旭堂南鱗の『新選組の旗は行く』

幼少の頃から大の新選組ファンの南鱗の、浅葱色に掛ける情熱をご堪能ください。

第27回総長山南敬助の脱走

2006-06-01 21:22:17 | 新選組の旗は行く
 慶応元年二月二十二日、近藤勇とは試衛館以来の同心で有り、副長の土方歳三と並んで隊内ナンバー2でも有った総長山南敬助が、「もはや新選組にとどまる気持ちはなくなった。脱退する。皆の好意には感謝している」と認めた書面を残し、壬生の屯所から姿を消した。山南は元々尊皇攘夷思想の持ち主で有ったが、初期の新選組も尊皇攘夷を否定せず、ただ近藤、土方らは「佐幕勤皇」で、山南は「排幕勤皇」、この違いだったと言われています。


 しかし、「池田屋事件」、「蛤御門の変」以降の新選組は「会津藩お預かり」の立場上、尊攘主義を捨て、単なる佐幕集団に成ってしまうのでは無いかと失望した山南が、隊を脱退する決意を固めたのも無理からぬ事。その陰には、屯所の西本願寺への移転をはじめ、一連の土方歳三との確執が有ったとも言われています。


 「局を脱することを許さず」と局中法度と有るにも関わらず、姿を消した山南。土方が沖田を呼んで、

「総司、山南が脱走した。追え。まだ遠くには行くまい。東海道であろう。」

命を受けた沖田が、大津の宿で追い付いた。翌日、沖田に連れられて屯所に戻った山南は、前川屋敷の一室で、作法通りの見事な切腹を遂げた。介錯は山南の願いで沖田総司が勤め、三十三歳を一期にこの世を去ったのです。その脱走は、今もって謎に包まれています。

第26回伊東甲子太郎の入隊

2005-11-27 21:19:45 | 新選組の旗は行く
 池田屋事件で新選組の名は、一躍有名に成り、尊皇攘夷派から恐れられるようになりました。元治元年九月、近藤勇は永倉新八、武田観柳斎らを従えて、長州征伐の為に将軍家茂の上洛要請と新入隊士募集の為、江戸へと向った。その中には、試衛館以来の同志・藤堂平助と同門で、深川佐賀町で北辰一刀流の道場を開いている伊東大蔵に、入隊を勧める目的も有ったのです。


 この伊東は、常陸志筑藩士鈴本専右衛門忠明の長男として生まれ、剣術ばかりではなく、水戸学に通じた、文武両道の達人でもありました。伊東は反幕府的な水戸藩の尊皇攘夷論者、近藤も幕府の為に働いてはいるが、元来は尊攘論者で、攘夷の点で共鳴し、同盟を誓ったのです。


 藤堂平助の縁で、新選組への加盟を決めた伊東大蔵は上洛に際し、名をその年の干支にちなんで、「甲子太郎」と改名。そして、実弟の三木三郎(鈴木三樹三郎)、伊東道場の師範代・内海二郎、中西登、同志の篠原泰之進、加納道之助、佐野七五三之助、服部武雄の計八名が東海道を下り京へ到着後、正式に新選組に入隊。剣一筋で、荒っぽい隊士の多い新選組には貴重な存在で、参謀と文学師範を勤める事に成りました。

第25回池田屋での大手柄

2005-09-12 09:35:08 | 新選組の旗は行く
 池田屋へ斬り込み、奮戦をつづけていた近藤隊は、沖田総司が喀血して倒れ、藤堂平助も額から出血が激しく戦線を離脱。これで残ったのは、近藤勇と永倉新八の二人と成った。しかし、永倉は左手に傷を負い、近藤は愛刀虎徹の刃がボロボロに欠けてしまったのです。


