象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

”翔び過ぎた”蒲池藩の歴史と真相〜もう”おーいカマチ!”なんて言わせないぞ💢

2020年03月06日 12時51分56秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 ”蒲池”(かまち)と言えば、大半の日本人が松田聖子さんの本名”蒲池法子”を思い浮かべますか。それ以外では、ZARDの坂井泉水(蒲池幸子)さんでしょうか。
 因みに、松田聖子さんは蒲池藩の末裔である事が判ってます。一方、坂井泉水さんと蒲池藩の関係は不明です。
 そういう私の田舎は柳川市の蒲池という何もない地区です。ただ、地元に蒲池という姓が全く無い為、てっきり地名だと思ってました。
 そこで蒲池についてサイトで調べたら、凄い真実が解りました。あまりに詳しく書かれてるので、少しびっくりした程です。

 そこで今日は、「翔んで埼玉」に因んで、”翔び過ぎた蒲池藩”の真相と歴史について書こうと思います。
 但し柳川市とは言っても、蒲池藩と柳川藩(立花藩)と筑後国という複雑な歴史が噛み合わさってる為、説明が長くややこしくなるので2回に分けての紹介です。


微妙な地域差別? 

 そういう私は子供の頃、微妙な地域差別を受けた事がある。 
 柳川市は柳河、矢留、昭代、両開、蒲池という5つの校区(地域)に分かれるが。その中でも、昭代、両開、蒲池は”柳川の3大田舎”とバカにされた。事実、何もない田舎である(笑)。

 実は、私が住んでる”蒲池(村)”という地域は、何と古くは弥生時代(貝塚遺跡)に起源を持ち、藤原純友の弟•純乗が蒲池に砦を作ったとされる(平安時代、939年)。
 その後、蒲池藩(1190~1581)から立花藩(柳川)を経由し、以降、分裂•分割を繰り返し、後の廃藩置県により、蒲池村として筑後柳川県(三潴郡)に編入され(1871)、その後、三潴郡から柳川市(柳川県)に転入(1955)します。
 しかし、元々蒲池地区には少数精鋭の蒲池藩(西蒲池)がいて、柳川の立花藩に追い出され、久留米に逃げ隠れ、その末裔が松田聖子さんだと、子供の頃の私はそう知らされてきた。そして、つい最近までずっとそう信じ込んでいた。
 勿論、蒲池藩の末裔が松田聖子さんというのは紛れもない事実だが、私が知らされた”蒲池の歴史”は、真っ赤なウソだったのだ。
 いつの間にか、蒲池に対する地域差別が消え去ったのもそのせいかも知れない。
 そこで先ず、柳川藩(柳河藩)の歴史から軽くおさらいする。


柳川藩と筑後国と立花藩と

 柳川藩は元々筑後国に存在した藩で、藩庁は柳川城(現福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩だったが、後に久留米藩の成立により、筑後南部のみを領有する中藩となる。
 その後、柳河(柳川)地域を中心とする下筑後(筑後南西)地方は、鎌倉時代(1190)から戦国時代末期(1581)までは”蒲池氏”の領地であり、次いで蒲池氏を滅ぼした龍造寺氏が一時期支配する。その後、立花藩の宗茂が蒲池藩(柳川藩)の跡を次ぐ形となります。
 つまり、この蒲池氏こそが蒲池藩の起源だったんです。蒲池氏と蒲池藩については後で詳しく述べます。

 豊臣時代は立花宗茂が柳川城主として13万2千石を領してたが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与した為、改易除封となった。
 同年、三河国岡崎城主•田中吉政が石田三成を捕らえた功により、徳川家康から筑後一国32万5千石を与えられ、柳川城(現•お花)に入る。この田中氏により柳河城は近世城郭として大改修され、天守が設けられた。
 しかし、2代忠政が病没すると無嗣断絶により改易となり、同年のうちに旧田中領は分割され、西軍荷担の罪を赦され陸奥国棚倉藩3万石を領してた立花宗茂が8万石弱の加増を受け、10万9千石で柳川城に返り咲く。
 久留米城には有馬豊氏が21万石で入部し、久留米藩を立藩。更に1621年には、宗茂の甥にあたる立花種次が三池郡に1万石で入り、三池藩を立藩した。

 4代立花鑑任は1697年、城の西方に藩主別邸”集景亭”を造営。鑑任死後は会所となったが、1738年に柳川城二の丸にあった奥が同所に移転され、以降は”御花畠”と呼ばれる様になった。この建築物は旧藩主•立花家が経営する料亭旅館「御花」として現存する。
 最後の藩主である12代立花鑑寛は、安政年間(1854−1859)、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を断行。明治2年(1869)、戊辰戦争での軍功により明治政府より賞典禄5千石を与えられた。
 明治4年(1871年)、柳川藩(立花藩)は廃藩置県により柳川県となった後、三潴県を経て福岡県に編入され、現在の柳川市(1952)になる。
 一方で明治2年(1869年)、立花家は華族に列し、明治17年(1884年)に伯爵となった。


