WESTERN WINDS 

我が家に生息する「いきものがたり」と自然観察、時々「釣り自慢」

我が家の20世紀アーカイブ No.14「吉田拓郎」

2010-03-31 | 20世紀アーカイブ



中学2年の頃、世の中は深夜放送ブームの
真っただ中だった。
ラジオを聞きながら勉強する「ながら族」という
言葉が流行していた時代だ。

自分もご多分にもれず深夜放送に夢中になっていた。
流行りの音楽はもちろん、リスナーからの
人生相談、ドクトルチエコの性教育コーナーなど
多感な中学生にとって深夜放送は刺激があり、
社会勉強にもなった。

そんな時、それからの自分に多大なる影響を
与える事になった曲に出会う。
よしだたくろうの「今日までそして明日から」
という曲だ。

それまでフォーククルセダースや岡林信康で
フォークソングと言われるものは聞いていたが
「今日まで~」は、メロディも歌詞も新鮮で
明らかにそれまでのフォークソングとは違った。
長髪でベルボトムのジーンズをはく自由奔放な
ちょいワル兄貴は本当にカッコ良く、
あこがれの存在になった。




1984年12月、札幌のススキノを妻と歩いていた時、
偶然に拓郎とすれ違った。コンサートを終え、スタッフと
打ち上げに向かうところだったのだろうか。
憧れの拓郎を目の当たりにして大興奮、その後、拓郎たちは
当時ススキノにあったペニーレーンというパブに入店、
自分たちも店に入り、妻に頼んでメモ帳にサインをしてもらった。
何となく照れ臭かったからだ。
今は直接もらっておけば良かったと後悔している。

この頃の拓郎は今と違って髪の毛もふさふさ、
原田真二に酷評されていたカーリーヘアの頃だ。
翌年、10年ぶりに「つま恋ライブ」を開催、
映画「幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬」にも
高杉晋作役で出演した。演技はどうだろう・・・
やはり歌ってた方が・・・
ちなみに坂本竜馬役は武田鉄也だった。





明日4月1日からさっぽろ東急百貨店9階催事場で
「吉田拓郎展 タクロニクル」が開催される。
デビューからの40年をイベントや秘蔵映像で綴る
拓郎ファンにはたまらない企画だ。

週末は行きますよ!!


吉田拓郎展は4月7日まで。


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少年なのに、50歳の誕生日?

2009-03-17 | 20世紀アーカイブ
 
本日発売になった記念切手シート「週刊少年漫画50周年1」
(週刊少年サンデー、週刊少年マガジン)
5月22日に第2弾が発行される。


今日3月17日、「週刊少年サンデー」(小学館)と
「週刊少年マガジン」の両誌が創刊50周年を迎えた。

先日の北海道新聞のコラムによると、当初、小学館の
サンデーの創刊は5月5日の「子供の日」を予定していた。
しかし、講談社も同様の雑誌発行を計画していることを知り、
創刊を急いだ。講談社も事情は同じでお互いの情報合戦の末
両誌とも3月17日に落ち着いたのだそうだ。

 

少年サンデーの「おそ松くん」で大笑いし、漫画家を夢見て
少年マガジンの「巨人の星」に感動し、中学の野球部に入部。
この二つの少年誌は自分に多大な影響を与えてくれた。



今、少子化に加え、ゲームやインターネットに押され、
漫画誌は苦戦しているという。
漫画にも文学作品に勝るとも劣らない名作が数多くある。
井上雄彦の「バガボンド」は原作の「宮本武蔵」を超えた
と言っても過言でないだろう。
子供たちに夢を勇気を希望を与える漫画がこれからも
生まれる事を願う。

 





1972年の少年キング。1963年にサンデー、マガジンに続いて
第3の週間少年誌として誕生した。この号には、ワイルド7、アパッチ
野球軍、月光仮面などが連載されている。読者の投稿コーナーがあり、
官製ハガキに墨汁とかぶらペンや、ファルコンペンでマンガを描き
せっせと投稿していた。入選すると少年キング特製の入賞楯がもらえた。
親友のK君とともに漫画に熱中していた時代だった。



