日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日本語の歌を歌うのに何が必要か

2006-07-17 12:15:18 | 音楽・美術
時間にゆとりが出来てからヴォイストレーニングを学び始めて、もう六、七年になる。これは洋楽である。一方、一弦琴も同じ年月ぐらい習っている。これは弾き語りが主である。

一人の人間が歌を歌う以上、洋楽であれ邦楽(純正!)であれ、日本語であれば同じ発声になるのが一番自然である。その発声の上に歌い方が重なってくる。洋楽のつもりで一弦琴で唄うと、お師匠さんに「歌ってはいけません」と言われてしまう。ではどうすればいいか。それを懇切丁寧に教えていただけるといいのだが、「真似ること」と言われたら、これは正論であるだけに逆らいようもなく、「はい」と引き下がってしまう。

ところが洋楽でも日本語の歌をどう歌えばいいのか、これが大きな問題のようである。

もう亡くなったが、音楽学者であった小泉文夫氏はこのようなことを言っておられる。
「私は何回か日本のオペラを見にいったことがありますが、そのほとんどは、もう絶望的な状態です。といいますのはだいたいベルカントの発声法(イタリアの歌唱法)で日本語の歌を歌うということ自体がたいへんむずかしいことなのです。日本語とベルカントの発声というのは合わないものだというその科学的認識をもっと肝に銘じて、声楽家あるいは作曲家は考えていかなくてはならないのに、いつまでたっても西洋のテクニックを土台として日本語の歌を歌おうとしています」(團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』講談社現代新書462から。以下の引用も同じ)

これは私のような素人にもよく分かる。ヴォイストレーニングでは確かに発声法は教わってきたが、それはイタリアのカンツォーネを歌うための訓練であったと私は理解している。日本語をどのように発声するかは残念ながら教わってこなかった。それもその筈、専門家のあいだでも日本の歌の声をどう作るかが大問題になっているのである。

なぜ大問題になるのか。

團伊玖磨氏はこういっている。
「声楽家の間にも、従来の西洋の発声に、口ではいわなくてもからだのなかで不満が起こっているのですよ。日本の歌曲を歌うのにベルカント唱法ではおかしい。そのおかしさが最近(本の出版は昭和51年)わかるようにはなってきたのですね。そこで日本の歌を歌う発声がなければならないことから、小泉さんに講演をお願いにもあがるわけでしょう。しかしその人たちの間違いは発声というものはたんなる技術だとかんがえていることです

話はよくわかるが、だんだんと難しくなる。たんなる技術でないとすれば、なにが問題になるのだろう。少し長いが團伊玖磨氏の引用が続く。

発声ということは自分の表現のために、おのずから始めからあるべきものであって、なにを歌いたいからこの発声にしましょうというのは順序が反対です。ところがベルカント唱法で歌ってみて変だから、じゃ、こういう発声にしようかというような、安易な技術と考える人がおおいのですよ、発声というものは、もっとその国の言葉、生活環境、風土、思想、あるいは民族の骨格、そういうあらゆることが加わってできてきたものなんですからね

嬉しいじゃないですか。私が直感的に感じたこと、すなわち上に述べた《一人の人間が歌を歌う以上、洋楽であれ邦楽(純正!)であれ、日本語であれば同じ発声になるのが一番自然》という考えが的はずれでないことを、ちゃんと裏付けてくださっているのである。

でも具体的にはどうすればいいのか、團伊玖磨氏はヒントを下さっている。
「隣の中国では現代の歌を歌うときにも西洋の発声はしないですよ。中国の発声をしている。フランスやドイツで勉強した人たちはたくさんいるにもかかわらず、フランス発声、ドイツ発声はしない。国境を越えたとたんに中国人にもどるのですね。そして中国の発声から客観的に西洋の発声を見ながら、新しい発声をつくろうとしている。そうしてできたものがまだ不完全なものであっても、そこに将来があるとぼくは思います」

では『日本の歌の声をどうつくるか』、ここでお二人は森進一と布施明を例に引く。

團「歌の世界の常識では、森進一という人の声は常識外のものでしょう。クラシックの発声から見たら、彼の声は八十五パーセント息が漏れている。(中略)
邦楽のなかには、西洋音楽からみたら奇怪ともいえる発声がありましょう。しかしそこに日本人が永年培ってきた声の美学が存在しているわけだから、そういったものと森進一の声とが続いているかもしれない(後略)」

