京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

歌の中山

2008年10月15日 04時05分51秒 | 社寺
「歌の中山」って知らない人がほとんどでしょ。
かくいう私も知りませんでした。
この間、清水寺に行った時に清閑寺までいきました。
清閑寺は、清水寺から南東に位置します。
かつては東山一帯に法華三昧堂や宝塔などが並ぶ清水寺と並ぶ大寺でしたが応仁の乱(1467~1477)で焼失後大々的に再建されず、小さな本堂が建つ侘びた古寺となっています。
清水寺から行くには子安の塔がある泰山寺付近の裏門(いつもお世話になっているところ)からうら寂しい林道を15分ぐらい歩いたところにあります。
若いお嬢さんだけではちょっと歩いていけないだろうな。



「歌の中山」は清閑寺の北、音羽山との間をいう。
寺の説では、むかし清閑寺に真燕僧都という人が住んでいた。ある夕暮れに門外に佇んで行き交う人を見ていると、髪かたちの美しい女がただ一人で行くのを見て、たちまち愛しい心が起きたのだが、言葉をかける便法が無いので、「清水への道は何れですか?」と問いかけた。
女は「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべき」と言い捨てて姿を消した。女は化人であったのだろうか。
その歌を詠んだ所を「歌の中山」と言うそうです。
確かに出そうな雰囲気の場所ですね。
私は猿ぐらいしか会わなかったけど。



高倉天皇(1161~1181)、六条天皇(1164~1176)の御陵があります。
高倉天皇は清閑寺とゆかりが深く、平家物語のヒロイン、小督の局(こごおのつぼね)が、出家して清閑寺で庵を結び隠れ住んだとされています。
高倉天皇の中宮は平清盛の娘徳子でした。小督が天皇の子を生み、その子が成長して天皇になっては困るということで、清盛が無理やり2人の仲をさいて小督を仏門に入らせたということです。



歌の中山清閑寺、和歌や古典文学に名高い清閑寺は由緒ある寺で延暦21年(802)に天台宗の寺として創建されました。



茶室「郭公亭」は、西郷隆盛と月照上人が密議をした跡です。
幕末期、黒船の襲来に対する幕府の対応に憤激した月照は、当時京都清水寺の住でしたが、山門にあることを潔しとせず、寺を弟新海に任せ尊皇倒幕運動にはせ参じました。
同様の運動をしていた薩摩の西郷隆盛と知り合い、肝胆相照らす中となり、西郷隆盛等同士と尊皇倒幕運動に傾注していきました。



当時幕府は討幕運動の弾圧のため過激派を追跡しており、西郷も月照も幕府から追われる身となりました。
京都にあって、両人の身を案じた関白近衛忠煕公は両人に京を離れ逃れる事を進言しました。両人は長州を訪ねましたが既に幕府の手が回っており、薩摩の島津齋彬公を頼り落ち延びることにしましたが、薩摩に着いてみれば齋彬公は既にこの世になく、既に頼れるところ無く幕府の手も薩摩の地まで回っており、もはやこれまでと観念した二人は御津浦で入水自殺をしました。



ところが、死んだはずの西郷は息を吹き返しましたが、月照は再び生き返ることはありませんでした。 時に月照は46才でした。
このあたりはNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」に出て来たそうです。
観てない・・・。

この清閑寺まだまだ由来がいっぱいありますが、またの機会にご紹介します。
清閑寺地図
コメント (6)
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