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我が家の20世紀アーカイブ No.13「スーパージェッター」

2009-03-12 | 20世紀アーカイブ


30世紀からやって来たスーパージェッターが乗っている
ロボットカータイプのタイムマシン「流星号」
最高速度はマッハ15、電子頭脳を持ち、思考能力を
持っている夢のマシンだ。
このミニカーは8年前にパセオで買ったもの。

「流星号、応答せよ!流星号」

スーパージェッターは腕時計のアンテナを伸ばして
コールするのだが、この時計は30秒だけ時間を
止める事ができる。そして反重力ベルトで空に浮かぶことができ、
モダンなデザインの銃を持ち、ハンサムで、かおるさんという
カメラマンのガールフレンド?がいる。
スーパージェッターは当時の子供たちの夢をすべて持ち備えた
憧れのスーパーヒーローだった。
誰もがスーパージェッターになりたかったはずだ。
鉄人28号や鉄腕アトムと違って、生身の人間という設定に
親近感を持ったのかも知れない。



スーパージェッターは1965年にテレビ放映、
少年サンデーに連載された。




平成16年に発行された「科学技術とアニメ・ヒロインシリーズ第2集」
スーパージェッター3種と和時計、日本の最初期の量産型自動車「オートモ号」
完全電動の8輪駆動車「KAZ」、成層圏プラットホーム飛行船、7種類の
切手シート。







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我が家の20世紀アーカイブ No.12「ペプシ・ミリンダのラッキーキャップ」

2009-03-05 | 20世紀アーカイブ


昭和46年頃のペプシコーラ、ミリンダの王冠。
裏ぶたをめくるとキャッシュが当たる「ラッキーキャップ」
キャンペーンをやっていた。
ハズレの場合でも外国の国旗がプリントされていて
集める楽しみがあった。

ネットで調べてみると、キャッシュは10円から
1,000円まであり、ペプシもう一本というのも
あったようだ。



思い起こすと、子供の頃はアイスキャンディーの棒に
もう一本もらえる当たりの焼き印があったり、マルカワの
ガムにもクジが入っていた記憶がある。丸いガムが4個
入ってひと箱5円の時代だった。

おもちゃや、お菓子が当たるくじ引きもたくさんあり
10円玉を握りしめて近所の駄菓子屋さんに通った。
映画「ALWAYS」の世界そのものだ。

この映画の中で吉岡秀隆が演じる茶川がスカ(ハズレくじ)を
水増しする場面があったが、確かにくじが残り少ないのに
一等や二等の商品がいつまでも残っているのは怪しいだろうと
子どもながらに感じていた。

今の子ども達のようにテレビゲームやモノがたくさん
溢れている時代ではなかったが、ささやかな楽しみが
たくさんあった古きよき時代だった。


マルカワのフーセンガム復刻版

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我が家の20世紀アーカイブ No.11「狼少年ケンのキャラクターコップ」

2009-02-24 | 20世紀アーカイブ



東映映画初のTVアニメ「狼少年ケン」のカップ。
「狼少年ケン」は「鉄腕アトム]「鉄人28号」と同じ
昭和38年に放映された。
自分の記憶では、日曜朝9時に「鉄腕アトム」を見て、
11時に「狼少年ケン」を見ていたはず。当時数少ない
アニメ放送にあって同じ日曜の午前中は、この二つの
アニメが見れるゴールデンタイムだった。

「狼少年ケン」は狼に育てられた少年が双子の子狼、
チッチとポッポ、片目のジャックや長老のボスとともに
ジャングルを侵略しようとする悪者と闘い、平和を守り、
立派な狼として仲間に認められていくというストーリー。
単純な話であるが子供たちに向けて明快なメッセージが
込められている。