小泉「森進一の歌い方は、義太夫とか新内のテクニックですね。それが開き直って出て来た(後略)」

お二人のウマが合うというのか、ノリノリになってくる。

小泉「藤山一郎さんや四家文子さんかが流行歌をうたっていたころは、上野の音楽学校(現在の東京芸術大学)で正統派の声楽を習った人が、非常に遠慮しながら、しかしいい声で歌う。それがあのころの大衆の憧れでもあったのですね。それが淡谷のり子、美空ひばりといった人たちが出てくるに及んで、だんだん大胆になり、大衆の趣味がおくめんもなくというか堂々と人前に姿を現すようになり、さらにそれが感動的なものに成長していったわけですね。なにに成長したかというと、それが新内や義太夫といった古いものであった。布施明の歌い方にもそういうものがあります」

團「森進一もそうですね。聞いてみると低く感じますが、ピアノのキーで探ってみると「襟裳岬」のいちばん高いところは加線一本のAフラットで、これは素人では出ません。でもあの人の新内風の発声は下の方に共鳴音が多くある関係で、低く聞こえるのです」

小泉「布施明の歌も聞いた感じでは普通の音域で歌っているように聞こえるけれども、実は高い音を出していて、真似て歌おうとしてもできませんね。しかしそれが浄瑠璃の太夫さんの歌うのを聞くのと同じ体験を与えてくれる。声のテクニックが、ふるわせかたからなにから、ほんとうに清元によく似ている。布施明はおそらく清元なんて勉強していないだろうし、彼の歌を作曲した人やレコードを売り出した人たちが清元のファンであるとはちょっと考えられない。ところが出て来たものは江戸時代あるいはそれ以前からの伝統につながっている」

まさに歌の『先祖返り』である。

昨日佐藤千夜子と歌っていて、私はお師匠さんと差し向かいで一弦琴のお稽古をつけて貰っているような錯覚をふと覚えた。というのも、佐藤千夜子の歌がお師匠さんの唄声に感じが凄く似ていたからである。

佐藤千夜子はそれこそ上野の音楽学校で音楽教育をちゃんと受けている。しかしその頃の付け焼き刃的な教育法では、彼女の身体に染みついていた邦楽感性を追っ払うには力不足であったのだろう。しかし、彼女の唱法に満たされないものがあったのも事実である。

これから私の進むべき道はどこにあるのか。森進一、布施明を乗り越えたらいいのである。洋楽であれ邦楽であれ、私が歌う以上は『それっぽく』を意識する必要はない。その流儀でいえば『私らしく』歌えることを目指せばいいのである。言うは易く行うは難し、だからこそ精進のしがいがあるというものだ。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ごもっともです (琴音)
2006-08-03 10:27:37
お久しぶりです。

ご高説、ごもっとも!

きっと、日本人らしく?歌うのがいいのでしょうね。

(一弦琴の場合も)

ある楽器店の一弦琴演奏のテープで、たしか

島田(寿子)さんの歌(だったと思いますが)を聞いたことがありますが

ごく普通の「地声」のように思いました。

それに味わいを感じるかどうかは、聞き手の好みしだい、ということでしょうか。
音声ブログをも (lazybones)
2006-08-04 13:14:59
ご意見を有難うございます。

歌うことは自分を表現することなんだろうと思います。

私は日頃その時の自分の気分にあった歌をつい口ずさんでいます。

別に作詞者、作曲家のことを思い浮かべて歌っているのではありません。

その意味では、歌っている曲は自分の心を表現する手段に過ぎないと云えそうです。

そして、自分の歌っている歌をもう一度聴いてみたい、と誰かが思ってくれたとしたらら、とても幸せなことです。そのためには心を込めて歌うことが大事だろうと思います。

一弦琴のお浚いの過程を自分でも振り返られるように、音声ブログに気ままに記録しています。お手透きの折に覗いていただき、思うままのご意見を寄せていただけると嬉しいです。

http://www.voiceblog.jp/lazybones9/