歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像』を読んで  その1 私のブックリポート

2020-01-13 18:59:25 | 私のブック・レポート
≪川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』その1 私のブックリポート≫


【はじめに】
新しい年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。
このブログで新たに「私のブック・レポート」というカテゴリーを設けましたので、今年の目標は、このカテゴリーでできるだけ多くの本を紹介してゆきたいと思います。できれば、100冊を達成するように努力してゆきたい。読者に有益な情報を提供したいと考えています。

さて、年の始めにあたり、ルーヴル美術館の作品を取り上げた次の3冊を紹介したい。
① 川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』講談社+α文庫 2015年
② 元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年
③ 井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年



今回は、年頭にふさわしく、華やかに、ルーヴル美術館の女性の肖像画を扱った本、川島ルミ子氏の『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』(講談社+α文庫 2015年)を紹介してみたい。



その目次は、次のようになっている。
はじめに
『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル
『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン
『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド
『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール
『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン
『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派
『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス
『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン
『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
フランス王家系図
画家紹介






川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)




今回は、字数制限のため、6枚目の『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』までとする。今回の執筆項目次のようになる。


著者と本書の紹介
『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル
『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン
『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド
『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール
『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン







著者と本書の紹介


川島ルミ子氏は、東京生まれで、ソルボンヌ大学、エコール・ド・ルーヴルで学び、歴史、美術、文化を中心に執筆している。フランス・ナポレオン史学会会員、フランス芸術記者組合員、ファム・フォロム(フランスで活躍する女性の会)会員であるという。

さて、ルーヴル美術館には、13世紀から19世紀半ばまでの様々な分野の絵画が展示されている。19世紀後半にフランスで印象派が発祥し、日常的な生活や無名の人を描くようになるまでは、肖像画に描かれるのは、それなりの存在理由があったようだ。
ルーヴル美術館では数多くの肖像画が見られるが、画家の名を知っていても、肖像画の像主に関しては詳しいことがわからない場合が多い。
絵の中の人は一体誰だろうかとか、著名な画家が描いたからには格別な人生を歩んだにちがいないと、鑑賞者はきっと思うであろう。いわば、肖像画はその人の背景を知ることによって、興味が深まる絵である。
ルーヴル美術館には、男性を描いたものも多数あるが、川島ルミ子氏は本書では女性のみに焦点を当てて、目次からもわかるように、11枚の女性肖像画について解説している。ここで取り上げられた11人の女性モデルの人生には、多くのドラマが潜んでおり、興味深い“女性列伝”となっている。

ルーヴル美術館を訪れる際に参考になるばかりか、西洋美術史を知る上でも有用な本だと思ったので、その内容を紹介しておきたい。


『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル


ルーヴル美術館の『ジャンヌ・ダルク』


フランス史の中で、世界でもっとも名が知られている女性は、ジャンヌ・ダルクとマリー・アントワネットだといわれる。
ハプスブルク家に生まれ育ち、」後にフランスの王妃になったマリー・アントワネットを描いた肖像画は多い。
しかし、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)が生きていた当時の肖像画は1枚もない。15世紀初め、当時肖像画を描いてもらうのは、王家の人々や貴族、あるいは聖職者に限られていた(この点、元木幸一氏の本に詳しいので、後日紹介したい)。

西洋の肖像画の歴史には、このような事情があるので、ルーヴル美術館の『ジャンヌ・ダルク』は、画家アングル(1780-1867)が想像力を働かせて描いたものである。アングルは、ドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承し、ナポレオンの没落後、1816年にダヴィッドが亡命した後、注目され、新古典主義的絵画の牙城を守った。
「この絵が実際にジャンヌに似ているかどうかは、もちろん知りようもない」と川島氏は断っている。
アングルによるジャンヌ像をみると、立派な甲冑に身を固め、知的でしかも目鼻立ちがはっきりした整った顔をしている。そして体格もよく精神的な強さも感じられる。窮地に陥っている人を救うのにふさわしい容貌?だと、川島氏は評している。

ジャンヌ・ダルクの生い立ちと神の「声」


ジャンヌが生まれたのは、フランスの北東にあるドムレミという村であった。ドムレミは現在でも人口が200人に満たないほど小さい村である。ジャンヌが生まれ育った家は2階建てで、比較的裕福な家だった。そこで、両親と5人の子どもが暮らした。

家の周囲には、こぢんまりとした庭があったが、その庭でジャンヌは「声」を聞いたという。1425年、ジャンヌが13歳のときのことである。その「声」の主は、大天使ミカエルであり、後にカトリーヌ天使とマルグリット天使が加わったようだ。
その「声」の内容とは、「オルレアンを解放し、フランスを救え」というものであった。つまり、フランスの王位継承権を主張するイギリス軍が侵入しているが、苦戦していたフランス王太子のために戦い、イギリス軍を追い出し、ランスのカテドラルで王太子に戴冠式を行い、正式にフランス国王の座につけるようにという内容であった。
天使の「声」を何度も聞くうちに、ジャンヌはそれを使命と思うようになり、3年後の1428年、16歳の彼女は、「声」が告げる通りに行動した。