 近藤隊が苦しい戦いを続けていたその時、ようやく鴨川の東側縄手通を探索していた、土方隊二十四名が池田屋へと掛け付けて来た。その他、会津、桑名の藩兵三千もやって来て、池田屋の廻りを取り囲み、蟻一匹逃さぬ警備を固める。土方隊の斉藤一、井上源三郎、島田魁ら十一名が屋内へ突入する。近藤は、それまで「斬れ、斬れ」と言っていた掛け声を止め、「生け捕りにせよ」と叫ぶ。一刻に及ぶ戦いの末、新選組は討ち取り七人、手傷四人、召し取り二十三人と、不逞浪士を市中から一層する大手柄を立てたのです。


 又この夜、事件とは直接無関係で有った長州藩の吉岡庄助、土佐藩の野老山五吉郎と藤崎八郎が巻き添えで生命を落としています。


 大勝利を収めた新選組は、六月六日正午過ぎ隊列を整え、誠の旗を先頭に三条小橋池田屋から、壬生村の屯所への引き上げは、赤穂浪士の吉良邸引き上げも確やと思われる程で有ったと申します。この池田屋の斬り込みで明治維新が、一年遅れたとも言われています。

第24回池田屋で散った侍たち

2005-07-12 09:20:03 | 新選組の旗は行く
 池田屋での乱闘の最中、沖田総司が労咳の発作で倒れ、藤堂平助も敵の一撃を受け昏倒し、戦闘不能と成ってしまった。一方浪士側も、尊攘派の大物・宮部鼎蔵(熊本藩)、赤穂四十七士の一人、大高源五の子孫・大高又次郎(播州林田藩)、石川潤次郎、北添佶麿(土佐藩)、広岡浪秀(長州藩)、福岡裕次郎(伊予松山藩)らが乱闘の中討ち死。裏口から脱出しようとした浪士達と、裏口を固めていた隊士が斬り合いと成り、新選組は奥沢栄助が即死、安藤早太郎、新田革左衛門が深手を負ったのち死亡しています。


 そんな中、池田屋から脱出した吉田稔麿は、援軍を頼む為、長州藩邸に辿り着いた。

「吉田稔麿でござる。ここをお開け願いたい、同士の者が池田屋で新選組に…。」

いくら呼んでも、門は閉められたまま、開く気配もない。吉田松陰門下で高杉晋作、久坂玄端と並び、松下村塾の三羽烏とうたわれた俊才・吉田稔麿は援軍を頼めないと知り、最早これまで、長州藩邸前で切腹して果てました。


 又、土佐の望月亀弥太も現場から脱出に成功し、長州藩邸に向ったが、門が閉じられていた為、河原町通りを北へ、二条の角倉屋敷まで逃げ延びた所で力尽き、門前で自刃しています。

第23回池田屋内での乱闘

2005-06-09 08:56:23 | 新選組の旗は行く
 池田屋の主人惣兵衛を殴り倒し、愛刀虎徹を引き抜き、沖田を連れて、一気に階段を駆け上がった近藤勇。するとこの時、同志が来たものと思った土佐の北添佶麿は、

「何だ、何だ。」

と階段の降り口からヒョイと顔を出した。上がってきた近藤と目が合ったから堪らない、出会い頭に近藤は、頭から肩にかけ真一文字に斬りおろしたから、可哀想に北添は階段下へころげ落ちた。


近藤は見向きもしないで二階座敷に飛び込むと、丁度会談が終り、車座に成って酒を飲んでいた浪士たちを、抜刀したままにらみつけた。

「何奴だ。」

「新選組局長、近藤勇である。神妙に致せ。」

「何、新選組か。」

ところが浪士たちも、切り込んできたのが、わずか四人とは流石に思わない。あわてて階段を駆け下りる者、屋根伝いに中庭へ飛び降りる者と、皆が必死に脱出をはかろうとする。階下では永倉新八、藤堂平助が、中庭に飛び降りた浪士を相手に、火の出る様な戦いを繰り広げている。


