世界変動展望

私の日々思うことを書いたブログです。

女の道は一本道にございます。 さだめに背き、引き返すは恥にございます。

2010-12-17 00:00:00 | スポーツ・芸能・文芸
2008年の大河ドラマ「篤姫」には「女の道は一本道にございます。 さだめに背き、引き返すは恥にございます。」という言葉がある。

「女の道は一本道。引き返せない。」それは女の生き方じゃなくて、香車の生き方ですよ。

用語
[1]香車:将棋の駒の一つ。真直ぐ前方へいくらでも進めるが、それ以外は進めない。

外国人労働者について

2010-12-15 00:00:00 | 社会
少子化が進めば労働力の確保として、外国人の受け入れが進むだろう。外国人労働者の権利を保護する制度を作らないといけない。定住外国人の地方参政権反対は根強いが、そのうち認めざるを得なくなるだろう。

全面禁煙について

2010-12-14 00:00:00 | 社会
神奈川県の禁煙条例など、最近は禁煙が広まりつつある。飲食店では、禁煙にすると客が逃げるので喫煙のところが多い。非喫煙者にとっては嫌だろう。しかし、非喫煙者が嫌だからといって、どこまで禁煙を強制するのか問題だ。

電子計算機のありがたさ

2010-12-12 00:00:00 | 物理学・数学
最近パソコンを使って、ある方程式を解いた。方程式を数値的に解くには、二分法、ニュートン法などいろいろあるが、30行くらいのプログラムで、瞬間的に小数点第10位くらいまでの近似解を出せる。

一般に手計算で解けるのは、1~4次方程式だけで、それ以外の方程式は特殊な場合を除いて、数値計算しないと解けない。二分法等はおそらくニュートン(1643~1727年)の時代には知られていただろうが、これを手計算で実行するのはたいへんだ。嫌になるような計算を何回も繰り返すことになるからだ。昔は計算屋という職業があったらしいが、そういう人ががんばるのだろう。

今は電子計算機があるので、上のように瞬時に解ける。それを考えると、電子計算機がいかにありがたいかわかる。

10代、20代、30代前の先祖は何人いる?

2010-12-11 00:00:00 | 物理学・数学

ある和尚の話で、「10代前の先祖は約千人、20代前だと約100万人、30代前だと約10億人います。そのうち誰がかけても、あなたはいなかったのです。」という話を聞いた。


これはどういう根拠なのかというと、おそらく次のようなことだろう。一人あたり両親二人だから、1代遡るごとに、先祖の数は2倍になる。つまり、n代前は2n人先祖がいることになる。10代、20代、30代前はそれぞれ、210 = 1024 ≒ 103 220 ≒ 106 , 230 ≒109 となる。


確かに、この計算では和尚のいうとおりだ。しかし、よく考えてみてほしい。この計算によれば、代を遡るほど、たくさんの先祖がいることになる。しかし、昔の人口は今ほど多くないので、この計算と矛盾する。では、上の計算は何が問題か。


一つの原因は血縁関係のない者同士が両親になるという仮定だろう。現実には親類同士の結婚等、血縁関係のある者同士の結婚が存在するので、先祖を共通にし、上の例よりも先祖数が少なくなる。時代が進めば進むほど、血縁関係のある者同士での結婚可能性は高くなるから、上の計算より先祖数は少なくなるはずだ。


要因はおそらくこれだけではないだろう。先祖数がどれくらいになるのか、正確に計算するのは、血縁関係者同士がどれくらいの確率で結婚するのか等、不確定の要素があるので、計算できない。


ただ、以前テレビで我々の先祖をたどると、アフリカのただ一人の女性に行き着くと聞いたことがあるので、先祖数をきちんと計算できるとしても、それは思った以上に少ない数になると思う。ある特定の人しか遺伝子を伝えられないということだろう。


