≪整心療法研究所≫自己治癒力により心身が整っていく

自己治癒力により心身が整っていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法。

448) しあわせの物差し

2017年03月20日 | 育児・子育て

整心療法研究所(埼玉県上尾市・大阪市・和歌山市)のブログへようこそ。

従来型の精神分析(無意識を意識化する)を凌駕し、新しい視点から人間の精神にアプローチする方法を研究中です。


今日はしあわせの物差しについて書きます。


しあわせは語ることではなく、味わうもの。

だから人それぞれ。共通の物差しはない。

私は私の物差しで測る。

あなたの物差しで私は測れない。

それを忘れないで。

そうすれば、この世界はもっと住みやすくなる。

私は私の物差しで私の世界を描くのだから。

すべての人はパラレルの世界を生きている。

交わることはある?

君の名は。のような形でしか交わることができないのかもしれない。

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437)心の自己治癒力

2016年08月21日 | 育児・子育て

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「心の自己治癒力」 について書きます。  

人間の体は「自己治癒力」と呼ぶものを持っていると言われています。
それと同じように、心にも「自己治癒力」と呼べるものを持っているようです。
では、心の自己治癒力とはどのようなものか。
自動的に作動するものか否か。
自動的ではないとすると、どうすれば作動するのか。
これらについて今の時点で考えていることを書いてみます。

なぜ心にも自己治癒力があると言えるのか。
今はクライアントを通して学んだとしかいえません。
結果的にクライアント自らが治していくのです。
もちろん、分析家は理論に基づいた姿勢でその場にいます。
でも気づき治していくのはクライアント自身なのです。
クライアントと分析家は限られた時空を共有し、クライアントが語ることで時空を変化させます。
(語るのは言葉だけではありません)
その変化を分析家が受け止める。
その時空の中での変化がクライアントの自己治癒力を作動させるきっかけとなる。
この体験が共有の時空を離れても継続しているようです。
その何らかの変化を持って次回やってくる。
そしてまた自ら新たな刺激を作動させる。
その繰り返しの中で治癒していく。

目前の苦悩は表面に現れた症状と捉え、それを裏側で支えている何かを変化させれば症状も変わる。
その観点から、クライアントと分析家の限定された時空がクライアントの心の自己治癒力を刺激するのだと考えています。

その経験が限定的であり、非日常的な時空を設定するからこそ作動させることができるのでしょう。
自らの心の自己治癒力を作動させるきっかけは、日常のあちこちに転がっているのかもしれません。
ただ、それを自己治癒力を作動させるきっかけとするためには、ある特別な刺激が必要なのかもしれません。
その刺激を精神分析家は意図的に、しかもクライアントにそれと気づかせない形で用意していると言えるでしょう。

その刺激を受けるからこそ人は自ら治癒してくのではないでしょうか。

そのようなことを日々クライアントから学んでいます。
クライアントと分析家が意図的に時空を共有する場がセラピールームなのです。



 
 

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434) 比べない・評価しない・裁かない

2016年06月27日 | 育児・子育て

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「比べない・評価しない・裁かない」 について書きます。 

家庭や社会の中での対人関係や、子どもや人を育てる上で大切な姿勢について考えてみます。
相手のためを思ってとの言葉とともに、陥りがちな三つのことについて書いてみます。

1. 比べる

一番やりがちなことでしょう。
家庭内では兄弟姉妹間、親戚や近所の同世代の人との比較。
社会では、同僚や会社、組織内での比較。
他には、過去の自分と今の自分、理想と現実、何らかの教義や主義主張と自分なども含みます。

2. 評価する  

学校や社会ではこれを中心に決定されることが多いかもしれません。
比べた後には必ずと言っていいほど評価をしてしまいがちです。

3. 裁く

比べ、評価し、そして最後に裁くと続きます。
結果、「だからダメだ」と否定して(されて)終了となります。 

「比べる」「評価する」「裁く」
これらの言語自体に良い(+)悪い(-)はついていません。
ただ多くの場合、これらの言語の前に(-)の符号をつけて使いがちではないでしょうか。
ですから、どうしても否定的な響きをより強く抱いてしまいます。
そして、最後は自他ともに「ダメだ」に辿りついてしまいます。