柳川の起源としての蒲池藩

 柳川藩の歴史の後は、現在の柳川市と蒲池藩の歴史を軽く振り返ります。
 柳川の歴史は、約2千数百年前の弥生式土器が柳川市郊外の蒲池に出土してる事からとても古く、その頃からこの蒲池地区で稲作が始まったと推定されてます。
 しかし、都市としての柳川となると、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏の柳河藩の城下町となり現在に至ります。
 つまり、柳川の起源は我らが”蒲池”にあったんですな。蒲池が柳川地方で初めて、弥生人が居住した地域とされるのもその為ですね。

 蒲池藩の歴史を遡ると、平安時代の藤原純友の乱では、大宰府を占領した純友の弟である藤原純乗が柳川まで進出したが、大宰権帥の橘公頼とその子の橘敏通が蒲池城(後の柳河城)で撃退し、敏通の子孫である大宰府官の橘氏が領主となる。
 12世紀には平家の落武者が、柳川市沖の端地区に落ち延び定住した。
 鎌倉時代には、嵯峨源氏の流れを汲む源久直(蒲池久直)が筑後国三潴郡の地頭職となり(1190年)、初代蒲池氏となる(蒲池氏は藤原純友の末裔との伝承もある)。
 室町時代には、筑後の宇都宮氏の宇都宮久憲(十代蒲池久憲)が蒲池氏を継ぎ、南筑後での有力氏族となる。16世紀に14代蒲池治久が蒲池城の支城を築き、これが後の柳河城となった。

 戦国時代には、16代蒲池鑑盛が筑後守護職でもある大友氏方の国人領主となる一方で、大友氏(筑後)、龍造寺氏(佐賀・長崎)、島津氏(薩摩)の有力な戦国大名の勢力が筑後国で激突した為、戦国後期での柳川を含めた筑後地方の歴史は複雑になった。
 1581年17代蒲池鎮漣(鎮並)が、肥前国(佐賀)の龍造寺隆信に謀殺され、遂に難攻不落と言われた柳河城は落城し、龍造寺氏が進駐した。事実上、蒲池藩の滅亡であった。


柳川藩と立花宗茂の躍動と

 1584年には大友氏の高橋紹運•戸次道雪(立花道雪)が筑後へ進出し、同年に島原の”沖田畷の戦い”で龍造寺氏を破った島津氏が1586年には筑後に進出する。
 両者は筑後•筑前両国で争い、島津氏が優勢だったが、1587年の豊臣秀吉の九州出陣により、九州は一挙に統一そして平定された。
 秀吉の九州仕置により、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった柳川藩初代立花宗茂が南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。
 因みに、立花宗茂は秀吉の九州平定で活躍し西部戦線の先鋒として大活躍し、肥後国の竹迫城や宇土城などを攻め落とします。
 秀吉はその功を認め、宗茂に筑後国を与え、領主の大友氏から独立した直臣大名に立てた。この時、秀吉は宗茂の事を”その忠義も武勇も九州随一である”と高く評価しました。
 その後、宗茂は1588年に上洛し、従五位下侍従に叙任され、同時に羽柴の名字を名乗る事を許され、豊臣姓を下賜されます。ここでも秀吉は諸大名の前で宗茂の事を”東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双”とべた褒めします。
 その”西の名将”吉宗も、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についた為、前述した様に、所領を没収されます。しかしその後、大名として復帰し、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。
 NHKBSでは熱く熱く語られる宗茂ですが、蒲池藩全盛の16代鑑盛と相並ぶ歴史上の名武将ですね。以上補足です。

 前述の様に廃藩置県(1871)により、柳河藩は柳河県となり、三潴県(旧久留米藩)に統合され、1876年に福岡県に編入され、1889年には町村制施行により、山門郡柳川町が誕生する。
 しかし、1872年の失火により天守閣を含む柳川城は全焼した。城跡は学校(市立柳城中学•私立柳川高校)となり、石垣は干拓地の堤防に利用され、城跡を示すものは僅かしか残っていない。
 1952年、柳川町から柳川市となり、1955年には昭代村と蒲池村を柳川市に編入する。


最後に〜蒲池藩と柳川市の密な関係

 大まかに蒲池藩と柳川市の関係について述べました。表現が少し古くて読み辛いですが、鎌倉時代初期から戦国時代末期までの400年近くを蒲池藩が、その後の300年弱を立花藩が柳川を支配する事になります。
 しかし、蒲池地区にある蒲池城は資料共々全て焼き払われた(1581年)ので、蒲池藩の全てが判明するのは、もう少し時間が掛かるでしょうか。

