WALKER’S 

歩く男の日日

9月8日 会津散歩(1)

2014-09-12 | 14年青春18きっぷ

 会津若松に来るのは4回目です。最初は高校の時の修学旅行で、このときは市内観光は飯盛山だけで、鶴ヶ城はバスの中からちらりと見ただけでした。2回目は12年前、新潟方面から磐越西線で来てそのまま通過、駅から外には出ませんでした。3回目は9年前、このときは駅の外には出たのですが、駅から鶴ヶ城に直行、本丸広場にある荒城の月の歌碑を撮影して、天守の中には入らずすぐにホテルに戻りました。北茨城の中郷サービスエリア(歌碑公園がある)と広野町と郡山東口に寄ってきた後だったのでそれだけの時間しかありませんでした。3回来てはいたものの、ほとんど何も見ていなかったし、何も知りませんでした。9年前には再びここに戻ってくることはないだろうと思っていました。
 八重の桜では本当に泣きました。6月から8月にかけて毎週のように泣いていました。幕末を描いた大河ドラマを何本も見ていながら、会津のことについては何も知りませんでした。知らないまま分かっていたような気になっていた自分が恥ずかしくなりました。もう一度戻らねば気が済まなくなって、ようやく今回の旅になりました。


 宇都宮を出て、9時40分に会津若松駅に到着しました。改札を抜けると先ずこの看板が目に入りました。最後の2行を見ると条件反射のようにうるうるしてしまいます。駅構内にはこれ以外には八重の桜に関するものは見あたりませんでした。放送が終わって半年以上にもなるから当然なのかもしれないけれど、何かしら拍子抜けのような感じがしないでもありません。


 会津若松駅から鶴ヶ城方面、南へ下るには3つの通りがあります。一番東にあるのが国道118号(中央通り、若松郵便局から南は神明通り)、その80m西を走るのが大町通り(南に下ると野口英世青春通りという名前も付いています)。最初はお城には行かないので、ぼくはさらに西の通りを歩きます。


 駅を出て200mも行かないところに今夜お世話になるふじみ旅館がありました。確認のためにこの道を来たのではなくて、最短の道にたまたま宿があったということです。


 ふじみ旅館から200mほど進むと、真新しい長屋が並んでいます。よく見る仮設住宅とは違うので、どうかと思ったのですが、やはり被災者のための仮設住宅のようです。
 駅から12分ほどで東西に走る国道252号の交差点です。この交差点を右折して市街地の西のはずれに向かいます。交差点のすぐ手前にホテル玉川があって、それを目印に歩いていたのですが、見事に消滅していました。交差点には七日町駅はこちらの矢印があったので何とかはずさずに済みました。


 交差点から150mほどで若松七日町郵便局を確認、たしかにこの道で間違いないようです。


 郵便局のすぐ先におもしろい建物がありました。


 現在はスポーツ用品店のようですが、塚原呉服店の文字がはっきり残っています。


 会津若松駅から21分で七日町駅に到着です。右折してからここまでの七日町通りは写真は撮りませんでしたが和菓子屋さんやカフェが何軒もあって街歩きの一つのスポットになっているようです。


 七日町駅前の踏切を渡って市街地を離れます。


 七日町駅から国道252号を北西へ900m、柳橋です。


 できたばかりの新しい解説板です。


 橋のたもと、こちら側にも向こう側にも柳の大木が植わっています。橋を渡ってさらに北西へ歩を進めて竹子さんに会いに行きます。


 柳橋から300m,JAあいづ神指支店の前を通過。


 さらに200m行くと会津自動車学校です。


 柳橋から650m、中野竹子殉節の碑→の標識が見えました。


 会津若松駅から3400m、ようやくここまでやってきました。


 この解説板は昭和57年に建てられました。


 石像は平成4年に作られました。


 写真ではよく分かりませんが、見上げるほどの立派な碑です。裏面には竹子さんの甥に当たる中野廣さんの墨跡で辞世が刻まれています。この碑が建立されたのは昭和13年、維新の戦いから70年後のことです。世代が二つ変わろうかという歳月を必要としたのは、現政権、天皇に対する遠慮、自己規制、あるいは見えぬ圧力があったのかもしれないけれど、これだけの歳月を経ても会津の人は忘れなかった、というより忘れてなるものかという、強い意志が世代を経ても受け継がれてきたに相違ありません。


 10時45分、柳橋に戻ってきました。七日町駅までは来た道を戻るしかありません。


 柳橋から700mほど戻ったところにある肉屋さんの中を覗くと、八重の桜のポスターが貼っています。いろいろ角度を変えて見るのですがガラスの反射で全くうまく映りません。諦めかけていた時にご主人が声をかけてくれました。中で撮ってくださいと促してくれました。


 福島は咲きつづける
周りにキャストが囲むものは、あと2種類あるようです。






 全種類集めたかったんだけどね、と明るく気のいいヤマゴ精肉本店のご主人です。
 ぼくは会津で一番知りたかったのは、地元の人があのドラマをどんな思いで見ていたのか、ということです。そういう機会は持てないだろうと思っていたのですが、ここでその一端を感じることができて、本当によかったと思いました。


