京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

京の大仏、不幸物語

2016年06月07日 06時32分26秒 | 風景
京都に奈良の大仏のような仏像があったのを知っていますか?
こういうのを意外と地元でも知らないのです。
だから、情報を集めて書き記しておきます。


↑京都国立博物館の北、豊国神社の東にあります。

天正14年(1586年)/豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。
文禄4年(1595年)/大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。
慶長元年(1596年)/慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。その気持なんとなくわかりますね。しかもこの大地震で伏見城の天守閣も落ちましたからね。



この慶長大地震は、三箇所で起こったのです。
1.慶長伊予地震が1596年9月1日に伊予国で起こった。M 7.0。
2.慶長豊後地震(大分地震)が1596年9月4日豊後国をおそった地震。M 7.0~7.8。
3.慶長伏見地震は、1596年9月5日に起こった。M 7.0~7.1。
たった420年前の話ですよ。



その他にもあります。
慶長地震というのもありますね。1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9~8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4~8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1~2万人を数えた。
会津地震(慶長会津地震)1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者約3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。ただし、津波の痕跡の範囲などからこの従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹(北海道太平洋)沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 、1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明。


↑北方向

現在の日本列島は、慶長の頃と同じようなサイクルになっているかも。
油断できませんね。
東南海地震や関東大震災だって、無いとは言えない。
オリンピックやリニアモーターカー大丈夫だろうか。


↑北方向

京の大仏の話しにもどりましょう。
慶長元年(1596年)、地震で壊れて秀吉は諦めるかというと諦めない。
秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(阿弥陀三尊)(当時は甲斐に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻された。
滅茶苦茶なことをしますね。最晩年の秀吉はちょっとおかしかった。
結局、慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去してしまった。悔しかっただろうな。
大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。
ものすごい広さですね。


↑東方向

秀吉の子、豊臣秀頼(当時9歳)が遺志を継ぎ、片桐且元を中心に今度は銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上した。
それでもまた慶長13年(1608年)10月には再び大仏および大仏殿の再建が企図された。大仏殿と銅製の大仏は慶長17年(1612年)に完成した。


↑西方向

慶長19年(1614年)には4月、梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしたところ、7月には梵鐘の銘文について徳川家康より「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、法要中止の求めがあった。これが、豊臣家と徳川の争いに発展した、世に言う「方広寺鐘銘事件」である。
最終的に豊臣秀頼は、大坂城内で自害(満21歳)。


↑豊国神社、お賽銭を集めておられました。

その後の大仏。
寛文2年(1662年)の地震で大仏は小破し、木造で造り直されることになった。
結果的に奈良の大仏より大きい盧舎那仏が完成。
寛政10年(1798年)の7月には大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼(かいじん)に帰した。
この時のわらべ歌が
「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」


↑豊臣秀吉といえば「瓢箪」ということで瓢箪を栽培してはりました。

天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。しかしそれも、昭和48年(1973年)3月28日深夜の火災によって焼失している。
京の大仏は、トコトンついてないですね。
いまは、地名で痕跡がある。
「大仏前郵便局」東西の通りで「正面通」というのはその名残。正面湯はもうなくなった。「正面」とは、大仏の正面という意味。


↑瓢箪のネジネジ

もう、大仏を復活しようと思ったら出来るだろうか。
少なくとも、こういう歴史があったのを語り継いで欲しいものです。

私なら、この大仏殿跡で盧舎那仏を復活させるな。
どうやって?
白い風船で外形を作り、そこに3Dプロジェクションマッピングでやればできるかな。ちょっと安っぽくなるか。
次世代の空間投影技術はないのかな・・・近未来のSF映画では普通に出てくるけど。
でもやった時、どうやって拝観料をいただくか?騒音の問題もでてくる。
静かにやれば夜の観光になるけどな。

それと京都市内をある眼鏡をかけて歩くと昔の姿がウッスラ映るというのも面白いかも。平安時代は、このあたりは森だったとか。別の広大な建物があったこと。わかると楽しいかも。Googleマップでそういうレイヤーができるといいのにね。
いま、自分が立っている場所は、藤原さんの家だったとか、わかったら面白いのに。
そんなこと考えないのかな・・・。
そうすると京都観光していても楽しいのに。
ながら歩行になる危険性はあるけどね。

和菓子
中村 肇
河出書房新社

↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)

Twitter→@kyo_otoko
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