月明かりの下の独り言

こちらに舞い戻って参りました。
こちらで、ちょっくら暑苦しく真面目な話題に、取り組んでいきたいと思います。

建設的議論って難しいよね。

2008-01-22 | 民主主義とは
議論の大切さを繰り返し書いてきたけれど、でも現実、議論するのってとても難しいこと。
え~と、どこぞの騒動を多少念頭に置いて書いています。ご自由に想像してくださいな。

 ネット上の、オープンな掲示板なんかで繰り広げられる議論をみていると、やっぱり気持ちの良いものではない。議論することで、というよりも、言い合い(書き合い?)をすることで、確実に傷ついている人達がいる。みんな、それぞれに根拠、というよりも思いを持って、かき込んでいる。ある程度年を食った人間から見ると、非常に幼稚なものに見える書き込みもするけれど、それぞれに弾圧される、というか、その場から排除されるほど、ひどいものもなかったりする(えぇと、○chのことじゃないですよ)。特に、そこで交わされる話題の対象となっているものに、みなが程度の差はあれ、愛情を抱いていることが前提になっている場所。そうすると、その愛情の差や、表現の仕方は多様で、年代が違ったり、真剣さの度合いが違ったり、あまりにその対象の側に立って(いるつもりでいる)視点からの書き込みだったり。あまりに多種多様な人達が出入りするようになると、書き込み方を巡っても、以前の記事で私が書いていた件についても、いろんな意見の人がかき込むようになる。以前からそこを支配していた(のかどうかは、分からないけれども)暗黙のルールみたいなものを、知らないままにかき込んでいる人が多いんだろうなと思う。その暗黙のルールが、ちょっと厄介なんだけどね。

 では、なぜ私がこんな「コップの中の嵐」ともいえるような騒動に注目するのか、というと、これも一つの「紛争」「対立」の構図を分かりやすく示している、と感じたから。

 議論が必要だと、繰り返し書いてきたけれど、自己主張することだけに終始した場合は、「議論」(と果たして言えるのかどうか?)によって傷つく人は確実に続出して、結局は何も言わないでスルーするのが賢い対応になってしまう。でも、なんとなくフラストレーションが溜まってしまう。それをうま~く誤魔化すのが、日本人は得意なんだろうな、と実は最近ちょっぴり考えてみたりもするんだけど。

 とにかく自己主張だけして、相手がなんでそんなことを言うのか、耳を傾け、理解し、自分の認識とぶつけてみることのない「議論」は実に不毛だなと、その「コップの中の嵐」を見ていると、感じてしまう。そのまま、納得することなく、不完全燃焼のままに、対立の構図は残っていく。

 たしかに、そこで行われている議論は、人の生き死にだとか、食料の奪い合いだとか、資源の奪い合い、といったような、国際的な紛争において問題となっていることほどの深刻さはないだろう。だけど、それでも「紛争」、「対立」の構図だな、と強く感じるのは、次のような理由から。

 そこでよく目立つのが、対象となっている存在が、絶対的だと信じている人達の、それを信じる心理、心情、みたいなものが、それを少しでも否定された場合に、ひどく攻撃的になる姿。今の日本人は、いろんな意味で大変な局面を迎えているとは思うけれども、例えば最近問題になっている食料品の値上げとか、ガソリンの値上げとか、年金問題、なんかよりも、心の問題、誇りとしているもの、プライド、みたいなもので、感情的になってしまう場面が目立つような印象がある。誇りに出来る存在、彼らがいるから、大丈夫だ。そんな風に誇らしい存在、心のよりどころにしている存在が、否定された時、日本人にとっては食料や自由を失うよりも、決定的に傷つけられてしまうんだろうなと、考える。

 それが、本当の意味で否定されているんだろうか、もしかしたら、自分の感覚と少し違っているだけなのかもしれない、っていうようなことも、いとも簡単に対立の構図に持ち込まれてしまう。