 七日町駅前まで戻ってくると、ちょうどあかべぇが到着したところです。まちなか周遊バスは「ハイカラさん」と「あかべぇ」の2路線があって、それぞれ30分おきに発車しています。1回210円、1日券500円です。会津の大きな観光ポイントは3つあって、それぞれがかなり離れているので、歩くのが苦手な人は1日券を使うと無理なく回れます。
 会津若松駅=2400m=鶴ヶ城=2300m=会津武家屋敷=2300m=飯盛山=1900m=会津若松駅、といった間隔になっています。ぼくなどは待ち時間の間に歩けてしまうので全く必要とはしませんが。


 踏切から300m先の交差点を右折して南下、次の目的地に向かいます。七日町駅から1200m、しんくみのすぐ先にある交差点が一つのポイントでした。


 本町4丁目の南の端、県道59号の交差点、ここから東へ行くと鶴ヶ城ですが、ぼくはその前に行くところがあるのでそのまま南下します。帰ってから判ったのですが、この交差点から斜めに(南東に)突っ切っている道があって、それを行くと一番の近道だったのですが、この時点では場所は米代2丁目ということしか判っていなくて、西の端からローラーで探すしかなかったので真っ直ぐ南下するしかありません。


 市立第三中学です。この東側が目指す米代2丁目です。


 正門の横にあいづっこ宣言です。


 幟もあります。これは大河ドラマの影響なのでしょうか。


 県道211号に突き当たります。左折して100m行くと米代2丁目の南西の角です。


 米代2丁目の西側の部分をうろうろして会津中央自動車学校の前に出てきました。この前の道があの斜めの道でした。


 自動車学校から斜めの道を200mほど下ってくると、探していたものが突然飛び込んできました。大河ドラマに合わせて作られた新しい解説板のようです。


 解説板の手前は月極駐車場なのですが、八重の桜様っていったいだれが契約しているのでしょう。観光客のためにスペースを確保して解説板を見やすくするために会津若松市が料金を払っているのかもしれません。


 山本家の敷地は500坪あったといいますから、この空き地はその一部、間口も奥行きも倍以上あったと思われます。想像の翼を広げしばしたたずみます。


 山本家邸跡から東へ30m、一般家庭の門先に記念碑はありました。


 戦いの後、八重が詠んだ歌が刻まれています。


 この碑は25年も前に建立されていました。邸跡の解説板は数年前に建てられたはずですから、それ以前はこの記念碑を見ることができても、山本家が実際にあった場所は確認できなかったということになります。


 解説板の横に矢印があったのですが、これは昨年か一昨年に設置されたものでしょう。


 記念碑から東へ150m、国道118号(日光街道)に出てきました。まがり角に分かりやすい道しるべが立っています。お城の方から来ると迷わず山本家までたどり着けるようになっているようです。


 国道に出て150mほど北へ進むと西出丸とお堀が見えてきました。山本家から西出丸の入口まで600m、日新館の正門まで500mくらいです。


 先のまがり角から200mくらい手前にも矢印がありました。1年前には多くの大河ドラマファンがこの道を歩いたのでしょうね。


 矢印から100mほど先に鳥瞰図がありました。こういうのはどうしても見入ってしまいます。


 右下の交差点にある邸の一つ右上にある邸が山本家です。北出丸の北側には西郷(西田敏行)、萱野(柳沢慎吾)、田中(佐藤B作)の三つの家老邸も見えます。萱野の二つ左には山川(玉山鉄二、勝地涼、市川実日子、水原希子)の邸も見えます。


 国道をさらに100mほど北上すると日新館跡の石碑がありました。日新館跡といっても東西240m、南北120mの広大な敷地であったので、ここはその東の端ということになります。




 八重たん。


 左上にある天文台跡に向かいます。


 若松商業高校の北沿いの道を240m、右折して謹教小学校の東沿いの道を120m北上して天文台跡に到着しました。日新館の敷地の南側と西側は学校になって、藩校のあった敷地は普通の住宅や事業所が建っています。昭和になってから新しい日新館が再建されていますが、市街地から大部離れたところにあるので今回は残念ながら行くことはできません。


 ここには天文台の跡だけですが、場所は違っても全部を再建する、そのエネルギーというのは本当に特異であるし、それこそが会津なのだという感じもします。目の前にして直に感じてみたかったのですが、残しておくことはまたここに帰ってくる理由を残しておいたことでもあります。
 日新館の広さも確認して天文台も見たので次はいよいよ鶴ヶ城に向かいます。天文台から北へ140m、お城の北を走る大通りに出て右折、240m東へ行くと国道の交差点ですがその手前に思いがけない解説板がありました。


 今BSプレミアムの大河ドラマの再放送では伊達政宗が葦名氏を破って会津に入ったところですがそれはわずか1年、1589年から1590年。その後蒲生氏郷が入り、上杉景勝は1598年から1601年までこの地を治めたのでした。この解説板が設置されたのは「天地人」の放送が始まる直前だったようです。




 妻夫木くんの屋敷のあった同じ場所で山鹿素行が生まれていました。