風の吹くまま

気の向くままに

旅と1円玉

2011-11-24 00:18:16 | Weblog
雨でびっしょりになりながらも出かけた旅人の会はただただとりとめもなく
旅の話をしているだけなのだがそれがなぜだかとても楽しく癒される。
今どこに行きたいのか自分でもよくわからないがたぶん場所なんてどこでも
いいのだと思う。旅というとどこか知らない土地にでかけてそれが日本ではない
外国となるともっと旅らしいイメージになる。

そしてわがままな私は決められた時間で区切られて決められた場所を見学する
集団行動は苦手で誰からもなにも言われない勝手気ままな旅がいい。
ここだけは見逃したらどうしようというようなそういう特定の場所を求める
気持ちはなく私がとぼとぼと歩いていようとボーと階段に腰掛けて2時間でも
3時間でもぼんやりしていようと誰も気に止めることすらない空間が最高の
旅の場所ということになる。

日々の暮らしに気を使う場面などないように思える私だがどうも日本の
社会では私のような人間でさえ日常のどうでもいいようなところでそれなりに
気を張って生きているのだなあと思う。

例えばスーパーのレジに並びながら打たれた金額をさっと一瞬でだせるように
財布の中に1円玉は何枚5円玉は何枚10円玉は何枚50円玉は何枚100円玉は何枚
500円玉は何枚と数える習慣が身についている。後ろの人を待たせるのが
嫌だったら1,000円や2,000円や3,000円と全く端数のでない札を出して
おつりを貰えばいいのだが財布の中に細かいお金が増えるのが嫌なのだ。

猫好きの妹はどんどん増えていく1円玉で財布が膨らむものだから私にこの
1円玉使ってと『寄付』をするくらい私の財布はいつだって小銭がほとんど
入っていない。

どうして旅の話が1円玉の話にすり変わるのか私もわからないが私の後ろに
並んでいる人がいないレジでもレジを打つお姉さんにこのおばさんは
動作が鈍いなどと思われたくなくて財布の小銭を必死になって数えている姿
は聞くも涙語るも涙の光景だ。

こうして考えてみると私は財布の中の小銭を数えたくないばっかりに
旅に出たいと思っていると思われてしまう。まあいいか。
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幼馴染み

2011-11-16 11:29:40 | Weblog
それにしてもやっぱりと言うかあれから(10歳から?)50年も過ぎたという
のに持って生まれた性分は変わらないという見本がずらりと並んだ感じがする。
会えば昨日の事のように幼い日々のことが思い出されああだったこうだったと
話しては笑い転げることができるのは小学校に入学する前からお互いを
知りつくしているからだろう。

なにもなかった時間などあるはずもなくそれぞれが山ほどの思いを抱えながら
暮らして今のここまで辿り着く道のりは真っすぐの一本道だったひとなどひとりも
いないはずだけれども同じ場所に集って笑いあっている姿はなんとなくどこかほっと
一息ついたというような安堵感がただよっている。

ひとは生きて暮らしている日々がどんなに平凡であろうと波乱に満ちていようと
過ぎてしまえばただの思い出の中に埋め込まれてしまうのだから今暮らしている
この時をあまり多くを思い悩まないで自己流に生きていればいいのだなあという
ことが改めてはっきりした。

いまのこの時間まで辿りつけないであっちに逝ってしまったひともいてどれほど
無念だったかと思い出すだけで涙がこぼれるけれどあっちに逝きたいと思って
逝ったひとなどいないのだからまあそっち(?)でゆっくり休んでいてよと
言うしかないな。抽選にもれる人はいないのだからいずれみんなもそっち(?)
にいくので楽しみに待っててねと言付けしておくことにする。
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2011.11.11

2011-11-11 00:00:00 | Weblog
もうちょっとで20を除いてゾロ目になる日だ。
2011年11月11日11時11分11秒とかまあどうでもいいことだけど
何かの記念日にするには結構覚えやすい日になるなあと思って
むりやりなにか記念日を作ろうかなとちょっと馬鹿なことを考えた。

