森の空想ブログ

茶壺の話 ② 西日本新聞連載記事です  [小鹿田焼ミュージアム溪聲館から<74>]



記事が読み取りにくいので以下に原文を掲載。

茶壷② 文久二年墨書入り茶壷

 「お茶壷」とは、将軍家に献上するための茶を入れたものである。お茶壷道中とは、献上のための宇治茶を茶壷に詰め、御輿(みこし)に担(かつ)いだ一行が江戸城へと向かった行列をいう。中世以来、貴重品として時の将軍や大名に珍重された茶壷は、「南蛮(なんばん)渡り」と呼ばれた中国南方またはルソン島(フィリピン)経由の渡来品である。肩の辺りに三耳または四耳が貼り付けられており、口辺(こうへん)を覆った布を紐で縛り、さらにその紐を耳に通して結ぶ。壷はおおむね全体に釉薬のかかった地味なものだが、窯変(ようへん)や釉流(ゆなが)れなどの「けしき」が生じると、珍品として賞玩(しょうがん)された。
 この茶壷の様式は定型化し、各地の作陶に引き継がれたが、小鹿田焼の茶壷は、素焼きの器胎(きたい)に釉薬を流しかける「打ち掛け」によって文様をつけたものが多くみられる。素焼きのほうが通気性にすぐれ、壷内の湿度調整がより自然に行われたためだろう。
 この茶壷は、高さ22センチ、胴幅16センチ。やや小ぶりの「上手(じょうて)もの」である。素焼きの肌に、打ち掛け釉が存分に掛かり、壷そのものの優美な造形に相和(あいわ)している。江戸時代、「天領」として栄えた日田の町へは参勤交代途上の大名が立ち寄り、九州全域を統括する代官が滞在し、富裕な商人、文人・墨客(ぼっかく)などが参集した。そのような上得意の要望に応えるものだっただろう。裏面に「文久二年」という年号と屋号が墨書(ぼくしょ)されている。極上の茶を用意しておくことも、「もてなし」の素養の一つであった。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事