このカップは、番組のスポンサーだった森永乳業の
マンガココアのキャンペーンで当てたもの?で
メラミン樹脂でできたNoritake製。
アニメの放映期間から推測すると44~45年前の物だろう。
メラミン樹脂は耐熱性に優れているので、ココアカップ用なのかも
知れない。でも、取っ手が付いていないので多目的か・・・

自分が生まれて初めて飲んだココアは、きっとこのマンガココア
だったんだろう。ココアは幸せの味がするようで大好きだった。
今もココアを飲む度に狼少年ケンを思う。


数年前にTUTAYAで購入した「狼少年ケン」のVHSビデオ。
見たい方は無料で貸し出します。

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我が家の20世紀アーカイブ No.10「バービー人形」

2009-02-17 | 20世紀アーカイブ



アメリカの玩具メーカーマテル社「バービー人形」
これは妻が子供の頃に着せ替えをして遊んでいたもの。
おそらく1963年製と思われる。

2月4日、ドイツで開催された国際玩具見本市で
「バービー人形生誕50年」を祝うイベントが行われた。
当初の設定が17才のファッションモデルだったバービーも
いまや50歳、立派なおばさんだ。でも美しさは昔も今も
変わらない。




バービー人形は発売当初、アメリカに比べて人件費の安い日本で
製造していたとのこと。右側は日本人好みに作られたものだろうか・・
左のバービーは化粧バリバリの美空ひばりに似ているような・・





このバービー人形は頭部がもう一人(名前は不明)
服は当初、赤いワンピースを着ていたそうだが紛失、着せ替え用として
買ったゴールドのコートだけが残っている。靴とバッグもゴールドと
赤があったそうだがゴールドの靴は紛失。
ウイッグが3種類残っているが、幼い頃の妻がハサミでカットしてしまい
多少いびつに・・・

50年経っても未だに人気のバービー人形、現在まで
世界で10億体を販売したのだそうだ。

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我が家の20世紀アーカイブ No.9「QUEEN ロジャーのドラムスティック」

2009-02-08 | 20世紀アーカイブ


1976年3月22日、東京日本武道館で行われた
クィーンコンサートツアーでロジャー・テイラーが
使用したドラムスティック(イギリスPREMIER社製)

このコンサートを友人と見に行った妻がコンサート
終了後にステージの撤収作業をしていたスタッフに
強引?にもらったのだそうだ。観客が一人も居なくなって
からも物欲しげにステージ前にいる二人の女子高生の執念に
スタッフも観念したのだろう。スティックの表面は小さな
へこみや傷が多数ついており、ロジャーのドラムプレイの
シズルがたっぷり沁み込んでいる。

クィーンは1970年に結成。1974年にはアメリカ
ツアーを開始、あっという間に世界的なスーパーグループ
にのし上がった。1975年に初来日、10、20代の
ロックファンに圧倒的に支持のあったミュージックライフの
バックアップもあり、メンバー達が驚く程の大フィーバーに
なった。




実はどちらかというと高校の頃は日本のフォークを
聞くことが多かった自分が初めて行ったロックの
コンサートが1982年、札幌・道立共進会場(月寒
アルファコートドーム)で行ったクィーン・ジャパン
ツアーだった。はじめてのロックライブ、迫力の大音響、
光溢れるステージ演出、そしてフレディの美声と
ステージパフォーマンス…全てに圧倒された。

残念ながら、その9年後の1991年11月24日
フレディは帰らぬ人になってしまう。45歳という
若さだった。

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わが家の20世紀アーカイブ File8「アンクルトリスの楊枝立て」

