「自分が何を見ているか」の判断は、その判断に対する行為の影響を受ける
“本研究によって、見ているものが一体何なのかを判断するとき、私たちは視覚情報のみを利用しているわけでなく、判断の報告に至るまでの処理すべてを利用して行っていることが明らかになりました。 ”
実験では行為の影響を調べているが、結論としては判断の報告に至るまでの処理すべてを利用しているとのこと。
旅では苦労した分、見たものに対する感動が高まることは多い。
ツアーで運ばれ連れていかれて見たものと、自分でいろいろ工夫して行って見たものは、たとえ同じものでも感じ方は異なるだろうと思う。
(同一人物で同じ場所は調べようがないけれど)
そして行為(運動)だけでなく、死を強く意識している時も見ているものが一体何なのかの判断は変わる。
来年は見れないかも、明日は見れないかもと意識していたら、
見ているものが今ここでしか見れない、二度と見れないモノだと意識したら、
何気ない夕日でも神聖に映ることだろう。
逆に、自分が常に緊張していたら(不要な力を入れる癖があったなら)、世界もそのように反映されて判断されるだろう。
見られているもの(対象)と見ている人(自分)は、切り離して考えることはできない。
鍼を受けた後も、感じ方が普段と異なることがあるのは、緊張が解消されるからだと思う。
“私たちの日常行為は、些細な癖が存在するなど、必ずしも適応的ではありません。そのような非適応的な行為の負荷を増やすような環境をデザインすることで、ヒトの情報処理・行為の適応性を高めるような研究にも着手する予定です。”
とのことだが、あえて非適応的な行為の負荷を増やすような環境に入らなくても、緊張が解消されて識別力が高まり、意識できなかった癖を意識できるようになっていけば、ヒトの情報処理・行為の適応性は高まると思われる。