「声」に従い、ドムレミ近くにあるヴォクラール村の指導官ボードリクールに会い、ロワール河畔のシノン城までの道中の護衛を依頼した。彼はこの要望を最初は拒否し、追い返したが、3回目に聞き入れた。1429年2月のことだった。

王太子とのシノン城での謁見とオルレアン解放


ドムレミからシノンまで11日間の旅をして、王太子シャルルに会った。王太子はジャンヌが語った「声」のお告げの信憑性を確かめるために、ポワティエにある高等法院で神学者たちに尋問させた。
3週間もの長い間、質問攻めにあったが、ジャンヌは難問に明快に答えた。王太子はジャンヌを信頼し、旗と甲冑を授け、兵をまかした。ジャンヌは1429年4月、イギリス軍に包囲されていたオルレアンへと向かった。
男装してジャンヌは、兵士とともに、決死の覚悟で戦い、5月8日にオルレアンを解放した。

ランスでの戴冠式


そして、1429年7月17日、ランスのカテドラルで、王太子をシャルル7世として、正式にフランス国王の座につける戴冠式を行った。
アングルの『ジャンヌ・ダルク』は、その戴冠式における彼女の晴れ姿である。

ランスでの戴冠式は、神から王権を認められ、地上における神の代理人になることを意味した。
歴史を遡れば、初代フランク王クロヴィスが洗礼を受けたのは、ランスのカテドラルであった。そのとき王は、聖霊が特別に届けたといわれる聖油を、ランスの聖レミ司祭から額につけてもらった。聖油を天から地上に運んだのは、鳩に変身した聖霊だった。それ以来、正式にフランス国王になるためには、ランスのカテドラルで戴冠式を行うようになった。

その後のジャンヌの悲劇


「声」のお告げは実現され、ジャンヌの役目は終わったかにみえた。国王となったシャルル7世が、敵との講和を希望したのに対し、愛国心の固まりとなったジャンヌは戦いのほうを好んだ。
国王にとって、戦闘的なジャンヌは、もはや救世主ではなかった。彼女がコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられ、イギリスに売り渡されても、国王は何もしなかった。

ジャンヌは国王に見捨てられ、宗教裁判にかけられた。魔女の汚名を着せられ、ルアンで火刑に処せられた。わずか19歳だった。遺灰はセーヌ川に投げられた。

1920年、ジャンヌ・ダルクはローマ教皇から聖女とされ、それ以降、彼女にゆかりの地や教会に像が置かれるようになった。そして5月第2日曜日を「聖女ジャンヌ・ダルクの祝日」、別名「愛国心の祝日」と制定された。これほどの栄誉に輝く人物は、国王にも、王妃にも、聖女にもいない。
(川島、2015年、11頁~24頁、184頁)

『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン


ジョゼフィーヌとナポレオン


終焉を迎えたセント・ヘレナ島で、ナポレオンは、
「余が心から愛していたのはジョゼフィーヌだけだった」
と部下にしみじみ語ったという。

ナポレオンは小さいころから英雄にあこがれ、古代マケドニアのアレキサンダー大王を模倣して、ヨーロッパに大帝国を築く夢を抱いた。そのような超人的野心家のナポレオンの心を奪う要素をジョゼフィーヌは持っていたと川島氏はみている。

ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネ(1763-1814)は、典型的なフランス女性であり、おしゃれで、浪費家で、嘘が上手で、気分屋で、男を操るすべを知っていて、人生を心から愛していた。

ジョゼフィーヌの生い立ち


それでは、このジョゼフィーヌの生い立ちからみてみよう。
1763年、ジョゼフィーヌは、カリブ海のフランス領マルチニック島に生まれる。父は大農園経営者で、恵まれた幸せな少女時代を送っていた。
10歳のとき、修道会経営の寄宿舎に入り、学業だけでなく、礼儀作法やダンスも学び、教養を身につけ、14歳で実家に戻った。あとは、将来性のある青年との結婚を待つばかりだった。

ジョゼフィーヌの結婚


叔母から結婚話が持ち込まれ、ボーアネルという、パリに住む19歳の青年子爵を紹介される。ジョゼフィーヌは父に付き添われ、船でフランスへと向かった。1779年、16歳のときのことである。
マルチニック島では、その個性的な美貌で評判のジョゼフィーヌだったが、パリでは、南国育ちの彼女は垢抜けない冴えない女性だったようだ。
夫は妻にパリの社交界にふさわしい教養を身につけさせようとした。開放的な家庭に育ったジョゼフィーヌは物事を気楽に考え、移り気で気まぐれな性格だったので、それは無理なことだった。それでも、おしゃれだけには興味を抱いていた。化粧やヘアスタイルの研究をしたり、全身をうつして歩き方を練習したりしたようだ。

将来を期待された才知ある夫と、教養のとぼしい軽率な妻の接点はなく、夫婦仲は徐々に悪化した。息子ウジェーヌと娘オルタンスが生まれても、2人の仲は冷えたままで、5年で結婚生活は終わりを迎える。
その後、フランス革命で、王党派の議員だった子爵ボーアルネは捕らえられ、処刑されてしまう。妻だったジョゼフィーヌも投獄されたが、強運にも危ういところで、革命が終わり、釈放された。

