最近、いろいろと考えさせられることが僕の周囲で起こっている。
大変ながらもこれも人生の勉強だなと感謝。
いろんな物事の本質を改めて見つめられる機会だから。
その中でも、最近感じていること。
それは、自分は「手放すこと」の準備はできていますか?ということ。
「持っていないから」の苦痛よりも、「持っているから」の苦痛の方が大きいと思う。
持たないものは失うこともないけど、持てば持つほど失うことを恐れるから。
そうなると、「獲得したもの」を失わないよう、常に不安感でいっぱいの人生となる。
それは「中毒」にも似ている。
たとえばここにタバコがあるとする。
タバコを吸わない人にとって、タバコはどうでもよいものだし、時に邪魔物でさえある。
一方でタバコを吸う人には、それが無いと禁断症状で苦しむ可能性がある。
ある意味、タバコがその人の人生の「支配者」になってしまっていると言える。
モノを持つこと自体が悪いのではない。
モノに執着すること、ひいてはモノに生活を左右されることが弊害を引き起こす。
モノは「使うもの」であって、「使われるもの」ではない。
僕たちが永久に持ち続けられるモノは何ひとつない。
人はいつか死を迎えるし、これは誰ひとり例外ない現実。
人生を全うするとき、今自分が手にしているものは何一つ持っていけない。
それを理解できず、モノへの執着を手放すことができないまま、苦しみながら旅立っていくか?
それを理解して、すべてを手放して、自由な身で旅立っていくか?
僕たちの毎日の生活は、この旅立ちの「瞬間」のためにあると言っても過言じゃないかもしれない。
それをよく意識しながら生きて行こう。
taddy
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>> kaorunさん
>執拗なまでにモノに執着してしまうひとは
>実はとても寂しいひとなのかもしれないって
>思います。
同感です。
モノや名誉や見栄やら以上にもっと本質的でもっと大切なものがあるのにって思います。
>本当にほしいのは愛なのに誤作動を起こして
>別のモノで満たされない心を埋めようとす
>る。
そうですね。これもよくあることのように思います。人間って愛情ほど必要なものはないと思いますね。だから、愛情を手に入れられなかったときは、逆の方向に暴走しはじめます。強欲に取り付かれて、ココロの空虚感をなんとか満たそうとします。
でも、愛情にとって代わるものはなにもないんですよね。愛情は愛情でのみしか満たされない。だから、それ以外のことで自分の空虚感を満たそうとしても、遅かれ早かれ自己破滅を起こしてしまいます。
死ぬときに持っていけるものは、愛だけということをココロに留めて、余計なものはいらないからなにが生きる本質なのかという部分にだけ目を注いで日々を頑張っていきたいですよね。
愛着を通り越して執拗なまでにモノに執着してしまうひとは 実はとても寂しいひとなのかもしれないって思います
誰かが言ってた 人間は『愛の電池』とも呼ぶべき存在だと
人は愛が足りなくなると まるで電池が切れたロボットみたいに動作も心もギクシャクしてしまう そして本当にほしいのは愛なのに誤作動を起こして別のモノで満たされない心を埋めようとする・・
なんて事をふと考えてしまいました
TADDYさんがおっしゃるように死ぬときに持っていけるものはモノではなくて思い出だけ・・
このことはいつも忘れずに生きてゆきたいですね
>> ラムさん
>執着してしまうと、それに依存してしまって、守る
>ことばかりに気をとられてしまう。自分の本質を見
>失ってしまいますよね。
全くその通りだと思います。
そう、執着は自分の本質を見ることから遠ざけてしまうんですよね。自分が分からなくなったら、相手のことも分からなくなって、守銭奴のように手にしたものが自分のすべてになってしまう。ちょうど映画「ロードオブザリング」のゴラムや指輪の幽鬼ナスグルなんかが指輪の魅力にとりつかれてしまって自分をなくしてしまった姿ですよね。(って見てない人には分からないけど(^_^;))
でも一つだけ永遠に続くものがあります。
それはラムさんが書いてくれてるように、愛。親子の愛、配偶者との愛、友人との愛。これは決して消えることはないと思います。僕たちが旅立つ時に持っていけるものはこの「愛」だけ。つまり、いいかえれば、いかにモノを所有したかじゃなく、いかにカネをもうけたかじゃなく、いかに偉くなったかじゃなく、いかに人を愛することができたかが、死の間際に問われるんだと思います。
>> 優くん
どうもコメントありがとう!
