でーす。

ダンボールに、マジックで書かれた、無農薬、という言葉に引かれて、立ち止まってしまった。

おいしいですよ。3個1050円を、4個1000円にします。

じゃあ、頂くわ。

ありがとざーす。いいのを選びますね。

帰宅して、桃を食べた。

まだ熟れていなくて、ちょっと甘い大根のようだった。