 廃藩置県後、柳川県が三潴県に吸収された事で、蒲池地区は一時は分割され、宙ぶらんになります。
 しかし、再び蒲池地区が柳川市に吸収された事が微妙な地域差別に繋がったのかなとも思います。
 歴史ってウイルスの変異と同様に、複雑多岐に絡み合い重なるもんですね。

 ”次回”は、蒲池藩の詳しい歴史について述べたいと思います。



6 コメント

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蒲池鑑盛と立花宗茂 (paulkuroneko)
2020-03-06 14:49:33
立花宗茂は秀吉の九州平定で活躍し西部戦線の先鋒として大活躍しました。肥後国の竹迫城や宇土城などを攻め落とします。
秀吉はその功を認め宗茂に筑後国柳川13万石を与え、筑後の大友氏から独立した直臣大名に立てます。この時秀吉は宗茂を”その忠義も武勇も九州随一である”と高く評価しました。

その後宗茂は1588年に上洛し従五位下侍従に叙任され同時に羽柴の名字を名乗る事を許され豊臣姓を下賜されます。ここでも秀吉は諸大名の前で宗茂の事を”東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双”とべた褒めします。

蒲池氏と同様に大友氏に仕えてた立花藩初代宗茂ですが、蒲池藩全盛の16代鑑盛と相並ぶ歴史上の名武将です。
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paulさんへ (象が転んだ)
2020-03-06 17:39:09
補足とても助かります。
立花宗茂の武勇伝はNHKでも熱く熱く語られてましたね。
でももし、田中吉政が子孫に恵まれたら、家康の庇護もあり、筑後国の大友氏を支配下に収め、久留米藩をも駆逐したでしょうか。

とにかく、蒲池鑑盛と立花宗茂といい田中吉宗といい、凄い武将が柳川地区にはいたもんです。お陰で益々盛り上がりそうですね。

”何もないけど”とは言わせません(^^♪
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筑後国vs蒲池国 (tokotokoto)
2020-03-06 23:55:38
paulさんに負けず、私なりに調べました。

戦国時代の筑後国は一国を統一する者は出現せず、筑後国守護となっていた大友氏(大大名)の傘下で各地域の領主が共存共栄的に存在してました。丁度、中世ドイツのプロシア王国みたいに細かく分裂してたんですよね。お陰で筑後国は15の藩に分かれ”筑後十五城”と呼ばれました。

その筑後国を統括してたのが下筑後(12万石)で柳川城を本拠とする蒲池氏。分家の上蒲池(8万石)に分かれたのは筑後国での蒲池氏の勢力が群を抜き、大友氏の驚異になったからで蒲池氏の勢力を分散します。事実これが功を奏し蒲池氏は弱体化します。

筑後国の大友氏が島津氏(薩摩藩)に大敗すると肥前国を平定した龍造寺隆信が筑後に進出し下蒲池を壊滅させます。蒲池藩を分裂させた事が筑後国にとっても裏目に出たました。

蒲池藩が分裂してなかったら?蒲池氏が筑後国の領主になってたら?福岡県は蒲池県になってたでしょうか?

どう思います?転んだサン?
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tokoさんへ (象が転んだ)
2020-03-07 06:33:49
これこそ蒲池藩の全てです。
よくぞ調べてくれました。
これから蒲池藩その2を書く所ですが、補足させていただきます。

九州を支配する蒲池国か
いい響きです。関東の埼玉藩といい勝負ですかね。

コメントどうも有難うございます。
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田中吉政 (UNICORN)
2021-06-01 21:00:12
私なりに調べました。
都市開発にも長けていた凄い武将でした。
情にも厚く戦術や戦略にも長け、
石田三成を捉えた時は、徳川家康から<好きな土地を持ってけ>と言われたそうです。
そこで吉政は<柳川藩がほしい>と言います。
家康は<あんな田舎のどこがいいんだ>と柳川藩を含めた32万石の筑後国一体を全て与えられます。

元々、吉政は豊臣秀吉の家老でしたが、秀吉の死後も罰せられる事はなく、逆に10万石の大名に復帰し、上手く家康の側に近づき、国持ち大名にまで出世します。
関ヶ原の戦いで一緒に戦ったのが、初代福岡藩主の黒田長政というのも不思議な縁です。
多分、徳川家康も田中吉政の手腕は秀吉の時代から高く評価してたと思います。

蒲池氏といい、豊臣秀吉に高く評価された立花宗茂といい、転んだ君の地元には凄い武将が揃ってたんです。
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UNICORNさん (象が転んだ)
2021-06-02 02:30:59
貴重なコメント有り難うです。
昔の記事だから読みにくいですよね。
家康は秀吉と異なり、外様大名には太っ腹ですよね。
田中吉政は闘将でありながら智将でもあり、立ち回りも巧みだったんですね。
柳川藩には勿体ないほどの大名ですが、我が蒲池藩もこうした絶頂の時代が合ったんですよ。嬉しい限りです。
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