SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

原彬久『戦後史のなかの日本社会党――その理想主義とは何であったのか』(中公新書、2000年)

2009年08月06日 | 
こんにちは、Renです。
衆議院議員の総選挙が近づいてきて、与党の自民党と野党第一党の民主党のどちらが「勝利」するのかに注目が集まっているように思われますが、日本の戦後政治史において長らく野党第一党であったのは日本社会党でした。
しかるに、日本社会党はほんのわずかな例外を除いては政権を担うことがなかった。
これは民主党が今回の選挙で政権を担う可能性が現実味を帯びている(そのことについての賛否等の評価は今日はしません。)のとは大きく異なります。
それはいったいなぜなのか。また、民主党と日本社会党がどう違うから、このような違いが生じているのか。
そんなことを考えるヒントを得られないかと思い、原彬久『戦後史のなかの日本社会党――その理想主義とは何であったのか』(中公新書、2000年)を繙いてみました。



本書は日本敗戦直後に日本社会党が結党されるところから社会民主党に党名を変更するところまでのこの党の歩みを丁寧に叙述します。
その際に繰り返し登場するのは、社会党内部における路線対立や派閥抗争であり、また、変革のチャンスを自ら遠ざけてしまう頑迷なまでに自らの「理想」に拘泥し、あるいは安住する主観主義の姿です。
しかし、社会党は間違いなく「五十五年体制」の一方のアクターとして日米安保改定の時などには存在感がありました。
その存在をアメリカとの交渉において自民党が利用したこともあった(「国民世論が反米になっちゃいますよ~」みたいに)し、アメリカ側が強く意識して譲歩したこともあったみたいです。
そんな社会党を一方的に断罪することなく、また嘲笑もすることなく、著者は日本戦後政治史のなかに適切に位置づけようとします。
「あとがき」で著者がこう述べていることは、著者の姿勢を大変よく表していると言えるでしょう。

 「日本社会党とは何であったか」を問うことは、「戦後日本とは何であったか」を問いかけることでもある。なぜなら戦後政治の中軸は、敗戦から少なくとも90年代初頭の冷戦崩壊およびそれに続く55年体制終焉までの半世紀間、ほぼ一貫して保守政党ともども社会党がこれを担ってきたからである。日米安保体制、資本主義経済システム、そして欧米流民主主義に与する保守政党と、「親ソ」・「親中」に傾きマルクス・レーニン主義と共振しつつ国権型社会主義を目指す日本社会党との確執、相剋は、確かに戦後政治の一大特質を浮き彫りにしていったといえよう。(348頁)


社会党が結成されるときに軍部や右翼と密接な関わりがあった徳川義親を党首に擁立しようとしたことや、社会党が西欧の社民党とは異なり議会制民主主義を軽視し議会外の勢力に頼ろうとしたこと、資本主義体制を肯定した上で、それをよりよいものに改善していこうという西欧流の社民党に近い志向を持っていた江田三郎を中心とする「構造改革」の主張が、左派との権力闘争に破れることで挫折させられることによって社会民主主義への脱皮に失敗したこと、それから社会党内部の派閥抗争と絡まり合う形でソ連、中国、北朝鮮のそれぞれの対立・思惑に翻弄された対外関係が進んでいたことなど、大変興味深いことをたくさん学ぶことができましたが、それら以上に現在の政治を考える上で大きなヒントとなり得ることが著者の社会党への評価が垣間見える「終章 日本社会党の「理想主義」」に書かれていて、大変感銘を受けました。

 政治は、それが現実といかなる関係を取り結ぶかによって異なった内実をみせる。現実主義は、「現実」のなかに働く「権力」や「利益」をはじめとする諸要因を「あるがままの事実」として受容しようとする傾きをもつ。同時に現実主義は、しばしばこの「現実」の論理を梃子にして、ほかならぬこの「現実」を動かそうとする。しかし、現実主義が「現実」のなかに機能する諸要因を見失って、たとえば「最低限の道徳」をも拒んで、権力のための権力追求にうつつを抜かすとき、その現実主義は恐るべきシニシズム(急進右翼)へと堕落する。かつての日本軍部やドイツ・ナチス、ソ連のスターリン、そして今日のミロシェビッチ(新ユーゴスラビアの大統領。コソボ自治州アルバニア系住民に対する虐殺の首謀者)がそれである。現実主義はシニシズムと区別されなければならない。
 一方、理想主義は政治の「現実」を動かすメカニズムへの視線を失っていないという一点で現実主義と共通部分をもっている。しかし理想主義は、それが「現実」にある一定程度かかわっていながら、その「現実」に対峙する「理想」を掲げる点で現実主義と異なる。理想主義はみずからの「理想」に向けて「現実」を引き上げ革新する「人間の理性」を信ずる。しかしこの理想主義もまた、ひとたび「現実」を放棄してそこから遊離するとき、いわば観念の世界に迷い込む。「理想」が「現実」から切り離されてその「現実」と相互往来がなくなるとき、理想主義は“ドリーミズム”(夢想主義)とでもいうべき急進左翼に堕して行く。現実主義がシニシズム(急進右翼)と異なるように、理想主義もまた“ドリーミズム”(急進左翼)とは区別されなければならない。“ドリーミズム”はそれが「現実」を放棄していることからすれば、現実主義の極端な政治思考すなわちシニシズムと結びつく。急進右翼(極右)と急進左翼(極左)がときに共鳴し合うのはこのためである。(335-336頁)


この引用のすぐ後に著者は「優れた政治家は自身のなかに理想主義と現実主義を共存させている」(337頁)と述べます。
マックス・ウェーバーの「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」(『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、105頁))とともに、政治に携わる者が銘記すべき言葉なのではないかなと思います。
翻って有権者である僕たちは、そのような観点から政治家を選ばなければならないのだなと思います。

8月に入り、世間はますます選挙モードになってきました。
今回「政権交代」を掲げる民主党が、現実主義と理想主義のどちらもを抱いているかどうか、本当に政権を任せても大丈夫なのか。
「政権ではなく政策の選択だ」という自民党が、本当に僕たちの未來をよりよくする政策を実行してくれるのか。
はたまた、他の政党がもっといいアイディアを持っているのか。
まだ投票日まで時間があるので、じっくりしっかり慎重に見極めなければなりませんね。

なお、本書については、自民党について北岡伸一『自民党――政権党の38年』(中公文庫、2008年)および野中尚人『自民党政治の終わり』(ちくま新書、2008年)などで補っておくと理解はより深まるのではないかなと思います。
政権を長らく担っていた(る)自民党ではなく、あえて社会党に注目することで新しい切り口で戦後政治史にアプローチする、知的にわくわくするともに大変勉強になる本でした。
個人的には、上でちょこっとだけ示唆したつもりではありますが、小泉内閣のときによくいわれていた「構造改革」が、社会党の右派によって違う意味で使われていたことをいまさら知ったことが衝撃だったりしました。


(投稿者:Ren)