非武装のアフリカ系アメリカ人の殺害に対して全米各地に広がる抗議行動をテーマにした映画が上映されます。この映画はここ数年で全米で大きく報道された事件のうちの1つ、17歳のジョーダン・デイヴィスが殺害された事件を検証したものです。3 1/2 Minutes(『3分半』)と題されたこの映画は、10代の若者4人がガムとタバコを買うためにフロリダ州のガソリンスタンドに立ち寄った2012年11月23日に何が起こったかを伝えます。少年らは、駐車場で彼らの車の隣に車を止めた中年の白人男性、マイケル・ダンと言い争いになりました。ダンは、少年たちがかけていた音楽の音量を下げるよう要求しましたが、少年らが断ったため、怒りだしました。彼はダッシュボードから拳銃を取り出し、少年らが逃げ去る間も含め、彼らの車に向って10回発砲しました。銃声はダンが到着してから3分半後に鳴り響きました。銃弾の雨の中、ジョーダン・デイヴィスは死亡しました。発砲後、ダンはその場から逃走し、恋人とホテルへ行き、ピザを頼み、警察へは通報しませんでした。前年フロリダで非武装の10代の少年トレイボン・マーティンを殺害したジョージ・ジマーマンが無罪判決を勝ち取っていたため、デイヴィスの両親は、この殺人事件の公判を毎日傍聴しました。この2つの事件は、米国の問題のあるスタンド・ユア・グラウンド(正当防衛)法を浮き彫りにしています。
1890年12月28日、サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー他のスー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵隊が行った民族浄化。この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には議会勲章まで授与されている。しかし、インディアン側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争の象徴にもなっている。12月30日の朝、ブラックエルクたち保留地のスー族はウーンデッド・ニーに向かった。ホワイトクレイ・クリークのそばのキリスト教伝道所の近くですでにスー族同胞による戦闘は始まっており、両岸に待機したスー族は川沿いに下ってくる米兵を攻撃していた。伝道所の白人尼僧たちは、負傷したスー族の手当てをしてくれた。スー族の攻撃は米兵を圧倒し、これを全滅させる勢いだったが、このあと「黒いワシチュー(黒人兵)」の一団が加勢してきて、結局スー族は退却した。
この大量虐殺で、インディアン側の死者は300人近くに上り、豪雪の中、彼らの死体は雪の上に連なり、それは3日間、放置された。重傷を負った部族員女性は、治療のために「ゴースト・シャツ」を脱がせてよいかとの白人医師の問いにうなずき、「弾丸が通らないと言われていたのに。もうこんなものはいらない」と答えたとされる。インディアンの自由な世界が還って来るとされるゴースト・ダンスは、この大虐殺を機に、一挙に下火になっていった。兵士たちは、死んだインディアンたちから衣服や記念品を剥ぎ取った。「ゴースト・シャツ」を面白がって制服の下に着込む者もいた。
1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによって無造作にこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。
ウーンデッド・ニーの虐殺の慰霊碑
このビッグフット一行の死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は300人、またそれ以上の数を挙げる向きもある。どちらにしろ、白人側は殺したスー族を上記のようにぞんざいに扱って、その数を全く数えなかったし、未だにきちんとした検証も行われていない。
黒人も先住民狩りに参加していた
アフリカ系黒人に対してはアメリカでももちろん白人もすべて
先住民は白人の言うことを聞かなかったつまり奴隷にできなかった
そこで連れてこられたのが黒人ということだった
彼らは白人の言いなりになって働いた
先住民側から見れば土地を奪われ虐殺され 辺鄙なところに追いやられ居留地に閉じ込められる
国は存在するが
人種の違いも存在する
一目でわかる単純なものだ
アメリカの自由とは正義のためなら人殺しも合法
差別に抵抗するなら黒人も白人を殺すしかないだろう
どちらにしろ先住民狩りをしてきたアメリカに
原爆など落とすのもなんてことないことだったのだろう