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佐藤 優著「獄中記」を読んで

2006-12-27 18:19:28 | 読書

著者が東京拘置所の独房で書いたノートはB五判六十二冊で、四百字詰め原稿用紙にして五千二百枚分になる。これを五分の一に圧縮して四六判の本、約五百ページに収めたのがこの「獄中記」である。

タイトルは「獄中記」であるが、読書録でもある。512日間に読んだ書籍のリストが巻尾にあるので数えると134タイトルに上る。『岩波講座 世界史』などは全31巻で、ほかにも全集ものがあるから、冊数にすると200冊ぐらいになるのだろうか。なかには『広辞苑』のような辞書も含まれているので、正確に読書の対象になったのかどうか分からないが、なかには何回も読み返したものもあり、いずれにせよ大した読書量である。しかし私の好みと重なるところはほとんどないのが面白い。それにしても厳めしいタイトルが多い。さすが同志社大神学部出身のクリスチャンである。

たとえばユンゲル『神の存在』については《獄中で三回読んだことになる。毎回、何か新しい発見がある。神学的な訓練を受けたことがない人が読んでも、何のことかさっぱりわからない本であるが、二0世紀半ばのプロテスタント神学書の名著といってよい。》(346ページ)と書かれている。たしかに神学に無縁の私には、この著書の一部が十五行にわたり引用されていてもチンプンカンプンで、素通りせざるをえない。そして佐藤氏の次の要約に辿り着く。

《要するにキリスト教であるとか、神であるとかについては全く言及しなくても、キリスト教の言うところの真理は他の形で言い表すことができるということだが、僕はこの考えに基づいて外交官という仕事をしていたし、様々な学術研究をしてきた。》(347ページ)
それならそうと、最初から引用などなしにそう云ってくれ、と思うのだが、私が即物的すぎるのだろうか。

同じような筋立ては随所に見られる。たとえばフーコー『監獄の誕生』についてもこうである。

《客観的な証拠調べによって犯罪を証明することができるとする近代刑事訴訟法において、本来自白は必要ない。しかし、捜査機関のみならず、裁判所までもが自白を重視し、必要とするのはなぜか?フーコーは二つの要因があると考える。
 第一は、自白は裁量の証拠で、矛盾する証拠を整理し、弁護側の反証に対して、有罪をもくるむ立場に立つ人びとの作業を軽減するからである。要するに自白は経済的なものである。
 第二は(そしてこの第二の要因の方がフーコーにとっては寄り重要であるが)、被告人自身に自らの犯罪を断罪させ反省の意を公開の法廷で述べさせることによって、社会に対する教育的効果を上げる。(『監獄の誕生』42頁)
 以上は私なりの言葉でまとめたものだ(フーコー自身の言葉はわかりにくい)。》

昨日(12月26日)の夕刊に「再審決定取り消し 名張毒ブドウ酒事件 自白信用性高い」の見出しがトップに大きく出ていたが、上の第一の要因は、高裁の決定の舞台裏を解説しているように思えるではないか。

それはさておき、佐藤氏のこの部分でも私はちょっと引っかかった。

佐藤氏はフーコーを自分なりの言葉でまとめたとのことであるが、この第一、第二とも、稀代の知識人である佐藤氏にとっては、自らの体験・思索を通じて容易に自得することではないのだろうか。フーコーを箔漬けに用いなくても、とふと思ったのである。

佐藤氏はこうも述べている。《以前から何度も述べているように僕は時代と共に進むことはやめた。しかし、人生を投げ出してしまったわけではない。アカデミズムでそれなりの努力を積み重ね、インテリの世界では一定の発言力を確保したいと考えている。他者に全く理解されない文章は「インクのしみ」にすぎないので、理解される文章を綴るということは一定の発言力を持つこととほぼ同義である。》(441ぺーじ)

他者に理解されるためには、第三者を援用するのではなく、自分の言葉で語れば十分であろうと私は思うのだが、『文系』の人はそれでは頼りないと感じるのだろうか。それとも自分の頭に浮かんだある『考え』を、先人の言説と関連づけて整理しないことには、公にしかねるのだろうか。

そういう私なりの引っかかりは別として、「なるほど」と共感を覚えた箇所を思いつくまま列記してみる。・・・に続く部分は私の反応である。

《『現代独和辞典』をとりあえず通読し、神学・哲学用語を抜き出しておこう。辞典を読むなどという優雅なことができるのも拘置所にいる特権である。》(25頁)・・・なるほど!