ジョゼフィーヌとテレーズ・カバリュス


もしもジョゼフィーヌが、テレーズ・カバリュスと知り合わなかったら、彼女の生涯もフランスの歴史も、まったく異なっていたであろうといわれる。
ふたりは、カルム監獄で親しくなった。そこでテレーズを救出するために、彼女の愛人タリアンが同志バラスと組んで、クーデターを起こし、革命を終わらせた。

テレーズは危機一髪のところで命拾いしたが、その命の恩人タリアンと結婚した。しかし長続きせず、タリアンと共に革命家を倒した英雄バラスの愛人となる。バラスは国内総司令官という地位にあった。テレーズの親友ジョゼフィーヌもバラスの愛人になる。

テレーズとジョゼフィーヌには共通点があった。ふたりには、相手の心を奪い取るような妖艶な美しさの持ち主であった。さらに奔放な性格で、湯水のごとくの浪費癖も共通点だった。社交界はこの上なく華やいでいた。

ジョゼフィーヌとナポレオン


そうして、ジョゼフィーヌは、テレーズにナポレオン・ボナパルトを紹介された。ジョゼフィーヌは、みすぼらしい身なりで、顔色が冴えないその青年に興味を持てなかった。一方、ナポレオンは、ジョゼフィーヌに成熟した女性の魅力に圧倒され、すぐさま求婚した。
バラスが、そのことを知ると、浪費家のジョゼフィーヌと離れられると喜び、“結婚祝い”として、ナポレオンをイタリア方面軍総司令官に任命した。それが、ナポレオンの輝かしい昇進の始まりだった。

ナポレオンは、そのイタリア遠征で、戦略、指導力を発揮して、華々しく勝利した。つい数週間前まで無名だったナポレオンは、一躍、熱狂的にフランス国民に迎えられた。その後の戦いでも勝利を重ね、英雄の名をほしいままにし、ついにフランス皇帝の座を獲得した。

ジョゼフィーヌは当初は夫を軽視し、浮気の限りをつくしていたが、夫に忠実な妻に変身した。皇后にふさわしい女性に変わった。皇后としての教養を習得するために、読書に時間をさき、絵画を鑑賞し、コンサートを催した。フランス女性のエレガンスを示すために、歩き方も大きな鏡に向かって工夫した。頬紅を濃くつける化粧法を考え出し、真冬でも冷水で肌を引き締めていたそうだ。服装も、ギリシャ彫刻を思わせる、ゆったりとした流れを生むドレープと、身長を高く見せる効果があるハイウエストのドレスを考案した。それは帝政スタイルと呼ばれ、大流行を生んだ。
ジョゼフィーヌは魅力的な皇后になった。粗野な部分が一向に抜けないナポレオンを、ジョゼフィーヌは優雅に補っていた。彼女はナポレオンにとって必要な女性だったのだが、、、

しかし、世継ぎが生まれないという問題があった。2人の連れ子がいたが、ナポレオンとの間に子どもは生まれなかった。このことが原因で、ナポレオンから離婚を言い渡された。1809年11月30日のことだった。

離婚後のジョゼフィーヌ


離婚したとはいえ、ジョゼフィーヌはナポレオンの配慮で、皇后の称号と年金を手にして、パリ近郊の館マルメゾンに暮らした。その館は、ナポレオンのエジプト遠征中に、夫に内緒で高額で購入したものだった。
離婚後、マルメゾンに暮らすようになったジョゼフィーヌは、最初のうちは嘆き悲しんだが、もともと楽天家である。それに、状況への適応力が高かった。マルメゾンが社交の場となり、雅やかな日々がくりひろげられた。
ナポレオンの宿敵、ロシア皇帝、アレクサンドル1世もそのひとりであり、彼がジョゼフィーヌの元を訪れた1814年が、運命の年になった。5月14日にアレクサンドル1世を迎えたジョゼフィーヌは肺炎をわずらい、そして5月29日朝、マルメゾンにて50年の生涯を閉じてしまう。起伏に富んだ生涯であった。

ナポレオンはその約1カ月前にエルバ島に流刑にされていた。アレクサンドル1世sの治世に、モスクワ遠征に大敗し、その後の反ナポレオン諸国との戦いでも敗退し、皇帝を退位させられ、エルバ島に追いやられた。
ナポレオンはそのエルバ島で、ジョゼフィーヌの死を部下から知らされた。彼はひとりで部屋に閉じこもり、長い間泣き続けていたという。

川島氏は、女性ならではの視点から、次のように想像している。
「ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚しなければ、彼に対する諸外国の敵意も、あれほど厳しくなかったかもしれない。ジョゼフィーヌには、窮地に陥った夫を助けるために、彼女ならではの特別な武器があったと思うからである。
 ナポレオンもそれに気づき、終焉の地で悔やんがかもしれない」と。
(川島、2015年、25頁~41頁)

『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド


レカミエ夫人の生い立ちと“年の差婚”