2008-12-06 | 20世紀アーカイブ
 

サントリーキャラクター「アンクルトリス」の楊枝立て。
昭和40年頃のサントリーレッドのノベルティらしい。
妻の実家のサイドボードに飾られていたものだ。

サントリーの公式ホームページによると、アンクルトリスは
昭和33(1958年)寿屋(現:サントリー)宣伝部に
所属していたコピーライター開高健が「魂」を
イラストレーター柳原良平が「体」を、CMプランナー
酒井睦雄が「名前」を授けてくれた。と紹介されている。
渋い外見だが、キャラクター設定は、サラリーマンで
小心者、少しエッチで女好きだが正義感が強く愛妻家、
座右の銘は「普通」とある。一般の庶民、サラリーマン像を
意識していたのだろう。どこか哀愁があって憎めない
キャラクターである。

開高健と柳原良平の黄金コンビから生まれたTV-CMは
一世を風靡、当時の東京界隈はトリスバーが次々と
誕生したそうだ。



開高健は会社勤務をしながら芥川賞を受賞したが、
釣りに関する著作も多く、アメリカ大陸縦断の釣り記
「もっと遠く!もっと広く!」ブラジルの「オーパ」
が有名だ。今やフライ、ルアーフィッシングで
浸透している「キャッチ&リリース」は開高健が
広めたとされているようだ。
残念ながら病気で58歳という若さでこの世を
去ってしまったが、釣り、そして人生の師として
目標にして行きたい。

ただ、海釣りは「キャッチ&イート」で行かせください。

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わが家の20世紀アーカイブスFile -7「ブリキのおもちゃ」

2008-11-20 | 20世紀アーカイブ



小樽の駄菓子屋さんで懐かしいおもちゃを見つけた。
子供の頃、縁日の露店やおもちゃ屋さんで売っていた
ポンポン蒸気船だ。自分と同じ世代の男性は、一度は
遊んだ事があるはずだ。
このブリキの船には、ボイラーとボイラーから出ている
二本のパイプが付いており、ボイラーをロウソクの
炎で熱するとポンポンと音をたてながら進む。

科学雑誌「Newton」の解説によると、ボイラーの
水が加熱されて蒸気になると体積は約1,700倍に
膨張し、急激に体積が膨らんだ蒸気は、パイプの中の
水を勢いよく押し出し、これが船の推進力となるそうだ。
科学を応用したおもちゃと言えるが、これほどシンプル
な作りで船が動くとは、今さらながら驚きだ。
バラエティ番組に出ているサイエンスプロデューサーの
でんじろう先生が考えそうなおもちゃだ。



ゼンマイで動くサイドカー、25年前に買った復刻版。
ゼンマイ式で前輪に角度がついており、円を描いて走る。


40年ほど前のブリキの戦車


子供の頃、家の斜め向かいに、お菓子や日用品、
おもちゃ等を売っていた雑貨屋さんがあった。
その店の小さなショーウインドウには、ブリキの
ロボットや宇宙船、アメリカの車などが飾られていた。
中でも、リモコンで動くブリキの鉄腕アトムや
鉄人28号は垂涎のおもちゃだった。当時買えなかった
そのおもちゃ、今は数十万もの値が付いてやはり手の
届かない物になってしまった。でも、いつまでも憧れの
存在である方が夢があって幸せなのかも知れない。


ポンポン船、出航!


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わが家の20世紀アーカイブスFile -6「MAMIYA-6」

2008-11-17 | 20世紀アーカイブ

マミヤ6/1954(昭和29年)マミヤ光機社製


マミヤ6は、写真家で発明家だった間宮精一が考案した
カメラ。ふつうのカメラはレンズでピント調整をするが、
これはフバックフォーカシング方式というフィルム面で
行う画期的なカメラだったそうだ。

このカメラは、4年前に亡くなった妻の祖母がカメラの
好きだった妻の父に譲り渡したもの。祖母の歴史と
たくさんの思い出を切り取って来たカメラだ。

妻の記憶によると、幼い頃に祖母の家に遊びに行くと祖母は
いつもこのカメラで写真を撮ってくれたそうだ。
幼い妻が犬と戯れる作品を写真コンクールに出品して賞を
貰ったこともあるとか。とても大事に使っていたのだろう。
50年は使っていたはずだが、多少の錆はあるものの本体の
キズは少なくメンテナンスをすればまだまだ使えそうだ。

