倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

最大の恩人を送る

2022-09-25 | 日記

さきの23日、私にとって最大の恩人ともいえる御仁(Mさん)の葬儀告別式が斉行され、悲しみを新たにすると共に 受け容れたくない現実でありながらも、心からの弔意を申し上げさせていただきました。

 

Mさんは 享年84才。図らずも 脳梗塞型の認知症に罹患し、1年余りに入院を経て まさにアッという間に逝(ゆ)かれてしまいました。

折しも社会はコロナ禍の只中にあり、入院されたMさんへの見舞いや面会は たとえ直近の親族であっても叶わず、入院後の面会は 僅か数回のリモート(Zoom)による画面越しの面会に止(とど)まり、まさに忸怩たる思いを重ねるところでありました。

ここ数ヶ月は 誤嚥性肺炎の恐れが強まったことから口径での食事が避けられ、点滴での栄養摂取でありましたが、やはりそれでは体力の低下は避けることができず 最終的に瞼(まぶた)を落とすこととなってしまいました。

 

Mさんと私は、まさに選挙を通じての〝戦友〟ともいえる間柄でした。

かつて執行された 市議選や県議選での地元候補への支援、さらには 地元出身で後に防衛大臣になられた北澤俊美参議院議員が挑んだ国政選挙への支援など、あらゆる選挙を通じて Mさんは、まさに東奔西走という言葉がぴったりくるほど活発に活動され 私はその背中を追いながら 共に走り続けてまいりました。

その経過の中で 今度は私が出馬する立場になると、Mさんは まさに親身になって支援の手を差し伸べてくださいました。

選挙前の活動はもとより 実際の選挙活動や当選後の後援会活動と、私の全ての活動の要(かなめ)となって奔走してくださいました。

とりわけ、私の支援者のみならず 地域の多くの方を誘っての旅行やカラオケ大会など、多くのイベントを企画され、参加された方々に楽しい思い出づくりの場を提供してくださいました。

 

そして…私が何よりMさんに感謝してもしきれないのが、私の再起へのご支援でありました。

去る4年前に 私が取り返しのつかない愚行により議員辞職した際には、周囲にさまざまな意見がある中にも関わらず 再起を促すお声がけを毎日 々 いただいたのです。

その 再起を促す「声」は、私自身に向けてのものだけではなく、私以外の方々に対しても発してくだったものでした。

その、Mさんのたゆまぬお声かけが やがて周囲をも動かすこととなり、こんな私でありましたが 徐々に再びの支援の輪が広がり、その結果 異例ともいえる再選を果たすことができたのでした。

その陰には 間違いなくMさんの「声」があり、それが無ければ 私は再選どころか再出馬もおぼつかないところでした。

私にとってMさんは、窮地から再起するキッカケをくださった 人生の最大の恩人であり、また 地域貢献かくあるべきを背中で教えてくれた恩師であり、また 私のことを親身に思ってくれた 第二の父親的存在でもあったのでした。

 

そんなMさんを失った喪失感は 海よりも深いものがあります。

しかし、これとて現実…決して望まずとも 受け容れて前を向いて歩いてゆかなければなりません。

今はただ ご生前のご薫陶に心から感謝し、そのご薫陶に報いることができるよう これからも努力精進を重ねてゆく決意を新たにいたすばかりであります。

 

以下、告別式で奉読させていただいた「弔辞」の全文であります。

 

 

                  弔 辞

 故 M様の葬儀告別式に際し、改めて故人を偲び 心からなる弔辞を奉読させていただきます。

 Mさん、あなたは生涯に亘り、家族に尽くし 地域に尽くし 他者に尽くし、社会に尽くしてこられました。

 その足跡の数々は枚挙に暇が無く、そんな欠かせぬ存在であったMさんを失った喪失感はあまりにも大きく、未だにその事実を受け入れ難いのが正直なところであります。

 コロナ禍のために入院中の見舞い・面会もままならないまま時間ばかりが経過し、皆が体調を心配する中に知らされたご訃報には、驚きと悲しみと共に、心に大きな穴が空いたような思いをさせられたものでした。