ジュリー・アデライド・ベルナール=レカミエ(1777-1848)は、まるで天上人のような汚れなき美貌の持ち主だったので、歴史に名を残したと川島氏は捉えている。レカミエ夫人は、作家でもなく、また画家、歌手、女優でもなかったが、その美しさゆえに、その名は当時から現在にいたるまで語り続けられている。

彼女は、裕福な銀行家ジャック=ローズ・レカミエと結婚したので、レカミエ夫人と称された。彼女は、公証人ジャン・ベルナールの娘で、通称ジュリエットと呼ばれ、1777年に、リヨンの裕福な家に生まれた。
ふたりが結婚した1793年4月24日は、フランス革命の真っ只中であった。夫は42歳で、妻は15歳の“年の差婚”であった。

ふたりが結婚した1793年といえば、国王ルイ16世が、その約3カ月前の1月21日にすでに処刑されていた。革命家の行動は過激になり、次々と貴族や金持ちを捕えては、投獄し、処刑していた。莫大な財産を持つレカミエは、いつ自分の身に危険がふりかかるかと、恐怖におののく日々であった。独身のレカミエは、小さいときからその成長を見続けてきたジュリエットを妻とし、彼女を財産相続人にしようと考え、結婚を決めた。

結婚したとはいえ、夫のレカミエは、妻のジュリエットに指一本ふれることはなく、まるで自分の娘のごとくに扱ったそうだ。レカミエ夫妻のこの奇妙な夫婦生活は、たちまち社交界に知れ渡った。当時、“年の差婚”は、貴族や金持ちの間では、さほど驚くべきことではなかったが、結婚して何年もの間寝室を別にしていることは稀で、人々の好奇心を呼んだようだ。

社交界の中のレカミエ夫人


恐怖と隣り合わせの日々を送っていた革命が終わり、総裁政府の時代を迎えた1795年になると、社交界が復活した。着飾った紳士淑女の中に、レカミエに付き添われたジュリエットもいた。レカミエ夫人の美貌は際立っていた。

川島氏はレカミエ夫人の美しさを、次のように形容している。
「ラファエロが描く女性のような優美さと気品を備えるジュリエットは、ひときわ目立っていた。ルーヴルの絵からもわかるように、彼女の美しさには現世を超えた崇高ささえあった」(47頁)

美しいジュリエットには、崇拝者が次々と現われた。そのひとりが、ナポレオン・ボナパルトの弟リュシアンだった。弟は、1799年、ジュリエットをひと目見て恋におちる。1799年といえば、エジプト遠征から戻った兄ナポレオン・ボナパルトが、クーデターに成功し、第一執政になった年で、兄が驚異的な出世をしたため、弟も社交界で名を知られていた。その弟のジュリエット宛の情熱的なラブレターがフランス国立図書館に残っている。
ジュリエットは手紙を受け取るたびに、夫に見せていた。「彼を絶望させてはいけない。けれども何かを与えてはいけない」というのが、夫のアドヴァイスだった。

夫の指導のもとに、社交術に磨きがかかった。清楚なモスリンやタフタ、シルクのドレスに身を包み、天使のような微笑を浮かべ、男たちに親身になって対応する。
レカミエ夫妻は、スイスの大銀行家ネケールのパリの邸宅を、優美な館に変えて、サロンを開き、評判を呼んだ。そこに参加できることがひとつのステイタスにさえなったが、そのサロンは次第に、文芸人、政治家、元王党派が集まり、ナポレオン反対派の集会の場の色合いが濃くなっていった。

レカミエ夫人とスタール夫人


そこで、1803年、ナポレオンは、レカミエにサロンを閉鎖するよう命じた。ナポレオンが皇帝になる前年のことである。
同じ年、1803年に、ジュリエットの親友の才女スタール夫人が、ナポレオンから国外追放の処分を受けた。スタール夫人の父がネケールで、その父の邸宅をレカミエ夫妻が買ったことから、ふたりは親しくなった。スタール夫人は、ナポレオンを憎悪し、辛辣な文章を書いていたことが、追放の理由だった。

スタール夫人は「知の女王」、そしてジュリエットは「美の女王」と呼ばれ、ふたりは社交界の華麗な二輪の花であったが、1803年に、その花をナポレオンが摘み取った形となった。しかし、ふたりの女性は、その後も、固い友情で結ばれていた。

レカミエ夫人の肖像画


1811年に、ジュリエットは皇帝ナポレオンからパリを追放され、生まれ故郷のリヨンにj帰ったり、イタリアを転々としていた。そしてスイスのコペにいるスタール夫人を訪問した際に、プロイセン王子アウグストに出会い、ふたりは恋におちる。
アウグストに結婚を申し込まれ、ジュリエットは夫に離婚を要求したが、夫が大反対したため、アウグストの申し出を断わってしまう。
プロイセン王子は失意に打ちのめされてしまい、ジュリエットは自分のお気に入りの肖像画をプレゼントした。
それは、フランソワ・ジェラールが描いた『ジュリエット・レカミエ』(1805年、カルナヴァレ博物館蔵)である。
ルーヴル美術館のダヴィッド作『マダム・レカミエ』の2年後の1802年に描かれ始め、1805年に完成した絵だった。