魁皇の記録は素直に褒められない

2010-12-10 00:00:00 | スポーツ・芸能・文芸
通算1000勝達成や幕内最多勝ち星など、満身創痍で記録を更新し続ける魁皇に賞賛を送る人は多い。しかし、私は魁皇の相撲内容を見ると、素直に賞賛を送れない。なぜなら、彼の相撲にはつまらなさを感じるし、真剣さを感じないことも多いからだ。

力士たちは否定しているが、大関互助会という批判がある。大関互助会とは大関どうしで勝ち星を譲り合い、陥落を防ぐ暗黙の取り決めだ。名誉に関わることだから、証拠なく批判できないが、魁皇が大関互助会で大関に在位し続けているのではないかと、一部の人たちの間で疑われているのは事実だ。

私は大関互助会の真偽とは関係なく、魁皇を見ていると、今まで不思議とカド番を脱出してきた相撲を何度も見ているし、それらの多くは、あっさりと彼が勝つ内容で、力士同士が真剣に戦っている様が感じられないし、見ていてつまらない。

そういう内容で上述の記録を達成したといっても、私は素直に魁皇を褒められない。

一関市博物館、平成22年度和算に挑戦の解答例について

2010-12-09 00:00:00 | 物理学・数学

今年も一関市博物館「和算に挑戦」の問題が公開されました。今年の問題も面白いです。私はすべて解けました。ヒント教示に応じるので、それを欲する方はコメント欄で質問してください。

完全解答は正解発表後に公開します。当初は最終的な答えを公開していましたが、答えの確認に応じる人が誰も現れず、正解の確証がないため、非公開としました。ただ、私の解答は正解の自信があるので、コメント欄であなたが得た答えを書いていただければ、私の答えと一致したかお教えしようと思います。各問の難度ですが、

初級   

難易度 小中学生-標準、高校生以上-簡単

中級

難易度 中学生-簡単、高校生以上-簡単

上級

難易度 高校生-難、大学生以上-標準~やや難

となります。難易度は各教育課程の教科書や入試問題の難度を基準とし、私なりの主観評価で示しました。

今年の上級問題は過去4年で一番難しいと思います。初級、中級問題は演習量が少ない小中学生は少しだけ考えるかもしれませんが、それほど難しくないと思います。高校生以上には容易でしょう。

私は今年が最後の挑戦になるかもしれません。来年以降の解説作成はやらない可能性があります。そのため、今年の解説記事は皆さんの役に立てばよいと思います。

では、今年の挑戦者のみなさん、がんばってください。

※ 12月20日頃から「和算に挑戦 世界変動展望」などのキーワードでアクセスする人が増えています。この記事はよく読まれています。私のブログは挑戦者の間である程度有名なのだろうか?多くの人からとても必要とされていて嬉しいですね。これぞ私のブログの本懐。役に立っているようでよかったです。こんなにも必要とされているのをみると、今年が最後っていうのもなー。どうしようかなー、来年。

参考
[1] 一関市博物館 平成22年度和算に挑戦
投稿締め切り 2011年1月20日(消印有効)、表彰式・正解発表 2011年2月27日
[2] 平成22年度和算に挑戦の解答 2011.2.27


オールマイティな人はいない

2010-12-08 00:00:00 | Weblog
A「彼は勉強、芸術、運動、何でも抜群ですごいな。彼はオールマイティだよ。」
B「オールマイティなんてないよ。バーサタイルか万能じゃない?」

上のAのような意味でオールマイティを使う人は多いが、正確には誤りだ。

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オールマイティ (almighty)

なんでも完全にできること。また、そういう人や、そのさま。全能。

全能
どんなことでもできること。完全無欠な能力。

万能
1 すべてに効力があること。「金は―ではない」「―薬」
2 あらゆることにすぐれていること。なんでもできること。「―選手」

(デジタル大辞泉より)

versatile
〔物が〕用途{ようと}の広い、多目的{たもくてき}な[に使える]、多用途{た ようと}の、万能{ばんのう}の、融通{ゆうずう}が利く◆【名】versatility
・All my dishes are versatile enough to be adjusted to individual preferences. : 私の料理はすべて、食べる人のいろいろな好みに合わせて調理法を変えることができます。
〔人が〕多才{たさい}な、多芸多才{たげい たさい}の
・The sports player was so versatile, he could play any sport and any position. : そのスポーツ選手は非常に万能なので、どのようなスポーツでも、どのようなポジションでもこなせました。

