「甘える」とは?
辞書には「慣れ親しんでこびる、人の親切・好意を遠慮なく受け入れる」
などと書かれている
ここでは
「相手の情に訴え、操作すること」と定義したい
なぜなら、日本の場合にはこの傾向が強いように見受けられるからだ
例えば
家族とか恋人とか、友達など親しい人に買い物を頼む場合
A「買い物に行ってきてくれない?」
B「今コレをしてるし、後で仕事もしないといけないし、
頼まれた○○もしないといけないし、することがいっぱいで疲れてるのよ。
だから、買い物に行ってくれない?」
C「いつも私が買い物行ってるから、今日はあなたが行ってきてよ」
D「買い物行ってきて!」
どの言い方に近いだろうか?
Aは、端的に言いたいことを伝えている
Bは、「自分がなぜ頼むのか」の事情を説明してから頼んでいる
Cは、押し付けているように感じる
Dは、命令口調で言っている
BとCの言い方を考えてみよう
これは「甘えている」(特に、Bの言い方の場合に顕著)と言えないだろうか?
まず、自分が買い物に行けない理由を並べ立てている
これは、
「このように説明すればきっと相手が納得してくれるだろう」
「それなら仕方ないなと思ってくれるだろう」
と、相手の同情など「情」に訴えようとしている
また
相手の「嫌だ、NO!」を封じ込めようとする意図が感じられないだろうか?
可能な限り、相手を「良いよ、YES」と言わせる状況に追い詰めている
意識的に、あるいは無意識的に相手を操作している
これこそ【幼児期の甘えと依存】ではないだろうか?
このように追い詰められた場合
どれだけの人が「NO!」と言えるだろうか?
特に、上下の関係性がある場合には
なかなか難しいと思える
このような会話の根底にあるのは「甘える」であろう
情に訴えて、相手を自分の思うように操作する
「情と情の絡み合い」
これが日常の会話のあちこちに見られるのではないだろうか?
なぜ、このような会話になるのだろう?
情に訴えない(甘えのない)理性的な会話=大人の会話をするにはどうしたら良いだろうか?
それは
自他の区別をしっかり持つこと
『私はこのように考える。
それに対してあなたが「YES」と答えようと
「NO」と答えようとそれはアナタの自由だ』と認識すること
これは
フレデリック・S・パールズの「ゲシュタルトの祈り」に通じる
この観点をもって会話したなら
「情」に訴えるのではなく、
まずは一番に自分の考えを、端的に相手に伝えるだろう
これが「甘えと依存の無い理性的な会話=大人の会話」と言う
会話はここから始まる
それでない場合は「情の絡み合い」=幼児期の会話となる可能性が高くなるだろう
大人の会話をしたいものだ
そうすれば
情でがんじがらめになった、
恨み・ねたみ・憎しみと無縁になるに違いない
あなたは常に情に訴える会話をしていませんか?
興味をもたれた方はシニフィアン研究所のHPを参照ください
http://signifiant-lab.com/
辞書には「慣れ親しんでこびる、人の親切・好意を遠慮なく受け入れる」
などと書かれている
ここでは
「相手の情に訴え、操作すること」と定義したい
なぜなら、日本の場合にはこの傾向が強いように見受けられるからだ
例えば
家族とか恋人とか、友達など親しい人に買い物を頼む場合
A「買い物に行ってきてくれない?」
B「今コレをしてるし、後で仕事もしないといけないし、
頼まれた○○もしないといけないし、することがいっぱいで疲れてるのよ。
だから、買い物に行ってくれない?」
C「いつも私が買い物行ってるから、今日はあなたが行ってきてよ」
D「買い物行ってきて!」
どの言い方に近いだろうか?
Aは、端的に言いたいことを伝えている
Bは、「自分がなぜ頼むのか」の事情を説明してから頼んでいる
Cは、押し付けているように感じる
Dは、命令口調で言っている
BとCの言い方を考えてみよう
これは「甘えている」(特に、Bの言い方の場合に顕著)と言えないだろうか?
まず、自分が買い物に行けない理由を並べ立てている
これは、
「このように説明すればきっと相手が納得してくれるだろう」
「それなら仕方ないなと思ってくれるだろう」
と、相手の同情など「情」に訴えようとしている
また
相手の「嫌だ、NO!」を封じ込めようとする意図が感じられないだろうか?
可能な限り、相手を「良いよ、YES」と言わせる状況に追い詰めている
意識的に、あるいは無意識的に相手を操作している
これこそ【幼児期の甘えと依存】ではないだろうか?
このように追い詰められた場合
どれだけの人が「NO!」と言えるだろうか?
特に、上下の関係性がある場合には
なかなか難しいと思える
このような会話の根底にあるのは「甘える」であろう
情に訴えて、相手を自分の思うように操作する
「情と情の絡み合い」
これが日常の会話のあちこちに見られるのではないだろうか?
なぜ、このような会話になるのだろう?
情に訴えない(甘えのない)理性的な会話=大人の会話をするにはどうしたら良いだろうか?
それは
自他の区別をしっかり持つこと
『私はこのように考える。
それに対してあなたが「YES」と答えようと
「NO」と答えようとそれはアナタの自由だ』と認識すること
これは
フレデリック・S・パールズの「ゲシュタルトの祈り」に通じる
この観点をもって会話したなら
「情」に訴えるのではなく、
まずは一番に自分の考えを、端的に相手に伝えるだろう
これが「甘えと依存の無い理性的な会話=大人の会話」と言う
会話はここから始まる
それでない場合は「情の絡み合い」=幼児期の会話となる可能性が高くなるだろう
大人の会話をしたいものだ
そうすれば
情でがんじがらめになった、
恨み・ねたみ・憎しみと無縁になるに違いない
あなたは常に情に訴える会話をしていませんか?
興味をもたれた方はシニフィアン研究所のHPを参照ください
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