子を叱り米研いでいる夏のくらし
(「響焔」平成13年11月号)
夏の暑さを扇風機で凌いでいた昭和の頃は、どの家も窓を開け放していたので、室内での会話や生活音なども聞こえてきたものだ。母親の叱り声、子供の騒ぐ声、走り回る音。
この句を読むと、そういう夏の日を思い出す。どこにでもある庶民の夏の一コマ。多分夕方だろう。子を叱り米を研いでいる母親の汗まで見えるようだ。忙しく賑やかな日常。それは間違いなく人間の幸せな姿だ。
「夏のくらし」の「くらし」がとてもいい。六文字となっても「夏の夕」とか「夏休」などにせずに「くらし」だからこそこの句が心に響くものになった。作者の考える「夏のくらし」のひとつのイメージに共感する。
世界は未曽有のことを体験して、普通の暮らしがどれだけ有り難いものかを知った。この日常を取り戻せるだろうか。
(「響焔」平成13年11月号)
夏の暑さを扇風機で凌いでいた昭和の頃は、どの家も窓を開け放していたので、室内での会話や生活音なども聞こえてきたものだ。母親の叱り声、子供の騒ぐ声、走り回る音。
この句を読むと、そういう夏の日を思い出す。どこにでもある庶民の夏の一コマ。多分夕方だろう。子を叱り米を研いでいる母親の汗まで見えるようだ。忙しく賑やかな日常。それは間違いなく人間の幸せな姿だ。
「夏のくらし」の「くらし」がとてもいい。六文字となっても「夏の夕」とか「夏休」などにせずに「くらし」だからこそこの句が心に響くものになった。作者の考える「夏のくらし」のひとつのイメージに共感する。
世界は未曽有のことを体験して、普通の暮らしがどれだけ有り難いものかを知った。この日常を取り戻せるだろうか。
普通のことを少し見方を変えて詠う、そして詠み方に工夫する、と句会でよく言われました。掲句、まさにそれだなと思います。
「くらし」ひらがなというのもその工夫のひとつでしょう。
「子を叱り米研いでいる」のフレーズも、言えそうでなかなか出てこないのですね。
子を叱り米研いでいる夏のくらし
貴族の歌遊びを先人が庶民の言葉遊びに昇華させたのが俳句ですからこの剥き出しの生活実感はアリだと思います。
しかし、上五中七で十分「くらし」は見えていますから下五を字余りにしてまで「夏のくらし」と言わなければならない理由が見当たりませんでした。
自粛中、いかがお過ごしでしたか?
色々な見方があっていいと思います。
例えば深夜さんなら、下五はどうもっていきますか?
そうですね、自分も俳句に100%の正解はないと思っています。
その上で正直なところを申し上げると
子を叱り米研いでいる夏のくらし
「いる」も不要。弟子には『「春の家」「春のノート」みたいなフレーズは無意味に季語が動く、季語が窮屈になる』として諌めております。
ですから下五を変えてどうなるという事は私にはできません。
あえて句意を酌んで添削しろと仰るならば
米研いで子の宿題や夏の果て
添削というより改作です。私にはこれが精一杯です。
「いる」のあたりから句がゆっくりとしてきて「くらし」と敢えて六音でゆっくりと止める。
「子を叱り」で、例えば宿題などの様子もわかります。「宿題」をや切れで詠嘆するのは私は賛成できません。
や切れはかなり強い詠嘆ですから。
あとは詩情をどう感じるか、の個人の感性によって読後感が変わってきそうですね。