ああ今ゾロ目の日になった。

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六道の辻

2011-11-09 17:28:56 | Weblog

六道の辻

コロッケ二個とハムカツ二枚それに私はシーチキンおにぎり一個で夫は赤飯と紅鮭の
おにぎり二個が本日の昼食だ。ふらふらと歩いて図書館まで行って予約しておいた
本を受け取っていつも歩くコースの途中にある小さな公園のベンチでさっき駅の近くで
買ってきたおにぎりを頬張った。

砂場で一歳半位の女の子が遊んでいる。そばにはおんぶ紐でまだ生まれて
そんなに日がたっていない赤ん坊を抱っこした若い母親が付き添っている。
この場所にはいつもカラスがたくさんとんでいる。夫はハムカツを手でちぎって
ポイと放り投げてカラスに餌をやっていたが頭がいいというカラスが夫の
放り投げた餌に飛びつくことはなかった。

道端に珍しい野草はないかななどと思いながらふらふらふらふら歩くのだから
ちっとも前にすすまない。畑の中を歩いている時に『六道の辻』があって
そこに説明書きの看板が添えられていた。

地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への別れ道で地蔵様が行く道を示すと
言うのだ。今の今まで私は人間だと思っていたのだがひょっとしてここを通ったとき
地蔵様にお前は地獄行きだと宣告された可能性がある。

あれまあこんなことしている場合じゃないわ。

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分校の同級会

2011-11-04 15:07:19 | Weblog

野菊には色々な種類があるらしいがこれはヨメナ(嫁菜)だろうか。

3・11以降それぞれの気持ちのなかになんらかの変化があるのだと思う。
10年ぶりに小学校の同級会の案内がきて返信用葉書を書く前に幹事をやっている
同級生に電話で連絡をして参加することを伝えたのだがその日にちが迫ってきた。

同級といっても小さな町のそのまた小さな村の複式学級の分校だったので
途中で入ったひとりと途中で出て行ったひとりを合わせても総勢20名だ。
今回の参加は外国に住んでいる一人と連絡の取れない一人を除いて他の人は
全員参加すると連絡が入っているらしい。

小さな村が寄り添うようにして住んでいるすぐそばには川が流れている。
冬には音も無くもかもかと降り続ける雪が朝には道という道を覆い隠してしまう。
かんじきを履いて隣との通路を踏み固めることが村に住む人がまっ先に
やらなければならない仕事だ。

村の小道をくねくねと登って行く途中に分校があった。
そこまでの道路は雪の降り積もった朝には真っ白な平面が広がっているだけで昨日
まで歩いていた道が全く見えなくなる。子どものいる家もいない家も当番でその
分校までの道をかんじきを履いて随分時間をかけて道ふみに行っていたのだから
今となっては雪国に住む人の粘り強さはそんなところからもきているのだろうなと
思ってしまう。

今まで経験したこともないような津波の映像や原発事故によるなんとも言いようの
ない不安な気持ちが小さい頃一緒に遊んだ仲間と会うことで癒そうとしているように
思える。名前を呼び捨てにしながらああでもないこうでもないと言い合えるのは
そんな分校の時の同級生だからこそできることなのかもしれない。
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所在無いな

2011-11-01 06:54:26 | Weblog

ユウゲショウ(夕化粧)


イネ科の野草だと思うが名前がわからない。良く見かける雑草だが
ピンクの花を咲かせていたなんて知らなかった。
(イネ科のニワホコリか?)

所在無くふらりふらりと一日中歩いてみた。
野草なんてと若いころには見向きもしなかった花に目がいってしまうのは
所在無い証拠だ。最近のペットブームもさみしい人が多くなったせいらしいが
野草を撮影しているのもなんのことはない所在無さのせいだ。

猫でも犬でも鳥でも飼ってみようかなと思うほど最近は自分の所在無さを
持て余している有様だ。




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