《小説や実用書籍の遊び本を全然読みたくならない私の心理状態もちょっと不思議です。おそらく、『拘置所は学習と鍛錬の場』と自分で決めてしまったからでしょう。》(69頁)・・・できてる!

《ドイツ語、ラテン語に加えてロシア語の勉強もしているので毎日がとても充実しています。チェーホフの『結婚申し込み』(大学書林)を暗記してしまおうと思っています。》(93頁)・・・『冬の旅』の全曲、ドイツ語で覚えるぞ!

《私がどうしても理解できないのは、なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、簡単に誤ったり、反省するのかということです。一〇〇年ほど前、夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で、猫に「日本人はなぜすぐに謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、謝れば許してもらえると甘えているからだ」と言わせています。》(100頁)・・・ヒヤヒヤ!

《神学論争を他の学問上の論争と比較した場合、私が見るところ、キリスト教神学には二つの特徴があります。
 まず第一に、理論的に正しいグループが負ける傾向が強いです。そして、勝ち組は政治力は警察力を行使し、本来は理論的問題である神学論争に介入します。ここで、人間の地には合理的要素と非合理的要素の双方があると考えるならば、これdバランスがとれるのです。論争に政治力を使って勝った正統派には「理論的には正しくない」という弱さが残ります。破れて異端の烙印を押されたグループは、「自分たちの方が真理を担っている」という認識をもつので、キリスト教世界が、一つの見解のみに塊自己硬直化を起こすことを防ぐ作用があります。》(132頁)・・・なんたる絶妙な、そして大人のバランス感覚であることよ!

《帝王学では、あえて責任感の欠如した人物を作ります。金正日に対してわれわれが違和感を覚えるのも金正日の拉致問題に対する責任感が極めて希薄だからと思います。しかし、北朝鮮のこのシステムが、日本の近代天皇制のコピーであることに気付いている日本の知識人がどれくらいいるかということです。》・・・ちょっと見では同感しかかったが、日本の近代天皇制は天皇の責任を免除することを目指して作られてきた、というのが私の認識なので、個人の資質に帰する佐藤氏の見解とは相容れない。

こういう調子で抜き書きをしていくと、止めどがない。共感するところが結構ある反面、これは違うな、と感じるところも出てくる。しかし佐藤氏と向かい合って対話感覚で読んでいけるのがはなはだ快い。

佐藤氏は《キリスト教徒が圧倒的少数者(カトリック、プロテスタント、正教合わせて人口の一%以下)であり、かつ一神教が何であるかを理解できない日本の風土の中で、僕たちがキリスト教徒であるということはどういう意味を持っているのか・・・》と自分に問いかける。自らを少数者と認識する佐藤氏のバックボーンをなすのは『自由な精神』に『ユーモア』である。この取り合わせに興味を持たれる方はまず「序章」に目を通すべきであろう。

ところで私には解けない謎が少なくとも一つ残った。

《今は書物の世界が面白くて仕方ありません。洋書が読めないのが残念ですが、与えられた条件の中で、日々の生活を最大限に楽しむとともに有効に活用したいと思っています。》(96ページ)

拘置所では検閲を通らないことには差し入れの書物が手元に届かないそうである。とすると英語はともかく、佐藤氏のようにドイツ語、ロシア語、チェコ語にラテン語の本を読みたいと思っても、それを検閲できるような語学に堪能な係官がいないから、洋書の差し入れが適わないのかと思っていた。ところが439ページに次のような文章が出てくる。

《もっとも戦前は外国語の図書の差し入れが認められていたので、勉強は相当できたようである。東京拘置所でも外国人被収容者は外国語図書をかなり自由に読めるようなので、羨ましく思う。》

佐藤氏に洋書の差し入れが認められなかったのは、どういう理由によるのだろうか。また佐藤氏は戦前より窮屈な規則になぜ抗議しなかったのだろうか。

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