 しかしながら、今 ご遺影となって微笑むMさんの姿を前にし、これが現実なんだと心に言い聞かせつつ、感謝の思いを述べさせていただきます。 

 

 Mさんは、昭和13年 長野市川中島町北原に生を受け、爾来 地域に根ざし人生を歩んでこられました。

 学業の後 早々に社会人として働く中、当時からてきぱきと業務を行ない 周囲からの評価や人望も厚かったと聞き及んでいます。

 そんな社会人生活での最良の巡り合わせは 伴侶となるE子さんとの出会いであり、この出会いこそが Mさんの人生をより豊かにしてくれたのでした。

 後年のMさんは、妻E子さんの温かいご理解の下、述べたように地域や他者への貢献に徹せられ、多方面から感謝を寄せられる存在となりました。また 家庭においては二女に恵まれ、今ではひ孫を含む多くの温かな親族に恵まれるなど、まさに 妻E子さんと二人三脚で これまで豊かな人生を送ってこられたと拝察する次第です。

 

 Mさんを語るとき 政治との関わりは切っても切れないものであり、それは同時に Mさんの人生の大きな足跡の一つと言えると思います。

 歴代の市議選・県議選での陰に陽に亘る支援活動、さらに、後に防衛大臣になられた北澤俊美先生が参議院議員選挙に臨む際には 地元の支持者の取りまとめやポスター掲示などの多岐に亘る活動の要となり、昼夜を分かたず奔走されました。

 その献身的な活動ぶりにより 地域は盤石の基盤を固めることとなり、いわばMさんの不断の活動のお陰様をもって地域の政治が成り立っていたと言っても過言ではないと 今でも実感しております。

 

 かくいう私も、Mさんのご薫陶をいただいた者の一人であります。

 私が北澤俊美先生の秘書を務める中、当時の千野 昭市議の選挙事務所でMさんと出会いました。

 初めは何かとぶつかり合うこともありましたが やがて胸襟を開くうちに意気が統合し、その後 今度は私が出馬するようになった折には、本当に親身になって助けていただきました。

 私も紆余曲折を重ねる中、とりわけ 四年前に私が取り返しのつかない愚行により議員辞職した際には、周囲にさまざまな意見がある中にも関わらず 再起を促すお声がけを毎日 々 いただきました。

 その、Mさんのたゆまぬお声かけが やがて周囲をも動かすこととなり、その結果、異例ともいえる再選を果たすことができたところであります。

 その陰には Mさんの「声」があり、それが無ければ 私は再選どころか再出馬もおぼつかないところでありました。

 私にとってMさんは、窮地から再起するキッカケをくださった 人生の最大の恩人であり、また 地域貢献かくあるべきを背中で教えてくれた恩師であり、また 私のことを親身に思ってくれた 第二の父親的存在でもありました。

 

 今、こうして改めてMさんのご遺影に向き合うとき、実にさまざまな思い出が去来します。

 雨の中、一緒にずぶ濡れになりながら選挙ポスターを貼ってあるいたあの日、Mさんが中心となって企画していただいた旅行先での和気あいあいの楽しいひととき、やはりMさんが企画してくれたカラオケ大会で ちょっぴりはにかみながら演歌を歌う横顔、ご自宅の座椅子に座って政治談義をするときの真剣なまなざし、Mさんは何に対しても一途でまっしぐらでありました。

 

 そんな欠かせない存在であったMさんを失った今、私だけでなく地域全体が大きな喪失感に覆われています。

 しかしこの現実を、私たちは受け容れてゆかなければなりません。

 私たち残された者は、Mさんのご薫陶を胸に これからも一歩 々 歩んでまいります。

 ご生前のMさんのような気働きににはとても及ぶものではありませんが、私たちができる精一杯の努力を重ね、少しでもご薫陶に応えられるよう努めてまいりますので、これからも空の上から見守ってください。

 

 Mさんの人生でのご活躍に対し、言葉はとても尽くすことはできませんが この場をお借りして心からなる御礼と御霊の安らかなることを衷心よりご祈念いたし、弔辞とさせていただきます。

  Mさん、本当にありがとうございました。  合掌

 令和4年9月23日

                         長野市議会議員 倉 野 立 人

 

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