以上のことから、対人関係などにおいて自他ともに育てるために必要な姿勢がみえてきます。
まずは、
「比べない・評価しない・裁かない」

これらの連鎖をしない方法はまず「誰とも、何とも比べないことだ」と考えます。

人は比べたら評価したくなるし、評価したら善悪をつけて裁きたくなるものです。
だとしたら比べないのが一番。
そこにあるのは「差異」それだけではないでしょうか。

シニフィアン研究所ではこの観点から分析、レクチャーをしています。
 

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429)無条件の愛の対象

2016年02月27日 | 育児・子育て

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「無条件の愛の対象」 について書きます。
 

<ある日のローカル電車の中での光景から >

田園風景の中をガタンガタンと不器用な音を立てて走るローカル電車の中でのこと。
ある無人駅から乗り込んできたちょっと強面のおじさんが向かいの座席にドスンと座った。
機嫌悪そうな憮然とした面持ちで前を向いて座っている。
ちょっと関わりたくないなと思わせる雰囲気を漂わせていた。
なるべく視線を合わせないように気を付けながら、時折視線を泳がせていた。
その時はまだ、後に思いもかけない光景を目にするとは考えもつかなかった。
少なくとも私は。

しばらく風景が流れたある瞬間。
近くで可愛い「あ~」という声がした。
その声の方に目を向けると、赤ちゃんがそのおじさんの方に小さな手を向けていたのだ。
若いママの腕の中に抱かれた 生後まだ4・5か月だろうか、いわゆる赤ちゃんから一人分の座席を隔てた距離にあの強面のおじさんが座っていたのだった。
少し緊張したママが慌てた様子で赤ちゃんをあやしていた。
決して多いとは言えない乗客が少なからず一瞬息を呑んだように感じた。

次の瞬間、その場の雰囲気が一変した。
何と、あの強面のおじさんがまるで別人になったのだった。
深く刻まれた顔のしわが満面の笑みに変身をとげた。
そのまなざしは一心にその赤ちゃんの上に降り注ぎ、なんとあやし始めたのだった。
赤ちゃんはというと、笑い声こそ立てはしなかったが、じっとそのおじさんのまなざしにまなざしで応えていた。
ママも我が子とおじさんを交互に見つめながらそのまなざしに参加していた。
その時間は果たしてどれくらいだったろうか。

無垢で無邪気だとされる赤ちゃんの一声が、強面を一瞬で笑顔に変えた。
そのおじさんの心中は解らない。
ただ赤ちゃんの一声がおじさんの笑顔を引き出したことだけは確かなことだった。
言葉(意味)の世界に自ら参加していない存在が、言葉の世界に住まう大人にとって無条件の愛の対象として作用したと言えないだろうか。

緊張した場の雰囲気を一瞬にしてほっこりとした空気に変容させた現場を目撃した。
まだ寒さの残る如月のひと日の出来事。

twitterでもつぶやいています。https://twitter.com/rakuhomanami
シニフィアン研究所のHPもどうぞ http://signifiant-lab.com/ 

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425)自己規定と他者規定&関西出張のお知らせ

2015年12月07日 | 育児・子育て

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「自己規定と他者規定&関西出張のお知らせ」 について書きます。

日々暮らしていく上で、常に何らかの物事に対処する必要が生じます。
その時、それらに対して考え、判断し、行動しなければなりません。
では、その思考や判断、決定の基準は何でしょうか。
そしてその基準が自らの意志に基づいたものかどうか と問いかけてみたいと思います。

人は誰しも生まれながらにそれらが備わっているものではない以上、生まれ育った環境の中で学習していくものだとされます。
一番考えられるのは、自分を取り巻く大人たちです。
両親を中心とした家族や教師、地域の人たちでしょう。
しつけという名のもとに教えられたり、模倣して取り入れるといわれます。
それらの中から、その人固有の基準を創り上げていくのでしょう。

このように考えていくと、「自己規定」と「他者規定」の違いが不鮮明になってきます。
自己規定だと思っていることが実はどこかで他者から取り入れたものだとしたら、果たしてそれは自己規定だと言えるのか。
すべて他者規定ではないのか。
この問いかけにその人なりの決着をつけて社会へと参入していくのだといわれます。
ここで「自己規定」と「他者規定」の違いがみえてきます。

すべては他者から取り入れたものだと気づき、自らが自らの基準を新たに決め直すか。
元々は他者から取り入れたものであったとしても、それを再度自らが引き受けなおすか。
あるいは、その問いの前に立ち止まってしまい動けなくなるか。
言われるままになるのが楽だと 他者の言動に従うか。

日々の生活の中で「自己規定」「他者規定」のどちらを生きているでしょうか。
時折、立ち止まって考えてみることも必要かもしれません。

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≪12月度関西出張のお知らせ≫

*8日(火)~10日(木) 大阪市・和歌山市

面談・インテグレーター養成講座・≪人間講座-象徴界に生まれる≫・フリートーク(テーマは未定)

*7日(月)・11日(金)埼玉県大宮市

詳しくは、シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/  
Twitter https://twitter.com/rakuhomanami、を参照、連絡ください。 

 

 

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