(以下、略。アルク英辞郎より)
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オールマイティはできないことがない十全の能力をいい、非現実的な能力だ。具体的には、神様の能力のこと。キリスト教では「Almighty god !」(全知全能の神よ!)と使うことが多い。

何でもよくできるという意味なら、正しくは「万能」又は「versatile」である。日本人は「オールマイティ=万能」と勘違いしている人が多い。日本人はなぜ間違って使うのだろう。「オールマイティ」の「オール」という言葉が「all(すべて)」を連想させ、何でもできると思い込みやすいからだろうか。

私は正しく使うべきだと思う。だって、オールマイティ(全能)な人なんていませんよ。

無期懲役・禁固は終身刑

2010-12-07 00:00:00 | 法律
マスメディアではよく仮釈放がない無期懲役・禁固を終身刑とよび、日本の刑罰として存在する無期懲役・禁固と区別していることが多い。しかし、正確には誤りで、現在刑罰として存在する無期懲役等も終身刑である。

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終身刑
無期限で、人が生涯服する自由刑。無期懲役と無期禁固とがある。

(デジタル大辞泉より)
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上のように終身刑とは刑の満期がないものをいう。刑事政策等の分野では、仮釈放がない無期懲役等を絶対的終身刑、仮釈放があるものを相対的終身刑とよんでいる。相対的終身刑は刑務所から出獄できるが、生涯保護観察下となり、刑の執行は生涯続く。世間の認識では「絶対的終身刑=終身刑」、「相対的終身刑=無期懲役・禁固」である。

一部の人たちは世間の間違った意味での終身刑の使い方にひどく反対している。確かに、言葉の使い方は間違っているが、現在の無期懲役等と絶対的終身刑の区別はつけているから、それほど問題はないと思う。むしろ、そんな言葉の使い方の違いにひどく反論する方が異常である。

英語と日本語のナイーブの違い

2010-12-06 00:00:00 | Weblog
A「この前、Cさんに遊園地に行こうと誘ったんだ。だけど、遊園地は好きじゃないって、断られちゃったよ。」
B「彼女が遊園地好きか前もって聞かなかったのかい?」
A「ああ。でも、一般的なデート先として無難かなと思って。」
B「ナイーブだな、君は。普通前もって聞いてから、誘うでしょ。」

このナイーブの使い方を見て、違和感を感じる人がいるだろう。日本で使われているナイーブはあまりこの意味で使われていないからだ。しかし、これが英語のナイーブの意味だ。

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naive

【名】
うぶな人、だまされやすい人
【形】
1〔経験不足{けいけん ぶそく}であまりに〕うぶな、ばか正直{しょうじき}な、考えが甘い
・How can you be so naive? : よくそんなに単純でいられるなー。
2〔子どものように〕純真{じゅんしん}な、天真らんまん{てんしんらんまん}な、あどけない
・In spite of her appearance, she has a naive side. : ああ見えても彼女は純真なところがある。

(以下、略。アルク英辞郎 より)

国語辞典のナイーブ

飾りけがなく、素直であるさま。また、純粋で傷つきやすいさま。

(デジタル大辞泉より)
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英語と日本語のナイーブは意味が異なる。上の会話のナイーブは「未熟で考えが甘い」という意味だ。しかし、国語辞典が示すとおり、日本語では「傷つきやすい」という意味で使うことが多い。

もともとナイーブはフランス語らしく、「純真な」、「素直な」という意味だ。英語はそこから「ばか正直な」等の意味が派生し、日本では、傷つきやすいという意味が派生した。日本で上の会話のような使い方をしたら、意味が通じない。一方で、英語のナイーブは悪い意味なので、日本語と同じ意味で使ってはいけない。日本語のナイーブは英語ではsensitiveだろう。