実は、ダヴィッドはジェラールの恩師である。ダヴィッドは、革命のときには議員となり、ルイ16世処刑に1票を投じ、その後はナポレオンお抱えの画家になり、新古典主義の巨匠とうたわれた。
自尊心も強かったダヴィッドは、ジュリエットが弟子のジェラールにも肖像画を頼んだことを知って、気分を害し、当時、彼が手がけていた『マダム・レカミエ』を放置したといわれている(そのために、この作品は未完成で終わり、ダヴィッドのサインはない)。
(また別の説では、ダヴィッドの仕事があまりに遅く、しびれをきらしたジュリエットが、弟子のジェラールにも肖像画を依頼したともいう)。

ともあれ、ダヴィッドは、23歳の美しい盛りのジュリエットの顔を完成させているので、ナポレオン時代の、美しくエレガントなジュリエットの肖像画を私たちは堪能できるのである。

レカミエ夫人とシャトーブリアンの恋


さて、1814年にナポレオンが地中海のエルバ島に流刑されると、スタール夫人はフランスに戻り、サロンを再開する。一方、ジュリエットは夫の破産で財産を失い、パリ市内のオー・ボア修道院で暮らした。
そのサロンに、政治家でロマン派の作家シャトーブリアンが頻繁に訪れる。ふたりの最初の出会いは、1801年にスタール夫人のサロンであった。その年に、シャトーブリアンは「アタラ」を発表し、名を成していたが、ボサボサ頭でさえない格好であったこともあり、白いシルクのドレスをまとったジュリエットに声をかけることもできなかったようだ。

そして、ふたりが再会したのは、1817年5月28日、スタール夫人宅のディナーの席であった。シャトーブリアンは48歳、ジュリエットは39歳になっていた。
食事中に言葉も視線さえも交わさなかったそうだが、その後、シャンティイの森の中にある友人の館で愛を交わした。ジュリエットは、シャトーブリアンに献身的な愛を捧げていた。一方、シャトーブリアンは作家としても政治家としても成功していたこともあり、アヴァンチュールを楽しんでいたが、最終的にはジュリエットの元に戻っていた。
ジュリエットの夫が世を去った後、シャトーブリアンは結婚を申し込んだが、ジュリエットは優雅に断わったようだ。
後にジュリエットは白内障で目が見えなくなったが、それでも、リューマチで苦しむシャトーブリアンを介抱し、見えない目で彼を看取ったという。1848年7月4日のことである。

レカミエ夫人の最期


残されたジュリエットは、流行したコレラに感染し、翌年1849年5月11日に生涯を閉じた。シャトーブリアンが世を去って、約10ヵ月後のことだった。

ジュリエットはこの世から姿を消したが、その美しい容姿は人々の魂を揺るがし続けていると川島ルミ子氏は述べている。
そして、次の文で締めくくっている。
「彼女ほど時空を超えて典雅な美貌を持つ女性は世界でも稀である。ルーヴルの肖像画からはそれが匂い立ってくる」と。
つまり、マダム・レカミエは「時空を超えて典雅な美貌を持つ女性」であると捉えている。
(川島、2,015年、43頁~57頁)。

『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


ヴィジェ=ルブランの生い立ち


マリー・アントワネットの有名な肖像画に、一輪のバラを手にする王妃を描いた絵がある(1789年作)。その作者が、エリザベット・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)で、王妃と同年の1755年の生まれである。美貌の女流画家である。

エリザベットは、画家の父から絵の手ほどきを受けて、幼い頃から絵の才能を発揮した天才児であった。父親は娘が7歳のときに、その非凡さに気づき、成長を楽しみにしていた。しかし、エリザベットが12歳のときにその父を亡くし、その後は父の友人の画家ドワエンやブリアール、そしてヴェルネの指導を受けた。
ブリアールは、王立絵画アカデミーの会員で、ルーヴルにアトリエを持っていた。彼のアトリエに頻繁に通い、指導を受けるとともに、ルーヴルに展示してある巨匠(例えばレンブラント)の模写も熱心にしたようだ。

15歳のときに、エリザベットは肖像画の依頼を受け、1774年、19歳のときには、はじめて個展を開いている。将来名を残す才能があると注目を集め、画商ジャン=バティスト=ピエール・ルブランも彼女の絵と人柄に惹かれた。
ピエール・ルブランは、ルイ14世時代にヴェルサイユ宮殿の天井画を手がけたシャルル・ルブランの遠縁にあたる人物である。

ヴィジェ=ルブランの結婚


ルブランとエリザベットは、1775年8月7日に結婚した(出会って1年も経たずに急いで結婚したのは、母の再婚相手と折り合いが悪かったからであるようだ)。
夫は、画商として幅をきかせていたこともあって、エリザベットは画家ヴィジェ=ルブランとして、すぐに名が知られる1780年には娘ジャンヌ・ジュリー・ルイーズも生まれた。

この娘と一緒に描いた自画像が、ルーヴル美術館で展示されている。その絵を見ると、ヴィジェ=ルブランは、気品と優しさのある顔立ちで、心がなごむほど美しい。彼女が描く肖像画もまた、優美で品格がある。だから、貴族たちの好みに合い、多くの注文があり、宮廷でも話題に上り、ついにマリー・アントワネットの耳に届いた。

