森の空想ブログ

一枚の絵を見に行く【空想の森から<150>】

高校3年の時だったから、すでに60年以上の年月がすぎているが、私は大分県日田市から福岡県久留米市まで、自転車を飛ばして絵を見に行ったことがある。高校時代の3年間、私は夜間の電報配達のアルバイトをして学費と家族の生活費の一部を稼いでいたのだが、ある晩(たぶん夜中の2時頃)、最寄りの郵便局からの呼び出しのベルに気づかず、眠りこけていた。それを怒った父親が、私の手製のベッドをひっくり返し、

――約束したことが出来ぬなら、何もかもやめてしまえ。

と怒鳴り、私の代わりに配達に出かけて行ったのである。私は呆然としたが、仕方がない、出て行こう、と決断して、自転車を押し出し、それに乗って夜明け前の国道を西に走ったのである。男子生徒ばかりのバンカラ校の風に染まり、当時の私は部活(バスケ部)と出身中学のバスケ部のコーチ、美術部や音楽部との交流、山登りなど、遊び放題の高校生活を送っていたのである。ただ、家族の急や非常事態などを届ける電報配達だけは、大切な仕事だと認識していたから、堅実に勤めていた。が、その日はスポーツ部の代表選手権や他の行事などの活動が重なり、疲れ果てて熟睡してしまったのであった。

――あの絵の実物を見に行こう

自転車を転がしながら、私はすでに目的を決めていた。行く先は久留米市の石橋美術館。目的は、夭折の天才・青木繁が描いた躍動感と生命力にあふれ、浪漫主義の光彩を纏った「海の幸」と、筑後という風土に沈潜し、画業を深め、幽玄の境地に達した坂本繁二郎の「月」の絵。久留米が生んだ二人の画家は、田舎の美術少年にとっては遠くに輝くまぶしい光源であった。美術の教科書でしか見たことのないその絵を実際に見てみよう。日田から久留米までおよそ50キロ。片道4時間をかけてたどり着き、実物を見た感動と、その画像とは私の心象に鮮明に刻印されたのである。

その後、多くの美術作品を見、自身が運営した「由布院空想の森美術館」でも多くの作家・作品に接したが、一枚の絵を見るために、長駆、車を飛ばすという衝動は、あの時以来かもしれない。当日は早朝に出発し、2時間半かけて五ヶ瀬町へ行き、同町に分布する四座の神楽が一堂に会する「神楽の祭典」(上演時間3時間)を取材。その後大分市まで2時間半車を走らせて通算5時間の運転。到着までに8時間を要したが、疲れは感じなかった。

目的の作品は山口正文「夷谷」。油彩・150号。

この絵は「東風を待つ―国見の画家三人展」に出展されていた一点である。それが、作者本人からのDM、会場の模様を伝えるインターネット画像などによって届けられた時、一人の画家が人生の大半の時間をかけて精進し、鍛錬し、思索の果てにたどり着いた画境を、私は瞬時に感受したのである。この感覚は、山深い村の神楽宿で、夜を徹して舞い続けられている夜神楽の一場面――土地神の降臨――の瞬間に出会った時の感動に似ていた。

――これは、実見するほかはない。

所詮、絵のことは絵を見る以外に「わかる」方法はないのであるが、作者の経歴や沿革、作品の生まれた背景などを記して理解の一助とすることはできる。あまり大袈裟な表現になると、謙虚な本人が迷惑するかもしれないので、以下はなるべく筆を抑えながら書くことにする。

大雑把な把握になるが、1980年代の中盤、山口さんは東京芸大・大学院卒という華々しい経歴を引っ提げて、国東半島の突端に近い国見町の実家に帰ってきた。そして各地で個展活動をした。私どもの空想の森美術館でも個展をしてもらった。その時、私は、たまたま見ていた美術情報誌で、ある作家の作品を見知っており、山口さんの作品がそれに類似していることに気づいた。それで、きわめて遠慮がちにではあるがそのことを指摘し、

「せっかく国東に帰ってきたのだし、国東半島には絵の主題とするべき素材は無限にあるのだから、それを汲み取り、そこから表現を生み出すべきではないか」

というようなことを述べた。本人はそのことは記憶にもないはずで、意識の外でのことだと思うが、その後、彼の画風は少しずつ変わっていった。一時は、国東半島に点在する民家や古寺の壁のような画面の作品を描いていた。それはそれで良い作品群だったが、当時、「壁派」と呼ばれるほどにその傾向の絵は普及していた。菊畑茂久馬「海道」シリーズを想起していただけばわかるだろう。それから私は空想の森美術館を閉館して宮崎に移り住み、20年という年月が過ぎたのである。そこに届いたのが、今回の山口さんの「夷谷」である。

――やったね、山口さん。

私の第一声はこれであった。よくここまでたどり着いたといえば月並みになる。これこそ本物の絵かきの立ち上がりの場面である。実作を見た私の感想はこれに尽きる。帰郷し、椎茸栽培などの仕事をしながら、模索し、黙々と描き続けたおよそ四半世紀の精進。そして生れ出た絵は、国東の風土そのものである。あらゆる絵画理論を学び、「抽象表現」を経てたどり着いた写実の極致。険しい岩場はかつて修験者・山伏たちが駆けた修行の道である。岩窟が見え、山の麓に小さく蹲るような民家が点在する。そして山の上部を午後の陽光が照らし、画面の下半分を占める山腹から山麓へかけては、すでに陽が翳り始めている。光と影の表す陰陽の綾は、国東半島の歴史と風土を象徴する時空である。そして、その画面は、一筆一筆、画家の優れた画技によってあらわされた「手の仕事」である。他の追随を許さぬ高度なテクニックが、抽象を超えた具象、あるいは具象の極致にある抽象というべき画面を生み出しているのである。私は、このような画家が、大分・国東という風土から立ち現れたことを心から喜び、賛嘆するものである。


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