らんすぴらしよぉん(l'inspiration) 

田窪与思子のインスピレーション
(L'inspiration de Yoshiko Takubo)

過去の記憶

2016-12-06 | うつつの断章

モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」の、メヌエットを聞いていたら、小学生のころ、その曲をオルガンで弾いたことを思い出した。

 

オルガンを習ったことは思いだしたのだが、どういうシチュエーションでオルガンを習ったのか思い出せない・・・・・・

 

音楽や食べ物を介して過去の記憶がはっきり甦ることがあるのだが・・・・・・先生の名前も顔も思い出せない・・・・・・

 

嫌だったことや悲しかったことははっきり覚えているから、オルガンはトラウマではなかったようだ・・・・・・

 

「今」想う過去はほんとうの過去ではない。

 

「今」憂う未来もほんとうの未来ではないだろう。

 

最近、時間は直線に進むのではなく、過去も未来も「今ここ」の別のラインに存在しているような気がしてきた。

 

ひょっとして、死後、過去に、たとえば平安時代に生まれ変わることも可能なんじゃないかしら・・・・・・

 

タイムマシーンは可能なんじゃないかしら・・・・・・

 

バスの中で揺られながら、そんなことを考えた、今日の午後・・・・・・

 

 

もうすぐ2017年がやってくる・・・・・・時の経つのが早すぎる・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


記憶

2016-02-19 | うつつの断章

最近、記憶がどんどん消えてゆく。

 

本を買って、同じものを本棚に見つける。

 

高橋さんに加藤さんと呼びかけて周りが凍りつく。

 

自分の携帯電話の番号を覚えていなくて、恥をかく。

 

けれど、いいの、いいのよ、『プチット・マドレーヌ』。

 

プルーストは言った。『過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいっさいの努力は空しい。過去は知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想もしなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいるのだ。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないか、それは偶然によるのである』、と。

 

周縁は心地よいの、と微笑み、祖師ヶ谷大蔵で買った豆乳ドーナッツを頬張ると、母が、森永ホットケーキミックスで作ったドーナッツが記憶の壺から飛び出したよ、ドーナッツ。

 

 

 

文学者にとっては、無意識的記憶があればいいのだけれど、わたしの場合、単なる健忘症だから日常生活でとても困る・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 


周縁

2015-12-20 | うつつの断章

銀座で、ふと思う。

 

地方の町にある、銀座商店街を。

 

その後、二重橋前駅で、ふと思う。

 

ニッポンの中心は、皇居なのかしら・・・・・・

 

ヨーロッパの町の中心は、教会なのかしら・・・・・・

 

突然、教授がボードに書いた、周縁(ペリフェリック)という言葉が蘇る。

 

 

ニッポンに帰ろう。

 

そう決心し、三週間の休暇にはブリュッセル自由大学の夏期講座に通う、というと、職場の同僚たちが絶句した。

 

うそでしょ。(セ パ ブレ!)

 

 

「ベルギーのシュルレアリスム」の授業は、何がなんだかさっぱり分からず、教室の隅にぽつねんと座り、

 

イタリアにでも行けばよかった、と後悔した。

 

ランチタイムに、イスラエルから来たフランス語教師がニッポンのことを知りたがった。

 

マリアという名前だったかしら・・・・・・

 

 

時折、あの時、ボードに現れた、周縁という言葉を思い出すのだが、どういう文脈だったのか、覚えていない。

 

シュルレアリスム運動は、パリが中心でブリュッセルは周縁だったのかしら・・・・・・あゝ、何も覚えていない。

 

記憶が、どんどん消えていくなかで、

 

わたしは周縁の人、といいながら、豆乳ドーナッツを食べる。

 

周縁はおいしくて、中心は空洞。

 

 

地球の中心は空洞なのかしら・・・・・・

 

宇宙の渦にも中心はあるのかしら・・・・・・

 

明日、洗濯機に聞いてみよう・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2015-12-06 | うつつの断章

窓の外から、鳥の囀りが聞こえてくる。

 

パリの冬空のような、トウキョウ空に目をやると、

 

隣町のカトリックの教会から鐘の音が聞こえてきた。

 

音は、鳥の歌声と重なり合い、

 

