イタリア・セリエA8連覇を目指すユベントスのアルゼンチン代表FWディバラとクロアチア代表FWマンジュキッチとポルトガル代表FWクリロナのトリデンテについて、ユーべOBの元イタリア代表FWデル・ピエロが「僕にはCLを制したときのユーべが思い浮かぶ。守備が非常に強く、必要なときは前線の3選手も守備に呼ばれる。共通点はいくつかあると思う。もちろん、僕の役割はディバラだろう。マンジュキッチはゴールを決められるし、走力もあるので(元イタリア代表FW)ラヴァネッリだね。カリスマ性のあるリーダーであるクリロナ(元イタリア代表FW)はヴィアッリのようだ。アッレグリ監督は常に、『いつ守るべきで、いつ攻撃するべきなのか、それを理解しなければならない。』と言っている。」と、自身とラヴァネッリとヴィアッリで構成された1995-1996シーズンのCLを制したユーベの前線に例えました。
1994年W杯が終わるまでは、3トップはオランダ代表とオランダ・エールディビジのクラブ(特にアヤックス)とスペイン・リーガ・エスパニョーラのクライフ監督のバルセロナとフランス・リーグアンのオセールのギー・ルー監督とセリエAのラツィオのゼーマン監督の代名詞だったと思います。
また、それは同時に攻撃的サッカーの代名詞でもあったと思います(もちろんこの時の攻撃的と昨今のポゼッションとでは、一概に同異義語ではなかったとも思います)。
そして、特に守備を重んじ、かつ2トップが主流だったセリエAで元イタリア代表FWシニョーリらを3トップに据えた4-3-3のラツィオのゼーマン監督は異質でした。
そんな中、1994-1995シーズンにナポリからユーベに移籍したリッピ監督がデル・ピエロとラヴァネッリとヴィアッリの3トップ(元イタリア代表FWバッジョもデル・ピエロやラヴァネッリと併用されましたが、あの時のユーベの10番はもはやデル・ピエロだったと思います)でスクデットを獲得したことで、ミランは2トップから元ユーゴスラビア代表MFサビチェビッチと元リベリア代表FWウェアとバッショの3トップの採用に踏み切り、パルマは1994-1995シーズンのセリエA2位の原動力となった元イタリア代表FWゾラと元コロンビア代表FWアスプリージャの2トップにバルサから獲得した元ブルガリア代表FWストイチコフを加えた3トップを採用する等1995-1996シーズンのセリエAは一気に3トップが主流になったと記憶しています。
また、教科書的には3トップは両ウイングからのクロスにCFが合わせるでしたが、リッピ監督は後に右45度から中央への切れ込んでのシュートが代名詞となるデル・ピエロを3トップの左に据え、現代の10番のポジションとなる利き足の逆サイドを予見していたと思います。
もちろんこれについては1982年W杯のイタリア代表の元イタリア代表MFコンティ、もしくは1974年W杯の元オランダ代表FWクライフまでさかのぼることもできそうですが。
一方で、後にユーベのバンディエラとなるデル・ピエロを見出し、CLを制した1995-1996シーズンの翌シーズンにユーベに加わった元フランス代表MFジダンに後に自らのスイッチを押してくれたと評されたリッピ監督ですが、1994-1995シーズンはデル・ピエロを重用する一方で1994年W杯でアズーリの準優勝に貢献したバッジョを結果的に軽んじたことで(結果的と書いたのは、いろんな意味で起用が難しかったと思います。まず本人が不在でしたし)、3トップを採用する攻撃的かつその後2012年までユーベの10番を背負ったデル・ピエロと1998年W杯を制したフランス代表の10番を育てた指揮官の姿よりもファンタジスタを冷遇する指揮官のイメージが強くなったと思います。
そして、ファンタジスタを冷遇する、それが現実的な采配から飛躍して守備的な戦術を志向するイメージにも転じたと思います。
また、1998年W杯後はファンタジスタ、バッジョやデル・ピエロはサイドよりもトップ下で起用するべき、すなわちトップ下にファンタジスタを起用することでその閃きをより生かすことが攻撃的でスペクタクルであるという風潮になったと思います。
しかしながら、スペクタクルが代名詞であるバルサの10番のポジション、元ブラジル代表FWロナウジーニョやアルゼンチン代表FWメッシのポジションは利き足を逆のサイドであって、結局は魅せ方の問題だと思います。
それがポゼッションを重んじる中でのプレイなのか、はたまたカウンターの中のワンプレイなのか、それぞれで見栄えと観る印象も違うと思います。