慶応元年二月二十二日、近藤勇とは試衛館以来の同心で有り、副長の土方歳三と並んで隊内ナンバー2でも有った総長山南敬助が、「もはや新選組にとどまる気持ちはなくなった。脱退する。皆の好意には感謝している」と認めた書面を残し、壬生の屯所から姿を消した。山南は元々尊皇攘夷思想の持ち主で有ったが、初期の新選組も尊皇攘夷を否定せず、ただ近藤、土方らは「佐幕勤皇」で、山南は「排幕勤皇」、この違いだったと言われています。
しかし、「池田屋事件」、「蛤御門の変」以降の新選組は「会津藩お預かり」の立場上、尊攘主義を捨て、単なる佐幕集団に成ってしまうのでは無いかと失望した山南が、隊を脱退する決意を固めたのも無理からぬ事。その陰には、屯所の西本願寺への移転をはじめ、一連の土方歳三との確執が有ったとも言われています。
「局を脱することを許さず」と局中法度と有るにも関わらず、姿を消した山南。土方が沖田を呼んで、
「総司、山南が脱走した。追え。まだ遠くには行くまい。東海道であろう。」
命を受けた沖田が、大津の宿で追い付いた。翌日、沖田に連れられて屯所に戻った山南は、前川屋敷の一室で、作法通りの見事な切腹を遂げた。介錯は山南の願いで沖田総司が勤め、三十三歳を一期にこの世を去ったのです。その脱走は、今もって謎に包まれています。
しかし、「池田屋事件」、「蛤御門の変」以降の新選組は「会津藩お預かり」の立場上、尊攘主義を捨て、単なる佐幕集団に成ってしまうのでは無いかと失望した山南が、隊を脱退する決意を固めたのも無理からぬ事。その陰には、屯所の西本願寺への移転をはじめ、一連の土方歳三との確執が有ったとも言われています。
「局を脱することを許さず」と局中法度と有るにも関わらず、姿を消した山南。土方が沖田を呼んで、
「総司、山南が脱走した。追え。まだ遠くには行くまい。東海道であろう。」
命を受けた沖田が、大津の宿で追い付いた。翌日、沖田に連れられて屯所に戻った山南は、前川屋敷の一室で、作法通りの見事な切腹を遂げた。介錯は山南の願いで沖田総司が勤め、三十三歳を一期にこの世を去ったのです。その脱走は、今もって謎に包まれています。