昔、自分の家にもマミヤ6と思われるカメラがあった。
写真館に勤めていた叔父さんが使っていた物だったはずだ。
スプリング式と言われる飛び出すレンズがびっくり箱のようで
楽しく、おもちゃのように遊んでいた。処分してしまったのか、
残念ながら、いつの間にか無くなってしまった。


マミヤ6のバックビュー。右上のダイアルが焦点調節ノブ。
ファインダーを覗きながら右手親指でピントを合わせ、
人差し指でシャッターをレリーズする。



1992年にマミヤ光機はオリンピック(オリンピック釣具)
と合併、マミヤ・オーピー株式会社となった。
釣具は2000年に撤退、2006年には、コンパクトデジタル
カメラや一眼レフデジタルカメラの台頭により中判カメラの
売り上げが激減、コスモ・デジタルイメージング株式会社に
営業譲渡、社名がマミヤ・デジタルイメージングになった。



オリンピック製のチヌ用小型リール。たまにワカサギ釣り用に
使っている。スプールの光沢が美しい。


今は、デジタルカメラ全盛の時代となり、写真は身近で、とても
便利なものになった。フィルムを入れなくても数百枚の写真が
撮れる。原像に出さなくても撮ったその場で確認ができるので
撮り直しが効く。プリントもプリンターで家庭で簡単にできてしまう。
専門の知識が無くても状況に応じて様々な演出ができる。
デジタルはすべて良いことばかりのようだが、アナログならではの
良さも確かにあった。カメラにフィルムを装填し、一枚一枚慎重に
構図を確かめ、被写体を見定めて手応えのあるシャッターを降ろす。
大事な記録や思い出を残す作業にふさわしい儀式がそこに存在して
いたように思う。そしてDPEからプリントが上がって来るまでの
期待感はデジタルカメラでは味わえないものだ。

何やらこのマミヤ6で写真を撮りたくなってきた。


わが家の20世紀アーカイブス File -5「少年少女冒険王」付録

2008-11-10 | 20世紀アーカイブ

福井英一「はんぺんくんのりだす」
昭和27年10月発行 少年少女冒険王付録


今から56年前の漫画雑誌の付録である。さすがに
自分が生まれる前に発行されたものだ。とある施設の
方から譲り受けた。
「少年少女冒険王」は1949~1983年にかけて
秋田書店が発行していた漫画雑誌で、「少年画報」
「少年」「少年クラブ」とともに子供向け漫画雑誌の
一時代を築いたとされている。

福井英一の作品は、リアルタイムで読んでいた訳では
ないが、柔道漫画「イガグリくん」、そして剣道漫画
「赤胴鈴之助」は大ヒットし、アニメや映画にもなった。
しかし、「赤胴鈴之助」の連載1回目で福井氏は33才
という若さで急逝、その後を竹内つなよしが引継ぎ、
大ヒットに育てたのだという。



この「はんぺんくんのりだす」は、正義感の強い
中学生のはんぺんくんが、仲間と協力をして悪者に
誘拐された友達を助けるという活劇ストーリーで、
思いのほか楽しめた。子供向けながら、絵も話も
とてもしっかりしてるのだ。
当時は手塚冶虫とライバル関係にあったというのも
頷ける。それにしても33歳というのはあまりにも
若すぎた。漫画家としてはこれからが絶頂期に入る
頃だったはず。
もっとたくさんの夢のあるスポーツ漫画を見たかった。

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わが家の20世紀アーカイブス File -4「任天堂ウルトラマシン」他