理不尽な暴力の犠牲者たちへの鎮魂の音となった。

 

いつの日か、

 

わたし達の集合意識が合いと光りに包まれる、その時、

 

世界中のルサンチマンの渦は、

 

光の渦へと変換され、

 

ぐるぐると螺旋を描きながら天上を目指し、その時、

 

大天使ミカエルが微笑むであろう。

 

 

 

玄米を焚く釜が、スチームと共に音を放出している。

 

静かな部屋にも、音がある。

 

人や動植物が動けば、音がし、

 

物を動かせば、音が生じ、

 

オノマトペは、心に響く。

 

万物が振動しているのなら、

 

太陽からも音が出ているかもしれない。

 

五次元でも音が聞こえるかもしれない。

 

世界は、音で満ちている。

 

 

 

大雪のブリュッセルで、

 

また 明日、とオフィスと出ると、

 

雪が音を吸収するのか、

 

街は、無音の異次元と化していた。

 

マグリットやデルヴォーを掲げる王立美術館は、

 

青白く光る、狂気の館と化していた。

 

イザベルを待っていればよかった・・・・・・

 

歩きはじめると、

 

雪の上で、サクッ、サクッ、という音が聞こえてほっとしたが、

 

中央駅に向かう近道を歩いていたのに、

 

なぜか、グランプラスに来ていた。

 

 

 

覚醒を促す音楽や人を癒す周波数に魅せられる。

 

何年か前から、グレゴリオ聖歌を聞くようになった。

 

528ヘルツの音叉も買った。

 

なぜ?

 

なぜって?

 

「今」でしょ、「ここ」でしょ、「永遠」でしょ・・・・・・

 

ニッポンの風は、母音を運ぶ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 


うつつの断章 (2)

2015-05-17 | うつつの断章

ケキョ、ケキョ、ケキョ、ホーホケキョ・・・・・・

 

春だというのに、核の冬のような花冷えの朝、

 

メルシーは、

 

マゼンタ色のツツジが咲き誇る公園を、

 

どんどん歩いて行く。

 

地面で何やら啄んでいた二羽の雀が、犬の気配に驚いて飛びたつ。

 

 

と、雀は、

 

時空を超え、

 

パリ、サンジェルマン・デプレにあるカフェのテラスで、

 

夫とわたしが食べ散らかしたパンくずを目当てに近寄ってくる、

 

太った雀となる。

 

雀が、テーブルの下でパンくずを啄み始めると、

 

鳩が来て、雀を追い払う。

 

 

念願の、「ナジャ」という名の付いたバッグを手に入れ、

 

束の間の日日常を楽しむわたしの傍を、

 

職場や学校に向かう人たちが急ぎ足で通り過ぎていく。

 

 

公園を通って学校に向かう小学生たちの声で我に返ると、

 

メルシーが、

 

草の上で足を踏ん張っていた。

 

ビニール袋や老母が折り畳んだトイレットペーパーや水入りのペットボトルが入った、お散歩バッグから必要な物を取り出して屈む。

 

 

と、遠い昔、

 

ベルサイユ宮殿近くの、

 

ナオビとベルナールが働く映画の撮影現場の草むらで、

 

フランスの幼児がcacaと呼ぶ、犬の排泄物を踏んだ記憶が甦る。

 

草の上で靴を擦っていると、

 

ベルナールが、今日はついている、と大声で笑う。

 

 

笑い声は、

 

ゲームの話しで盛り上がっている小学生たちの笑い声と重なり、

 

わたしは、うつつに引き戻される。

 

ナオビは、ベルナールと離婚して、ケープタウンに居る。

 

 

ぼんやりしていると、

 

メルシーが再びcacaの態勢を整え、

 

鶯の声が聞こえる。

 

ケキョ、ケキョ、ケキョ、ホーホケキョ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


うつつの断章

2015-05-16 | うつつの断章

うつつの生活の中で、

 

記憶の断章が顕れては消える。

 

本当に起きたことなのか、夢なのか、分からなくなることもある。

 

あの世に帰還する時には、

 

次元を移行する時には、

 

記憶は切断されるのだろうか。

 

時間のない世界でも、

 

「今ここ」しかない世界でも、

 

記憶は存在できるのだろうか・・・・・・