マリー・アントワネットの肖像画とダヴィッドのアドヴァイス


そして、彼女が王妃の最初の肖像画を手がけたのは、1779年である。二人とも24歳だった。
この女流画家をたいそう気に入っていた王妃は、寝室の裏手にある私室「夫婦の間」で肖像画を描いてもらった。それは、日本の蒔絵を飾っていた部屋で、ごく限られた人しか入ることができなかった。

ヴィジェ=ルブランの手によるマリー・アントワネットの肖像画は約20枚あるが、もっとも馴染み深いのは、ヴェルサイユ宮殿に飾られている、「マリー・アントワネットと子どもたち」であろう。真紅のドレスをまとう王妃が椅子に腰掛け、3人の子どもたちと一緒にいる。

この絵を依頼されたとき、ヴィジェ=ルブランは、画家ダヴィッドにアドヴァイスを求めた(ダヴィッドは、後にナポレオンのお抱えの画家になる新古典主義の巨匠)。
彼のアドヴァイスは、イタリア・ルネサンスの代表的画家ラファエロの『聖家族』を参考にするように、ということであったそうだ。
その名作を思い浮かべながら、王妃のこの肖像画を見ると、登場人物は異なるが、ダヴィッドのアドヴァイスが克明に表現されていることがわかると川島氏は評している。

フランス革命とヴィジェ=ルブラン


フランス革命前、王室や貴族の肖像画を依頼し、ヴィジェ=ルブランは破格の収入を得ていた。しかし、1789年7月14日、バスティーユ監獄が襲撃され、革命が始まる。
7月14日当日、彼女は、ルーヴシエンヌに住んでいたデュ・バリー夫人(前国王ルイ15世の愛妾)の館で、夫人の肖像画を描いている最中だった。
革命家は、国王一家をヴェルサイユ宮殿で捕らえ、パリに連行した(10月6日)。それを知ると、彼女はマリー・アントワネットの特別な庇護を受けていたからには、革命家の手が伸びるにちがいないと、危険を察知する。
フランスにいたら危険だと判断して、彼女は娘とわずかなお金をもって、フランスを後にする(その頃までに夫とは不仲になっていたので、母と娘と二人で)。肖像画の穏やかで上品な顔立ちからは想像しがたいが、この時の機敏な行動から、彼女は強い意志と決断力を持つ女性であるとわかる。

行き先は、イタリア、オーストリア、イギリス、ロシアと転々としたが、滞在中でも、各国の貴族などから肖像画の注文が殺到したようだ。人びとをひきつけたのは、「マリー・アントワネットの元お抱え画家」というお墨付きだった。

革命後と晩年


革命が終わり、ナポレオンの時代になり、国に秩序と平和が戻ると彼女は祖国に帰る。
だが、マリー・アントワネットとの思い出は、チュイルリー宮殿、ヴェルサイユ宮殿など、いたるところに残っており、彼女にとっては苛酷なことだったであろう。
それに加えて、最愛の娘が母の大反対を押し切って、強引に結婚し、それが元で親子は仲たがいしてしまった。

ひとりぼっちになった彼女は、再び旅の人となり、諸国を転々とする。そして、フランスに戻ったのは、ルイ18世の時代だった。パリに戻った彼女は、パリのサン・ラザール通りの住まいか、ヴェルサイユ宮殿近くのルーヴシエンヌの別荘で暮らした。
革命前に、ルーヴシエンヌのデュ・バリー夫人の館をたびたび訪れ、その肖像画を3枚も彼女は描いたが、その地が気に入り、別荘と購入した。デュ・バリー夫人も、マリー・アントワネットと同じく、革命の犠牲となり、コンコルド広場で処刑されてしまうのだが。

こうした思い出も遠いものになってしまった1842年3月30日、ヴィジェ=ルブランは、パリのサン・ラザールの自宅で、ひとりさみしく生涯を閉じた(それ以前に、別れた夫も、ひとり娘も、世を去っていた)。
ヴィジェ=ルブランの人生は、「絵ひとすじに生きた長く波乱に富んだ人生だった」と川島氏は結んでいる。
(川島、2015年、59頁~73頁)。

『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール


ルーヴルのポンパドゥール夫人の肖像画


ルーヴル美術館のモーリス・カンタン・ド・トゥール作(Maurice Quentin de La Tour, 1704-1788)「ポンパドゥール夫人」の肖像画は、「美貌と稀にみる才知でヨーロッパ中に名を轟かせていた時代に描かれただけあって、輝きがほとばしっている。そのとき夫人は三十四歳だった」と著者は評している(77頁)。