2008-10-15 | 20世紀アーカイブ


スーパーファミコン、DS、Wiiで子供から大人までを
虜にしている任天堂が1968(昭和43年)に発売した
家庭用バッティングマシーン「ウルトラマシン」の初代機である。
1,480円と当時としては高価なものだったが3年で
200万台も売れた大ヒット商品だ。

当時の小・中学生はほとんどが遊んだ経験があると思う。
ちょうど少年マガジンに連載していた人気漫画「巨人星」の
TVアニメが発売同年にスタートした影響も大きかったはずだ。
何といってもバッッティングマシンは重さ2g程の
ピンポン玉のようなプラスチックボールなので狭い家の中でも
安心して遊べる手軽さが受けた.(というか、風があると
球が風で飛ばされてしまう)

我が家でも息子と娘が小さい頃に良く遊び、親子2代で
楽しむことができた。ウルトラマシンのTV-CMは父と子供が
遊んでいて、打ったボールが台所で料理を作っているお母さんの
ところに飛び、卵と間違って割ろうとして、あらまあ、という
ほのぼのタッチのものだったが、昔、子供と遊んでいて
自分の打ったボールが偶然に再びボールガーターの所に戻り、
同じ球を打ったという漫画のような事があった(ホントです)



このマシーンの原理はいたって単純で、単一乾電池一本で
駆動するモーターを内臓しており、バネで支えているアームを
回転させボールガーターにセットされたボールを5~7m先まで
弾き飛ばす。付属のバットは伸縮式のプ-ラステック製で
コンパクトに箱に収まる。自動投球してくれるので友達、
兄弟がいなくても一人で遊ぶこともできる。
誰も数えた事はないと思うが、「乾電池一個で3,200球」
というキャッチフレーズが付いている。
このマシンで巨人の星を目指した少年がたくさんいたはずだ。


ガチャガチャでゲットした巨人の星のフィギア

「巨人の星」は1966年より少年マガジンに連載。
以来、同誌の発行部数はそれまでの3倍の120万部に急増、
テレビアニメも当初から平均26%の高視聴率だった。
笑い中心の漫画からスポーツを通じて主人公の情熱的な
生き方を描く「スポ根」漫画のさきがけとなったのが「
巨人の星」だった。以降、「あしたのジョー」
「柔道一直線」が相次いで登場、大ヒットとなる。




 

上の写真は野村トーイの「ビックボーリング」
1971(昭和46年)発売、価格は不明。
この年、プロボウラー中山律子、須田開代子、石井利枝の
「花のトリオ」が誕生。爆発的なブームとなった。
ボーリング場も急増、ボウリング人口は1000万を
超えたという。
このゲームは全長95cm、ピンセットの仕組みが
実に良く出来ており、程よく手がかかり家族全員が
楽しめるゲームだ。
本物のボーリングのようにスパットを狙いさえすれば
スコアもまとまりやすく、年齢に関係なく白熱した
ゲームが楽しめるのが特徴だ。残っているスコアシートを
見ると子供たちもずいぶんと高いスコアを出していた
(というか、負けていただろ!)
1971年は、日清食品からカップヌードルが発売され、
世界の食生活に革命が起きた。
また、non-noがこの年創刊、高野悦子の
「二十歳の原点」がベストセラーになった。

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わが家の20世紀アーカイブス File -3「図解怪獣図鑑」

2008-10-09 | 20世紀アーカイブ


1967(昭和42年)発行、「図解怪獣図鑑」
秋田書店刊 大伴昌司著 350円
1966年に円谷プロ、円谷英二が初めて手がけた
特撮TV「ウルトラQ」、その後に続いた
「ウルトラマン」に登場した怪獣を中心に東映、
松竹、大映、日活、そして海外の怪獣映画の
怪獣を紹介している。
一見細かく解説しているようだが、今見ると、
何とも大雑把でいかにも子供だましなのだ。
でも、そこがまた楽しい。
この本は浩宮様(現在の皇太子殿下)が自分の
おこづかいで書店で最初に買われた本として
有名なのだそうだ。

