◆「設定」――自分のホームページの「時・人・場」の筋立て――に関する、長い、だらしない、苦しい、みっともない「逡巡」から、なんとか脱するきっかけになったのが、先日(8/15)の大須賀浜の出来事だ。 〈復習〉 (1)敗戦の日、戦没者を弔う旅の行程を組み立てているとき、2点、不思議なことがあった。 ①行程のなかに、招魂社などに混じって、なぜか「大須賀浜」が入っている。 ②毎年、敗戦の日に耳鳴りのように聞こえる「負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、それをまあ、恥ずかしいとも思わずに、田舎の人たちったら、馬鹿だわねぇ」という声(太宰治・戯曲『冬の花火』の数枝の台詞)の聞こえ方が、なぜか、今年に限って切実、痛切に響く。 (2)はじめ、この2つの理由が、わたしにはわからなかったのだが、当日の夜になり、まず、②数枝の声の謎が解け、それに触発されるカタチで、①大須賀浜の謎が解けた。(解答の詳細、省略) (3)それから、かなりの日数が過ぎた頃、ふと、「②数枝の声→①大須賀浜」の思考ルートではなく、その逆、すなわち「①大須賀浜→②数枝の声」ルートも可能だったのではないか?――、いや、むしろ、その思考ルートこそ、わたし本来の解決の仕方ではなかったのか?ということに気づく。 ◆この(1)~(3)の経験が、ホームページの「設定」に関する逡巡から抜け出すヒントになる。 逡巡の中核は、わたしの「日常生活」とわたしの「教育世界」との乖離だ。 この詳細に触れると、また「書き助」&「書き魔」に陥るので、結論だけ――「②数枝の声→①大須賀浜」のように、あるいは「①大須賀浜→②数枝の声」のように、「日常生活」→「教育世界」、あるいは「教育世界」→「日常生活」と、どちらか一方を書き込むことにより――もちろん、両方について書き込んでもいいのだが――2つの世界の間にある壁が突破でき、もう一方の世界に至ることが可能なのではないか? ◆乱氏に誘われて大学生(教育実習生)の授業を観にいく。 にほんブログ村 にほんブログ村 ★わたしの公式ホームページにも、ぜひ、来てください。公式ホームページには、トータルの、全身の、わたしが存在します。待ってまっせぇ~ィ !!!!!!!!!! ☆公式ホームページへ ★わたしのWEB無人駅線のページにも、ぜひ、来てください。あっというまに、魂が無人駅線の世界に、全身、移動できます。待ってまっせぇ~ィ !!!!!!!!!! ☆WEB無人駅線ページへ |
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