ポンパドゥール夫人の生い立ちと結婚


ポンパドゥール夫人(1721-1764)は、本名をジャンヌ=アントワネット・ポワソンといった。1721年12月、パリの食糧調達の役人の家に生まれ、ブルジョア階級の娘として、貴族の子女以上の教育を受けて育った。父親は、財産はあるものの、何の爵位もなく、単なるブルジョアにすぎなかったので、娘にはりっぱな教育を受けさせた。礼儀作法、語学、絵画、音楽、ダンスなど、末来の国王の愛妾として、ふさわしい教養を身につけさせた。
娘が9歳のときに、占い師が娘はいつの日にか王様の愛人になると告げたことに両親は大喜びし、それを実現させようと努力した。ジャンヌ=アントワネットの母は、誰も目を見張るような美人でもあり、娘の美しさは母親ゆずりだった。

ジャンヌ=アントワネットは、20歳のとき、4歳年上のデティオルという徴税請負人の資産家と結婚した。デティオル夫人はふたりの子どもに恵まれたが、小さい頃のあの予言を実現するという野心に燃え続けていた。
そのために、国王に近づくチャンスを探っていた。母親の知り合いにルイ15世の侍従がおり、取り入った。侍従の取り計らいで、1745年2月、ヴェルサイユ宮殿で開催されたルイ15世の皇太子の結婚祝賀祭の仮装舞踏会に、デティオル夫人は出席することができた。

ポンパドゥール夫人とルイ15世


デティオル夫人は、羊飼いの娘に扮したが、さして国王の関心をひくこともなかった。それでくじけることなく、彼女は3日後のパリ市庁舎での舞踏会に出席し、ルイ15世の目の前で、優雅にハンカチを落として、注意を引いた。それを拾った国王は、彼女と視線と言葉を交わした。これがきっかけとなり、国王の愛妾になったようである。

さらなる地位を目指し、彼女は公式愛妾(王妃と貴族たちから公の席に出席する権利を認められた愛妾のこと)になることを希望したが、それを実現するには大きな障害があった。
公式愛妾になるのは、貴族の称号を持つ女性に限るという規則があり、デティオル夫人はブルジョアでしかなかった。そこでルイ15世の発案で、5年前に死んだフランソワーズ・ド・ポンパドゥール侯爵夫人の称号と領地を買い上げ、デティオル夫人に与えたそうだ。

ポンパドゥール夫人の功績


こうして、ポンパドゥール侯爵夫人がヴェルサイユ宮殿に暮らすようになったのは、1745年9月だった。彼女が23歳のときのことである。
その時から42歳で世を去るまで、彼女は、ルイ15世のために才知を発揮し、フランスの発展に貢献する。
ポンパドゥール夫人の功績としては、陸軍士官学校(後にナポレオンが学ぶ)、コンコルド広場の発案が挙げられる。そして、セーヴル磁器の誕生にも関わり、セーヴルに王立磁器製作所を設けたのは、ルーヴルの肖像画が描かれた翌年で、1756年のことだった。深いブルーが大きな特徴で、それはセーヴルブルーと呼ばれるようになった。
またポンパドゥール夫人は、芸術をこよなく愛し、フラゴナール、ラ・トゥール、ブーシェといったロココ派の画家を庇護した。そのほか、哲学者ヴォルテールや啓蒙思想家ディドロなどにも目をかけた。

ルイ15世はポンパドゥール夫人の影響を受け、芸術や書物に興味を示し、国事にも関心を抱くようになった。彼の治世に文芸が発達し、国が安泰だったのはポンパドゥール夫人の役割が大きかった。
2歳のときに相次いで両親を失ったルイ15世にしてみれば、ポンパドゥール夫人は愛妾とか相談役以上に、「幼子のように甘えられる女性」「母親のような寛大な愛で包んでくれる人」だったと川島氏は推測している。
ルイ15世にとってのかけがえのないポンパドゥール夫人は、1764年4月、ヴェルサイユにて42歳の生涯を閉じた。20年もの長い間、自分の身近にいた人を失った国王の嘆きは、想像以上に大きかった(川島、2015年、75頁~89頁)。

【コメント】
フランソワーズ・ベイル(エクシム・インターナショナル訳)『ルーヴル見学ガイド』(artlys、2001年、42頁)にも、ブーシェとポンパドゥール夫人について触れている。
「神話から採られたこの艶っぽい情景は当時大きな成功をおさめ、ブーシェはルイ15世とポンパドゥール夫人のお気に入りの画家となった」と述べている。
(原文:Ces scènes de mythologie galante remportent un
immense succès à l’époque : Boucher sera le peintre favori
de Louis XV et de Mme de Pompadour.)
(François Bayle, LOUVRE : guide de viste, artlys, 2001, p.42.)
【語句】
remportent<remporter持ち帰る(take back)、獲得する(win)の直説法現在
sera <êtreである(be)の直説法単純未来

『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン


ヘンリー8世とアン・オブ・クレーヴズ


イギリスの国王ヘンリー8世は、歴代の王の中で、もっとも残忍で非道な君主として知られている。
生涯に6人もの妃をとりかえた。そのために離婚を禁止しているカトリックを改宗、イギリス国教会を設立した。イギリスに500以上あったカトリック修道院は廃止され破壊され、財産も没収された。そして、次の王妃を迎えるために、前妃を無慈悲にも、2度も処刑させた。
このヘンリー8世に誰もが恐れおののいた。その国王の4番目の妃になったのが、アン・オブ・クレーヴズ(1515-1557)である。

