職業がら、こういう問題にもあれこれと言いたいことが募ります。
が、ブログを始める時に、こういった場でこういったことに何か意見を書くことが自分にとってどんな意味があるんだろう、ということを考えました。
やはり不特定多数の方に見ていただく上で、音楽とか編み物とか、ある意味能天気である意味無責任に書けてしまうこととは明らかに異なり、強く主義主張がでてしまうため、不快な思いをされる人も出てくるのではと、ちょっと不安になってしまいます。
できるだけ、柔らかな書き方を心がけたいと思います。
もしいつもいらっしゃっていただいてる方で、こういった記事が苦手な方は、どうぞスルーして行ってくださいな。
自民党の新総裁に福田氏が選出されました。
ということは、ほぼ自動的に日本の新しい首相に選ばれたと言うことです。
安倍さんのある意味劇的な退場もあり、いやがおうにも毎日この話題にあちらこちらで出くわします。
個人的にはバランス感覚に優れた福田さんが好きなんですが、小泉改革をどう継承していくのか、景気対策は、年金対策は、といった課題にどう取り組んで行かれるのか、今のところそういったことをきちんと議論するほど私は彼のことが分かっていません。
この人をリーダーに選んだ日本人、自民党内部で選ばれたとしても、あえて私は自民党を選んだ日本人が選んだと言いますが、彼に何を期待しているのか、というよりも、日本人が政治に対し、何を期待しているのか、そういったことをちょっと考えてみました。
そんなときに、思い出したのがこの本です。
だいぶ前に読んだので、正確な内容はちょっと思い出せませんが、この本の主旨とはちょっと別の話をしたいと思います。
この中で一番なるほどな、と感じたこと。
近世の日本でしばしば行われていた一揆や打ちこわし、貧困や飢餓にあえいだ民衆が追いつめられて起こしたやけっぱちな行動というイメージがあるけれど、じつはきちんとした手続きに則ったお上に対する異議申し立て行動だった、というくだりです。
一番おもしろかったのは、米の値上がりを見越して米問屋が売り控えしようものなら、「米を放出しなければ火をつけるぞ」という意思表示に、店の前やらあちらこちらにわら束が置かれ、それを見てお上や問屋が震え上がるという記述。
ちょっとうろ覚えなので、正確じゃない部分はあるでしょうがそこはご容赦を。
確かに火付けは重罪だったけれども、「弱いもの」が「強いもの」に対して意思表示をする上で、こういった脅しめいた行為は許容されており、「強いもの」もその行為を弾圧するのではなく、正当な「権力者」としてきちんと対処することが求められていた。
お上はどうすべきか、どうあるべきか、といった規範意識の共有があったんですね。
ここで私が特に着目した点は、あくまで既存の支配構造の中で問題を解決しようとした民衆の意識です。
「この政府はけしからん、倒してしまえ!!」
そんな目的を持った行動じゃなくて、
「あんたたちお上なんだからもっとちゃんとしようよ」ってな感じでしょうか。
あくまでも、お上に解決を求めるんですね。
こういった考え方は、ひるがえってみると、なんだか今の政府に対する大多数の日本人の感覚と非常に似ているんじゃないでしょうか。
行政への過大な期待、政府や行政は自分たちを守ってくれて当たり前なんだ、出来ていないのがそもそもおかしいんだ、という感覚(本当は、権力を持っている彼らから自分たちの身を守らなきゃいけないんじゃないかな?)
憲法だって法律だって、自分たちを守るためにお上が決めてくれている、という感覚(権力を持ってるお上が無茶苦茶しないように、これを使って自分たちを守らなきゃいけないんじゃないかな?)
