藤木清子全句集 『ひとときの光芒』
私にとって待望の書、藤木清子全句集『ひとときの光芒』が刊行された。
藤木清子の作品、
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
が気になっていたからだ。田島和生著『新興俳人の群像』で見たような気がしていたが載っていない。宇多喜代子の他の著作かもしれない。その時、藤木清子の全容を知りたいと思った。
編著者宇多喜代子の努力にも関わらず、藤木清子の全容は明らかになっていない。生年は不明で、没年も明かではない。健在であれば九十才位だから生存している可能性もある。
ただ、彼女の俳句作品は網羅されているのではないかと思う。日野草城主宰『旗艦』七十号(昭和十五年十月号)に作品を発表して彼女は消息を断っている。藤木清子の俳人としての期間もまた、短い。昭和六年から昭和十五年の十年間である。
藤木清子が所属していた『旗艦』は新興俳句運動の牙城だった。投句する『京大俳句』はその中心に位置している。彼等は無季定型を説き、その表現は戦時下の社会に批判的だった。『京大俳句』事件はそのような情況の中で起こった。昭和十五年に主要会員十名が逮捕され、雑誌は廃刊を余儀なくされた。戦況が深まるにつれて藤木清子の俳句は光彩を放てくる。
白い昼白い手紙がこつんと来ぬ
戦争と女はべつでありたくなし
友寡婦となり曇日の花しろき
きりぎりす清貧の血の一筋に
病人も医師もしずかに聖戦下
新興俳句運動を藤木清子がどれだけ意識していたか分からない。『旗艦』に参加し『京大俳句』に投句したのも夫藤木北青と一緒だからである。夫君の影響下にあったと見た方がいい。昭和十一年の藤木北青の病死以後、彼女の表現は鋭く、また豊になる。中日戦争から太平洋戦争へと戦況が深まっていく過程とそれは重なっている。新興俳句運動の過程を辿ると、戦火想望俳句の提唱と、それ以後の反戦的表現と矛盾した動きを呈している。社会情況に流されやすい一面がある。藤木清子の作品にはそれがない。寡婦という位置から、社会情況をひややかに見つめている。夫を戦時に送る妻、子を戦争で失う母と戦争は女性の上に重くのしかかる。藤木清子にはそれがない。
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
私がこの作品にこだわるのは、もはや新興俳句の範疇から抜け出ていると考えるからである。感覚がそのまま表現されて、戦争と対峙している。彼女の表現の中には個の重さが感じられる。
ひとすじに生きて目標をうしなへり
藤木清子はこの作品を『旗艦』に残して句界から去った。『京大俳句』事件があった直後である。文学表現として選んだ俳句に弾圧がかかり、知人友人が逮捕される。たまったものではない。また、彼女自身の内部でも瓦解現象が生じていたのではないだろうか。後半の句はそれだけ逼迫したものを持っている。
(大月健)
沖積舎刊 A5版 180頁 3000円