 さて、話は少し変わって、先週のNHK教育の爆問学問で自称「紛争屋」の伊勢崎賢治さんと、爆笑問題の太田さんが、かなり壮絶な議論を繰り広げていた、と私は思うんだよね。アフガニスタンやシェラレオネで「紛争」を調停してきたプロフェッショナルである伊勢崎さんは、「戦争」や「紛争」を主導する勢力の「セクシー手法」に対応するために、「平和」を掲げる勢力ももっと「セクシー」にならなくてはいけない、と話す。それに対し、爆笑太田さんは、「セクシー」で「恍惚状態」を導く手法、が、もしそれに固執することで結局「戦争」へとつながっていく局面になった時、その手法を捨てられるのか、やっぱり「平和」を目指す側は、愚直でなければいけないのでは、と切り返す。

 何が言いたいのかというと、対立、をとことん避ける立場を取る場合には、まず、自分の信じているものから疑う必要があるのではないか、ということ。自分とは異なる価値観を持っている人間からみると、自分の価値観はどう見えるのか、ということを考えてみること。自分が価値を置いているものを相対化して見つめること。それが、議論においては必要何じゃないのかなと思う。おっと、また理想論が出てしまいました。

 みんな、平和は大切だ、とか、紛争はいけない、とか、言うと、「そうよね」って思えるんだけど、じゃあ、身近なところで起こっている対立にどううまく妥協点、着地点を見付けられるのか、ということになると、とても不得手になってしまう。それが、まぁまぁとガマンできるものならいいけれど、自分がとても大切にしているものを否定されたような気持ちになった時、そのフラストレーションは簡単に人を傷つける方向に向かう、というのは、ひどくありふれている。確かに、紛争の当事者の中には、経済的な利害を巡るものとか、かなり冷静に紛争をあおっている人達もいるけれど、紛争の当事者たちの多くは、自分の大切にしているものを守るために戦っている。いまの、日本と韓国、中国のナショナリズムのぶつかり合いも、根っこの部分で支えている人達の感情を考えると、そうでしょ?そんなとき、あなたは、私は、どう対処しますか?
 
 ここで、理想論をぶちまけている私も、実は自信がない。私には果たして、今やっている議論さえも、捨てることが出来るのだろうか???

 そんなことことを飛び越して、「平和は大切だ」なんて言っているのは、私から見るととても議論が飛躍している、と思えるんだな。私の議論も飛躍してるのかもしれないけどね。

 あ~あ、今日も理想論ぶちまけちゃった。おまけに、かなりこじつけになっちゃってるかしら?

暑苦し~いブログ主とナイショ話がしたい方はkuutamo@mail.goo.ne.jpにどうぞ。
拍手してくれたら、こっそりメッセージも送れますよ。うふっ
拍手してみる?



 

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
傷つけるということは ()
2008-01-22 22:11:28
韓国・中国のナショナリズムがぶつかり合う。
日本にも激しく向いてくる。
過去のむごい経験から立ち上がってくるナショナリズムだとするなら、日本はそれに対して物申すことができません。
加害者の立場だから。
これはおそろしいことに、永久に続く宿業かもしれないです。

コップの中、身近なことでも同じじゃないでしょうか。
他者を傷つける、ということは、永久に自分自身をその罪で縛ることになるのかもしれないです。
それだけは肝にめいじておきたいと思います。
ワタシもいいかげん歳とってきて、わかってきたことです。
そうわかっていても、なかなか理想とおりにはできないですけれど。
返信する
>夏さん (くぅ)
2008-01-23 00:14:57
他者を傷つけたこと、その自覚をした上で、その立場から何ができうるのか。難しい問題ですが、今の日本人は向き合っていかなくてはいけないんでしょうね。



村山談話や歴代の内閣が繰り返し謝罪してきたことも確かで、それに対して過去に日本が侵略した地域の人たちが温度差はあれ、まだすっきりとした感情にまではいたっていないことも事実。謝罪の有無という問題で片付けるのではなく、そのような感情がなぜ残ってしまった、あるいは再生産されてしまったのかを、きちんと考えるべきところに来ていると思います。

その時に、ヒントになるのが、以前書いた医療裁判における調査委員会、なのかな、と、なんとなく考えました。

問題に真摯に向き合う姿を、日本は果たして公式に見せてきたのか。



将来隣人としていかに付き合って行くべきか、議論したいものです。
返信する