あまりにも大胆な見方で、あまりにも一面的すぎるかもしれないけど、なんとなくこの国にはそういう空気があるような気がする。
これで、新しいリーダーが決まったくらいで、というか政権政党が変わったくらいで、日本って本当に変わるんだろうか、と思う。
結局のところ、お上は自分たちに何かしてくれる存在だって思っている限り、何も変わっていかないんじゃないのかな。
そう考えると、水戸黄門ってほんとうに良くできた番組だと思う。
格さん格好いいから大好きな番組なんだけど、あれって結局一番の権力者(将軍とそのお目付である水戸のご老公)は結局みんなの味方なんだよね。
が、ブログを始める時に、こういった場でこういったことに何か意見を書くことが自分にとってどんな意味があるんだろう、ということを考えました。
やはり不特定多数の方に見ていただく上で、音楽とか編み物とか、ある意味能天気である意味無責任に書けてしまうこととは明らかに異なり、強く主義主張がでてしまうため、不快な思いをされる人も出てくるのではと、ちょっと不安になってしまいます。
できるだけ、柔らかな書き方を心がけたいと思います。
もしいつもいらっしゃっていただいてる方で、こういった記事が苦手な方は、どうぞスルーして行ってくださいな。
自民党の新総裁に福田氏が選出されました。
ということは、ほぼ自動的に日本の新しい首相に選ばれたと言うことです。
安倍さんのある意味劇的な退場もあり、いやがおうにも毎日この話題にあちらこちらで出くわします。
個人的にはバランス感覚に優れた福田さんが好きなんですが、小泉改革をどう継承していくのか、景気対策は、年金対策は、といった課題にどう取り組んで行かれるのか、今のところそういったことをきちんと議論するほど私は彼のことが分かっていません。
この人をリーダーに選んだ日本人、自民党内部で選ばれたとしても、あえて私は自民党を選んだ日本人が選んだと言いますが、彼に何を期待しているのか、というよりも、日本人が政治に対し、何を期待しているのか、そういったことをちょっと考えてみました。
そんなときに、思い出したのがこの本です。
だいぶ前に読んだので、正確な内容はちょっと思い出せませんが、この本の主旨とはちょっと別の話をしたいと思います。
客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)牧原 憲夫吉川弘文館このアイテムの詳細を見る |
この中で一番なるほどな、と感じたこと。
近世の日本でしばしば行われていた一揆や打ちこわし、貧困や飢餓にあえいだ民衆が追いつめられて起こしたやけっぱちな行動というイメージがあるけれど、じつはきちんとした手続きに則ったお上に対する異議申し立て行動だった、というくだりです。
一番おもしろかったのは、米の値上がりを見越して米問屋が売り控えしようものなら、「米を放出しなければ火をつけるぞ」という意思表示に、店の前やらあちらこちらにわら束が置かれ、それを見てお上や問屋が震え上がるという記述。
ちょっとうろ覚えなので、正確じゃない部分はあるでしょうがそこはご容赦を。
確かに火付けは重罪だったけれども、「弱いもの」が「強いもの」に対して意思表示をする上で、こういった脅しめいた行為は許容されており、「強いもの」もその行為を弾圧するのではなく、正当な「権力者」としてきちんと対処することが求められていた。
お上はどうすべきか、どうあるべきか、といった規範意識の共有があったんですね。
ここで私が特に着目した点は、あくまで既存の支配構造の中で問題を解決しようとした民衆の意識です。
「この政府はけしからん、倒してしまえ!!」
そんな目的を持った行動じゃなくて、
「あんたたちお上なんだからもっとちゃんとしようよ」ってな感じでしょうか。
あくまでも、お上に解決を求めるんですね。
こういった考え方は、ひるがえってみると、なんだか今の政府に対する大多数の日本人の感覚と非常に似ているんじゃないでしょうか。
行政への過大な期待、政府や行政は自分たちを守ってくれて当たり前なんだ、出来ていないのがそもそもおかしいんだ、という感覚(本当は、権力を持っている彼らから自分たちの身を守らなきゃいけないんじゃないかな?)
憲法だって法律だって、自分たちを守るためにお上が決めてくれている、という感覚(権力を持ってるお上が無茶苦茶しないように、これを使って自分たちを守らなきゃいけないんじゃないかな?)
あまりにも大胆な見方で、あまりにも一面的すぎるかもしれないけど、なんとなくこの国にはそういう空気があるような気がする。
これで、新しいリーダーが決まったくらいで、というか政権政党が変わったくらいで、日本って本当に変わるんだろうか、と思う。
結局のところ、お上は自分たちに何かしてくれる存在だって思っている限り、何も変わっていかないんじゃないのかな。
そう考えると、水戸黄門ってほんとうに良くできた番組だと思う。
格さん格好いいから大好きな番組なんだけど、あれって結局一番の権力者(将軍とそのお目付である水戸のご老公)は結局みんなの味方なんだよね。