 この戦闘の最中に、沖田総司が労咳の発作を起こし、喀血して倒れ、そのまま池田屋の二階で気を失い、戦線を離脱してしまい、階下の縁側で戦っていた藤堂も敵の一撃で眉間を割られ、血まみれに成って昏倒するなど、池田屋は大乱闘の場と成ってしまった。

第22回池田屋斬り込み

2005-05-02 08:52:13 | 新選組の旗は行く
 不逞浪士探索の為、隊士を二手に分けた新選組。鴨川の西側、木屋町通りを近藤隊が、東側、縄手通りを土方隊が丹念に調べていきました。


 近藤隊が、三条小橋西入ル池田屋惣兵衛という宿屋へ到着したのは、捜査を始めて3時間後の6月5日午後10時頃です。この池田屋は長州藩の定宿であり、新選組も以前から目をつけていた要注意地点の一つだったところです。


 近藤は谷万太郎、浅野薫、武田観柳斎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の6人で表裏の出口を固めさせておいて、自分は沖田総司、永倉新八、藤堂平助を連れ、わずか4人で斬り込むことにしました。玄関に立った近藤が、主人の池田屋惣兵衛に

「会津中将様お預かり新選組である。御用のすじがあって改める」

これを聞いて驚いた惣兵衛が階段下まで走り寄って、

「お二階の皆様、旅客調べでございます」

と大声で叫んだ。丁度この時池田屋の二階には、古高が捕えられた事を知った肥後の宮部鼎蔵、松田重助、長州の吉田稔麿、杉山松助、播州の大高又次郎、土佐の望月亀弥太、北添佶麿ら尊攘派の志士30数名が、その善後策を協議する為、集っていました。近藤は藤堂と永倉に階下をまかせ、沖田一人を従えて、階段を駆け上がっていったのです。

第21回新選組市中探索

2005-04-05 08:36:54 | 新選組の旗は行く
 過激浪士たち捕縛の為、出動を決めた新選組。しかし、この時出動可能な隊士はわずか34名しかおらず、近藤は会津藩の応援を要請、戌の刻(午後8時)を期して祗園会所で会津藩を始め、桑名、彦根ら各藩兵と合流する手筈が整いました。


 6月5日は祇園祭の宵々山、あらかじめ隊服の羽織、防具、武器などを祗園会所に運び込んでおいて、隊士たちは夕刻、市中巡察をよそおって出る者、仲間と連れ立って祭りを見物に行く風の者と、それぞれ数人ずつ壬生の屯所を出ていったのです。


 祗園石段下の会所に着いた隊士たちは、鎖帷子、竹胴、小具足などに身をかため、これから始まる新選組始まって以来の大捕り物に、気合充分で身構えていました。


 所が戌の刻を過ぎ、亥の刻(午後10時)に成っても、会津も桑名も姿を現しません。このままでは、浪士たちを捕らえる絶好の機会をみすみす逃してしまう。痺れを切らした近藤、土方は新選組だけで出動する事に決定。ここで隊士を二手に分け、近藤隊は沖田総司、永倉新八、藤堂平助、ら10名、土方隊は井上源三郎、原田左之助、斉藤一ら24名、鴨川を境にし、西側を近藤隊が受け持ち、東側は土方隊が探る事に成りました。


 近藤隊は木屋町通りを、土方隊は縄手通りを南から北へ、宿屋、料亭、お茶屋をしらみつぶしに調べていったのです。

第20回尊攘派の計画露見

2005-03-05 08:14:44 | 新選組の旗は行く
 新選組に捕縛され、壬生の屯所に連行された枡屋喜右衛門こと古高俊太郎。いくら責められても、何一つ自白しない古高に対し、業を煮やした土方の拷問は凄まじく、いかな古高もこれには耐え切れず、一時間ばかり苦しんだあげく、すべてを自白したのです。


 それによると、来る六月二十日前後、烈風の日を選び、御所の風上に火を放つ。その混乱に乗じて参内する中川宮朝彦親王を幽閉し、京都守護職松平容保を殺害したうえ、孝明天皇を奪い、長州へ連れ去ると言う乱暴な計画です。