アンは、現在のドイツにあたるユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の領主の次女として生まれた。お世辞にも美しいといえる女性ではなかった。
12歳になったとき。後にロレーヌ公国の支配者となる2歳年下のフランソワ1世と婚約するが、両家のいざこざで破棄された。
そして、アンは、イギリス国王ヘンリー8世に嫁ぐことになった。この結婚に一役かったのは、かのクロムウェルだった。クロムウェルは国王の信頼を得て、側近となり、イギリス国教会の設立を勧めた人物である。

アン・オブ・クレーヴズ の肖像画と結婚


1537年に、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアが若くして世を去る。この時、クロムウェルはヘンリー8世のお気に入りの画家ハンス・ホルバイン(1497/98-1543)に、年頃の/良家の娘の肖像画を依頼した。ホルバインは、南ドイツに生まれ、デューラーと並んでドイツ・ルネサンスの代表的な画家で、後にイギリスに渡り、ヘンリー8世の宮廷画家となる。
その肖像画は、国王ヘンリー8世に新しい王妃を選んでもらうための、いわばお見合いの写真の代わりである。その中に、アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves、ドイツ語名、アンナ・フォン・クレーフェ Anna von Kleve)もいた。それが、ルーヴルにある彼女の肖像画である。

肖像画を見たヘンリー8世は、一目でアンが気に入った。そればかりではなく、駐英フランス大使シャルル・ド・マリヤックが「穏やかで優美さを備えた女性」と言ったものだから、彼女との結婚を決めた。
(ここに言葉を巧みに操るフランス人の本領が発揮された感がある。フランス人の外交上手なことが窺える。アンが美人とは言いがたいが、それほど醜いわけでもない。それを美的に形容することによって、イギリス国王の心を動かした)

1537年の春、クロムウェルによって両国間の交渉が進められ、10月4日には無事結婚の約束が調印された。
翌年、アンはヘンリー8世と結婚式をあげるために故郷を後にした。北フランスのカレー(当時はイギリス領)に到着し、船でドーヴァー海峡を渡り、ロチェスターに着いた。一刻も早く彼女を見たかったヘンリー8世は、予告もなしにその町で初めてアンと会った。
しかし、国王はひどく落胆してしまう。というのは、実物のアンは、肖像画とは比べものにならないほど、魅力のない女性だったから。年よりふけて見えて、服装もヘアスタイルも垢抜けなかった。

一方、ヘンリー8世は、お洒落で、派手好みだった。文学に精通し、音楽や絵画にも造詣が深く、スポーツもこなした。国王の落胆は怒りに変わり、気短な彼は婚約破棄しようと思った。それでも冷静さを取り戻し、国王の義務として結婚式を1540年1月6日に行った。

やはり結婚後もうまくいかなかった。もちろん容姿も好みでなかったが、話す言葉も国王は気に入らなかった。アンは母国語のドイツ語しか理解できなかった。国王はラテン語やスペイン語、フランス語などもこなしたが、悪いことにドイツ語は一番苦手な言葉だった。
そして国王は舞踏会や音楽会を頻繁に催し、華やかなことが好きだったが、アンはどれも興味を示さなかった。アンと一緒にいることは、退屈極まりなかった。

アンとヘンリー8世の離婚


結婚からわずか6カ月後の7月9日、ついにアンは離婚されてしまう。彼女はイギリス王妃の座にたった半年しかいなかった。離婚の理由は、アンとロレーヌ公国のフランソワ1世の婚約が、正式に解消されていなかったためとされた。

もっとも離婚後、アンは「国王の妹」という奇妙な地位を授けられ、領地、城そして年金をもらい受けた。ヘンリー8世は、アンを結婚相手にすすめたクロムウェルを処刑してしまったから、アンに対しては寛大な配慮をしたことになる。恐らくアンの性格が幸いしたのであろうとみられている。アンは物静かで、温厚で、従順で、憎めない女性だったようだ。まじめなアンに、ヘンリー8世は徐々に信頼を置くようになった。

一方、アンと離婚した同じ年に、ヘンリー8世はキャサリン・ハワードと再婚したが、1年半後に、姦通罪の汚名を着せられ、ロンドン塔で処刑されてしまう。アンに示した寛大さと比べて、あまりにも残酷な処置だった。その後、ヘンリー8世は、キャサリン・パーと結婚して落ち着き、妃交代劇は終わった。

アンの最期


アンは、ロンドンのベイナーズ城で静かに暮らし、元夫と友人のような関係を保った。離婚後も、生まれ故郷に帰ることなくイギリスに留まった。独身を通し、子どもを持つこともなく、1557年7月16日、生涯を終える。ヘンリー8世は1547年に逝去し、彼の5人の妃もすべて世を去っていたので、アンが最後まで生き残ったこととなる。
あまりにも短い間の王妃だったため、アンに関する記録は少ない。しかし、アンは由緒あるウェストミンスター寺院に葬られている。このことから、アンへの評価は決して悪くなかったことがわかる。ヘンリー8世の妃で、そこに埋葬されたのはアンだけだった。
(川島、2015年、91頁~102頁)

川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)


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