「大伴昌司の世界」公式サイトによると
著者の大伴昌司は、昭和の高度成長期に
少年誌の巻頭グラビアの企画構成や怪獣図鑑、
放送脚本など、ポップカルチャーの分野において
先駆的な仕事をした天才プランナーだった
という事だ。分かりやすくいうと元祖オタクだ。
インターネットの普及や、オタクのメジャー化
などで2005年頃から大伴昌司を再評価する
動きが出て来たという。


 
大魔神の解説では、歩くときは100キロ以上の
スピード、歩く振動は松代地震の10倍、頭は
電子頭脳の10倍も利口、耳は地獄耳、とある。


「ウルトラQ」はその後のウルトラマンシリーズの
原点になった不滅のSFドラマだ。毎回、番組の初めと
終わりに石坂浩二のナレーションが不気味な映像と
共に入るのだが、これが恐ろしくて、家の奥にあった
暗いトイレに行けなかった。

シリーズの中で一番好きだった怪獣はコイン怪獣
カネゴン。金の亡者の小学生がコインを食べないと
生きて行けない怪獣になってしまう。何とも
ユニークで可愛らしい怪獣だ。

「ウルトラQ」は毎週日曜の7時からの30分番組で、
裏番組は手塚治虫のアニメ「W3ワンダースリー」
だったが、視聴率は「ウルトラQ」が30パーセントと
圧倒していたそうだ。
手塚治虫の息子の手塚眞が当時、夕食の席で
「W3」ではなく、「ウルトラQ」を見ようとして
母親の手塚夫人に「お父さんの漫画を見なさい」と
叱られたが、手塚が『子供の見たいものを見せて
上げなさい」と言ったエピソードがある。
自分の家も「ウルトラQ」ばかりで「W3」は
ほとんど見る事がなかった。
この番組を機に日本は怪獣ブームが始まった。


コイン怪獣「カネゴン」
新タイムスリップグリコ

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わが家の20世紀アーカイブスFile -2「クーガNo.7」他

2008-10-08 | 20世紀アーカイブ


写真は松下電器のヒット商品、クーガNo.7(RF-877)、
MW、FM、SWマルチバンドのBCLラジオだ。
クーガーシリーズは1973年に発売された。
第一号機のクーガ(RF-888)は音を徹底追及し、
16センチのダブルレンジスピーカーを採用している。
キャッチコピーの「吠えろクーガ」は
非常にインパクトがあった。

クーガNo.7はポップアップシステムの360度対応
ジャイロアンテナを採用、「狙えクーガ」という
キャッチコピーがついていた。
飛行機のコクピットを思わせるミリタリーな
デザインに惹かれ、妻が中学の頃、親父さんに
買ってもらったものだ。

同じ頃、自分は手のひらにすっぽりと収まる程の
トランジスタラジオで深夜放送に夢中になっていた。
クーガは垂涎モノだったが18,500円は
高嶺の花だった。当時、新聞配達をしていた
自分のアルバイト料は一ヶ月2,700円の
時代だった。

深夜放送は1970年ごろから1975年までが
最盛期だった。中でもオールナイトニッポン
(ニッポン放送)セイヤング(文化放送)
パック・イン・ミュージック(TBSラジオ)が
人気だった。セイヤングはみのもんた、落合恵子、
谷村新二が人気だったと記憶している。

北海道ローカルでもHBCラジオが「オールナイト
北海道ヤング26時」STVラジオが「アタックヤング」
という番組をやっていた。自分は「ヤング26時」の
バード山本のファンで、「○○中のバードハンター」
というラジオネームでイラスト入りのリクエスト
ハガキをせっせと送っていた。

