日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

朝鮮時代の三坂小学校同窓会に出席して

2007-05-15 17:13:26 | 在朝日本人
私は戦後朝鮮からの引き揚げ者である。京城府公立三坂国民学校に1年から4年まで在学して、5年からは江原道鉄原邑に疎開して鉄原国民学校に通ったが、そこで敗戦を迎えた。いずれの国民学校も卒業することはなかったが、三坂小学校同窓会に在五(敗戦時に在学しておれば五年生)会員として数年前に加えていただいた。

2005年10月に東京で開催された全国大会が全員による集まりの最後になった。会員の高齢化による。しかし近畿、北陸、四国に点在する会員の集まりとして、幸いにも関西三坂会が結成されて、昨日その会合が京都で開かれた。会員数ほぼ270名のうち参加者は31名で、最年長は昭和9年の卒業生の方だった。

この最年長の方が出席者にプレゼントを下さった。Google Earthの三坂小学校を中心とした現在の航空写真のプリントである。またお話の実に明晰なこと、85歳になっても衰えを見せないチャレンジング精神こそ、われわれ外地で少年・少女期を過ごした者の真骨頂とわが意を強くしたのである。出席者のほとんどは当然のことながら私より年長者である。この関係が一生続くのだと思うと、上の兄弟のいない私に甘えた心というか、心のやすらぎが押し寄せてくるのである。

実は私もGoogle Earthで旧居を見付けていた。同窓の皆さんにお知らせしようという発想の浮かばなかったのが残念である。以前に記したことであるが、1998年に現地の通訳の助けを借りて三坂通30番地26にあった旧居を奇跡的に見つけ出していたからである。その場所を航空写真で示す。



航空写真で旧三坂小学校を見ると、運動場右手にあったプールが見あたらない。1998年にはまだ使われていたので、その後取り壊されたのであろう。それにしても戦後半世紀も使われていたとは、立派なものを作ったものだと感心する。

小学校の右手にある裏門から上下に走る三坂通に出て上の方に歩いていく。鋭角がはっきりしている三角の交差点に出ると、図では後戻りになるが実際は坂を上っていく。上り始めたすぐ右手に不動産屋があり、そこで通訳が昔の家の様子を店主に聞いてくれた。日本人家屋の多くが取り壊されていたが、私の旧居だけは外装などは完全に変わっているが、内部はそのままに残っているとのことであった。坂を上っていくと左手にその家が見えてきた。航空写真でピンのしるしを付けたところである。



写真で左側の家は完全に建て替えられていた。父と同じ鐘紡の社員で手塚さん一家がかって住んでいたところである。北海道の出身で昭和18年か19年に満州に転勤して行かれた。この家の塀際に桐が植わっており、私はよく塀の上から木に登っていたが、ある時掴んだ枝が折れて地面に投げ出され、そのときに右腕関節のすぐ下を切り裂いてしまった。親に知られると怒られるのは必定なので、自分でなんとか処置を済ませた。幸い膿まずに直ったが、お蔭で刀で切られたような傷跡が今も残っている。



写真の門は韓国風であるが昔は日本式の門柱に門扉だった。旗日には向かって左の門柱に日の丸の旗を掲げた。これは長男の私の仕事であった。写真に見える樹木はその後の住人が植えたものである。また右側の家はなくて、石垣のうえは空き地で草がよく生えていた。誰かに教わってあかざを集めると母はそれをおひたしにした。

門柱のすぐ後ろは板囲いになっていて、オンドルの燃料である無煙炭を蓄えた。戦争が進んでくると庭を掘って防空壕を作ったが、なにかあるとよく潜り込んで遊んだものである。

門を入り玄関に進む。この玄関前で撮った写真が残っている。



この家族全員の写真に、父が「昭和十七年十月十?日京城神社祭礼当日三坂三十番地二十六ノ玄関前」と書き記している。もう一枚は妹の写真で、玄関先の様子がややはっきりと分かる。



昨日の出席者の中で、ご両親が持ち帰られたのであろう、通知表などを持参の方がいた。私たちの世代の親は、そういうことがごく自然に出来ていたように思う。着の身着のままで逃げて帰ったのに、子供の成長の証しを大事に持ち帰ってくれたのである。親の愛情を感じる。そのおかげで私も通知表が残っており、それにまつわる話を以前に記したことがある

優等賞の賞状なども出て来たのでご覧に入れる。一年生の時の『学業優秀素行善良』の言葉がいい。それにしても漢字でゴツゴツした厳めしい文章である。低学年の私に読めたのだろうか。二年目からは優等賞が賞状に変わり、『修練』という言葉が加わった。世情を反映してだろう。ところで今どきの子供たちもこのような賞状を貰っているのだろうか。人に賞められるというのは励みになるもの、年取ってからの勲章も悪くはないが、子供を励ます方がもっともっと大切だと思う。『修練』によく励んだのであろう、四年連続で賞状を頂いて最後のが昭和二十年三月二十四日、戦争に負けるまでもう五ヶ月も残っていない。それなのにこのあとすぐ鉄原に疎開したのである。






最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして。 (kitty)
2007-08-11 08:33:49
はじめまして。日本の歴史について調べていて、偶然こちらにたどり着いた30代の者です。京城での日本人の暮らしについての記事を興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。

私の亡き祖父母も戦時中京城に住んでいて、父も京城で生まれました。祖父母が戦後引き上げてくるときに苦労したと伝え聞いていたので、子供ながら戦時中のことは訊ねてはいけないような気がしていました。祖母が父のおむつを夜に洗ったら、京城の冬は寒かったためおむつが凍って困ったというのが唯一、聞いた話です。

現在海外で暮らしているためか、自分の国の歴史を知りたいと思いが日本にいた頃よりも強くなっている気がします。先日、古本屋で1938年のLife(雑誌)の表紙に、日本の写真をみつけたので買いました。笑顔でおもちゃの銃をもった男の子と背景の東京の町並みをみていると、その頃の人々の暮らしや考えに興味がわいてきます。

それではまた遊びに来ます。