大横綱の基準

2010-12-05 00:00:00 | スポーツ・芸能・文芸
非常に強く、成績がよい横綱を世間の人は大横綱とよぶ。では、どういう基準で大横綱とよぶのだろうか。それは年6場所制と年2場所制で分かれている。

年6場所制の場合は、おそらく優勝20回以上になるとマスメディア等で大横綱と呼び始める。大鵬(32回)、北の湖(24回)、千代の富士(31回)、貴乃花(22回)、朝青龍(25回)はみな優勝20回以上だ。

では、年2場所制の場合はどうか。この時代は優勝回数の他に人物面や貢献などを考慮して大横綱を決めていると思う。多くのケースで大横綱とよばれるのは谷風(優勝相当21回)、双葉山(優勝12回)だ。彼らは成績・品格抜群だし、伝説的なので、大横綱とみながよんでいるのだろう。

初代梅ヶ谷(優勝9回)、常陸山(8回)、太刀山(11回)、栃木山(9回)は大横綱とよばれることもあるが、よばれないことも多い。初代梅ヶ谷、常陸山、栃木山は優勝回数が10回に届いておらず、成績的に大横綱とよべるか疑問符がつくからだろう。彼らを大横綱とよぶななら、稲妻(10回)、常ノ花(10回)、玉錦(9回)はなぜ大横綱ではないのかと疑問になる。

この違いを生み出しているのは、上に書いた人物面や貢献などの要素のためだ。特に常陸山が典型例で、彼が大横綱とよばれるのは、品格や相撲界発展への貢献の要素が強いからだろう。確かに彼は成績の点で強豪だが、はっきりと太刀山より成績が悪く、弱いのに、評価が太刀山より上なのは、上の貢献等の要素があるからだ。常陸山は本来優勝回数の点で大横綱とよべないが、相撲界や世間の評価が高いから大横綱とされているにすぎない。常陸山は成績・力量の点で、全く別格ではない。

逆に無敵の強さを誇った太刀山が大横綱とされないことがあるのは、彼に対する相撲協会等の評価が低いからだ。

年2場所制の大横綱基準は貢献度等も加わるため、主観的で、まちまちである。これはたまに、強さを勘違いさせる原因になる。谷風のように優勝回数が驚異的なら非常に強いというのはまだわかるが、本来強さとは関係ない品格や貢献度という要素を加えて強さを判断するのは誤りであり、客観的に判断すれば、双葉山、常陸山は世間でいうほど強くない。

同一内容の口頭発表は許されるのか?

2010-12-01 00:00:00 | 社会

いくつかの学会でしばしば同一内容の口頭発表がなされることがある。これが許されるのかどうか、研究者によって判断がわかれている。許されると考える者は、その理由として、発表の場が違えば聴衆が違うので、同一内容でも発表の価値があると主張する。

しかし、これは業績の過重計上のため問題ではないか。一般に論文の二重投稿が不正行為とされるのは、業績の過重計上が不適切だからである。日本原子力学会でも『「二重投稿」の基準は、既に活字媒体や電子媒体で掲載された著作物と本質的にオーバーラップする著作物を掲載すること(余剰出版)を回避するための措置であり、国内外の学会等において広く採用されている基準です。[1]』と述べている。

同一内容を発表すれば、業績の過重計上になるのは、口頭発表でも差異はないから、かかる発表は二重発表に該当し、不適切だと思える。仮に二重発表が認められるなら、同一内容で何回も発表することが許され、実体的な業績数の把握が困難になる。それに、多数の人に成果を知らせたいなら、論文等を書き、不特定多数の人に公開すればよい。

故に、二重発表はまずいと思うのだが、現実は黙認されている。どの研究者も業績作りに必死だからだろう。しかし、二重発表は上の理由でまずいし、黙認すべきではない。

一部の研究者はモラル違反として、二重発表をしないが、そういう正しい行いをする人がきちんと利益を得る仕組みを作らないといけないと思う。

参考
[1]「論文投稿の際の著作権および二重投稿についての注意点-2(2)」 日本原子力学会