ある時、近所の年上の兄ちゃんが、平凡パンチに
お前の名前が載ってるぞと教えてくれた。
何で中学生の自分の名前が平凡パンチに!と焦った。
その週刊誌はヌードがたくさんある大人の本だった
からだ。慌ててその本を見せてもらうと、深夜放送の
特集が組まれており、その中に企画であった
「全国深夜放送ミニコミ誌ベスト30」の中に
自分が番組に送ったものがあったのだ。
パーソナリティが出版社に送っておいたのだろう。
何とも嬉しいやら、恥ずかしいやら複雑な思いだった。

現在のように携帯やインターネット、TVゲームが
ない時代、深夜放送は、音楽を中心に、性教育、
恋愛・人生相談、受験生の悩みなど、当時の若者の
心をつかむコンテンツが満載で電波を通じた
若者の広場だった。インタラクティブ性は低いが
ラジオは今のMixiのような役割を果たしていた
とも言える。


360度フルカバーのジャイロアンテナ。各国の電波を
これでキャッチする。

 
グリコの「新タイムスリップグリコ」シリーズのクーガNo.7
天地35�程だが細かなところまで見事に再現されている。





こちらも松下電器のファッションラジオ
「パナペット」。
大阪万博で賑わっていた1970年に発売されたが、
写真のパナペットは1972年の冬季札幌オリンピック
記念モデル。
ダイアルのプレートに北海道の地図がデザインされ、
本体の真ん中の溝にはアルファベットで競技種目が
記載されている。チェーンにはオリンピックの
記念メダルも付いており、プレミアム感たっぷりだ。

この年は、オリンピックの他にも歴史的な事が
たくさんあった。
赤軍の浅間山荘事件、同じく赤軍のテルアビブ空港
乱射事件、沖縄の施政権返還、田中角栄の首相就任、
そして、50年ぶりの日中国交回復・・翌1973年、
第一次石油危機が勃発、高度成長時代が終焉、
「省エネ」時代を迎える事になる。

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わが家の20世紀アーカイブスFile -1 「コーワのケロちゃん」他

2008-10-06 | 20世紀アーカイブ


小さい頃、お使いで薬局に行く楽しみがあった。
子供が買い物に行くと必ずオマケが貰えたからだ。
当時のオマケは、ゴム風船や紙風船、吹き戻しや
プラスチックのコマなどで、中でも子供たちに
人気があったのは製薬会社のキャラクター人形だ。

写真はコーワのマスコット、ケロちゃんと
コロちゃんの人形と指人形。興和のホームページに
よると、ケロちゃんは1949(昭和24年)に
コーワの新聞広告に初登場、1958(昭和33年)に
指人形としてノベルティに使われるようになったようだ。
現在の物は1978(昭和53年)にモデルチェンジした。
コーワの薬で病気がケロりと良くなるという意味で
カエルがキャラクターになったという説がある。


現在のケロちゃんとコロちゃん



上の3体も製薬会社のマスコット。
左は日本レダリーのマスコット「レダリー坊や」
詳しいことは不明だが、背中にサンプル在中と
書いているので中に薬の試供品が入っていたようだ。
ネット販売で10,500円の値が付いていた。
真ん中はフジサワ薬品のマスコット。
これは妻の実家の庭から出土?したらしい。
フジサワ薬品は白戸三平のアニメ
「少年忍者 風のフジ丸」のスポンサーだった。
右はエスエス製薬の「ピョンちゃん」
昔は薬局の店頭にピョンちゃんや
サトちゃんの電動遊具を置いてあった。

当時の子供たちにとって薬局はオマケが貰えたり、
遊べる魅力的な場所だった。
今、薬局はドラッグストアという業態に侵食され、
さらに来春の改正薬事法では、登録販売者の
ライセンスを取得すると薬剤師がいなくても
風邪薬、胃腸薬などの大衆薬を販売できる
ようになり、コンビニやホームセンターでも
薬を扱うようになる。近所に必ずあった
品が良くて優しい白衣を着たおばさんのいる
薬局がまた少なくなってしまいそうだ。

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