遊びに来てくれてうれしいですよ(^_^)
blogはそれぞれの人のそれぞれの味や色があるから、優くんのは優くんとしてのblogの独特のテーストがあるし、ほのぼのしてて大好きですよ。少年のようなココロをもったスキーヤーだなーっていつも思う。パオリくんの写真にも癒されてるし。ほんと仲良い兄弟って感じですよねー(^_^)
よく訪れてたオーストリアの空気が優くんのblogから伝わっきていつも懐かしい思いに浸れます。ケガなくスキー、がんばれますように!誕生日のお祝い、ありがとう!
>> マサコたん
開いた窓からぼんじゅーる。
僕は「執着」と「愛着心」は少し違うものかなって思ってます。「愛着心」は、その対象物を大切にしようというココロが働いてるから。もちろん、それがやがて執着へとかわっていくこともあるので、境目があいまいかもしれないけど。
だけど、モノを持ち続けること自体が問題なのではなくて、いつでも手放せるココロの準備が大切なのかなーと。なので、マサコたんが書いてくれてる「人生を全うしたと思えるときまで手元においておくという選択肢も許される」という点も僕もまったくその通りだって思います!
素敵な見方をシェアしてくれてアリガト!
>> ねーさん
そう。モノに限らず、形にならないもので持っているものも同じことだね。名誉やら社会的地位やら肩書きやら知識やらプライドやら。
ねーさんがいうように、こういうものに執着したり、こういうものに振りまわされるようになることも多々あると思う。
結局、何かへの執着が生み出すのは、果てしない孤独感と不安感なんだと思うね。これらを持っていることで自分は自由な人間になっていってるんだと勘違いしてるけど、実はその反対だってことに気付いてないか、気付いてても見てみぬふりしてるのが多くの人の現状だろうなと思うよ。
ねーさんもいつも心配してくれてありがとう!
その優しい心遣いに感謝。
手放す覚悟って諦める事ではなく、覚悟があるからこそ、今を大事にしよう、と思えるのですね。
昨日、親友が結婚を決めました。
とっても幸せそうだった。
物事に永遠は無いってわかっています。それでも尚、二人の愛が永遠であることを祈ります。
死んでしまった後も続く愛がある、と信じたい乙女チックな私なのでした。
しっかしtaddyさんのかかれていることはいつもすごいですね・・・。考えなくちゃいけない、当たり前のことを見てみない振りしてきたのが、ここでまた見つかる、というか・・・
ほんと自分のブログもちょっと考えなくちゃ、と思っちゃいますね。taddyさんの文章を読むと。。。トホホ
あ・・・めちゃくちゃ遅れましたが・・・お誕生日おめでとうございます!!今年も健康で、いい年になることを祈っております!! yu
本日のテーマ、今まさに考えあぐねていたことと重なる部分があって、自分の中で反芻してみました。
モノ、とは長年愛用してきたグランドピアノなんですが、もう音楽を専攻していないのだから手放してしまえば?という周囲の声と、自分野中にあるたとえようのない執着心・・といいますか愛着といいますか・・の間で板ばさみになり、今までどうにも決断ができずにいました。
しばらく考えて、次の文章を読み返した時。
>人生を全うするとき、今自分が手にしているものは何一つ持っていけない。
それならば、逆に、人生を全うしたと思えるときまで手元においておくという選択肢も許されるのではないかなと考えた次第です。
これが、執着心であることに変わりないと捉える人もいるかもしれないけど、自分が納得できる答えがあるならそれでいいかなと思ったり。笑
そんなわけで、今日の色あわせは、ちょっと好みです。長々とすみませんでした。
それではまた(´∀`)。
こういうものが壁になって見えなくなってるコトがあるね。いったい自分は何を守りたいんだろって恐ろしく孤独になる事もあるし。
kenさんも書いてはったけど、私も同じように感じたよ。
大丈夫ですか?無理のありませんように。