 さすがの近藤も土方も、これには驚いた。京都の市内全体焼き払うことは、治安を守る新選組としては何としても阻止しなければならない。ただちに京都守護職、京都所司代、京都町奉行所へ通報。近藤は隊士全員を集め、出動準備を命じた。


所がこの時、隊士の総員は四十名しかいず、しかも山南敬助ら六名が夏風邪や下痢の為に動けない。出動可能な隊士は、わずか三十四名だったのです。


 いくら何でもこの人数では、過激浪士たちを一網打尽にすることは難しい。そこで近藤は、会津藩本陣へ隊士を走らせ応援を依頼。会津からの連絡で、桑名・彦根・備中松山の諸藩、一橋家、京都町奉行所などの援兵が派遣されることに成りました。

第19回枡屋襲撃

2005-02-05 08:11:42 | 新選組の旗は行く
 元治元年四月二十三日、松原通り木屋町で火事が起こり、その現場に出動した新選組は不審な二人組を捕らえ、屯所へ連行しました。そして二人を痛めつけると、八・一八の政変で京都を追われた過激派浪士数十人が、町人に変装するなどして、密かに京都に潜伏し、挙兵の機会を伺っている事を自供したのです。


 そこで新選組は山崎烝、島田魁、川島勝司、浅野薫ら探索方を動員し、浪士達の動きを徹底的に調べ始めた。その結果、西木屋町四条上ル真町の薪炭商・枡屋喜右衛門が怪しいとなり、六月五日早朝、武田観柳斎が七名の隊士を率いて、枡屋に踏み込みました。すると、枡屋の邸内から、大量の鉄砲、具足、火薬、そして長州、土佐など諸藩の志士からの手紙も見つかった。


 壬生の屯所に引っ立てられた枡屋喜右衛門に対し、これから情け容赦の無い拷問が始まります。所が枡屋は、近江出身の志士で山科毘沙門堂門跡の家臣・古高俊太郎であると、その正体を明かしただけで、後は何一つ白状しなかったのです。


 堪りかねた土方歳三が古高を後手に縛り上げ、足首に縄をつけて逆さにつるし上げた。その上、足の裏に五寸釘を突き刺し、それに百目蝋燭を立てて火をつけた。みるみる内に蝋が溶け傷口に流れ込んだ。


 サァ、古高の運命や如何に、それは次回で。

第18回京都見廻組

2005-01-16 08:08:53 | 新選組の旗は行く
 八月十八日の政変で、多くの尊皇攘夷派が京都を追われました。しかし、長州の残党が政変後も、市中に潜伏しているおそれがある。そこで、京都守護職から新選組に対し、昼夜を問わず京都市中の巡察をする様、命令が下された。


 しかし、六十人程の新選組だけでは、市中のすべてを巡回出来ません。京都守護職、京都所司代、京都町奉行、新選組、そして見廻組などが、担当地区を決めて警備に当たっていました。


 元治元年四月、幕府は直参で御目見え以下の御家人の中から、腕の立つ者を四百人を選び、見廻組を編成し、京都に送る計画を立てました。この見廻組は二つの組に分けられ、京都見廻役がこれを統率しました。一人は備中浅尾一万石の領主蒔田相模守広孝、いま一人が旗本交替寄合表御札衆の松平因幡守康正。この下にそれぞれ、二、三人の与頭と与頭勤方が置かれました。


 所が、三百年近く、泰平の世の中で暮らして来た幕臣達、予定の半分も集まらない。そこで蒔田相模守だけが一隊を率いて上洛を果たしています。この京都見廻組の中で、剣の使い手として有名なのが与頭の佐々木唯三郎、会津藩公用方手代木直右衛門の実弟で、坂本龍馬を暗殺した見廻組の隊士を指揮したとも言われています。