尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』、イギリス発の感動作

2024年06月13日 23時26分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 火曜日に『トノバン』に続いて見たのが、イギリス映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』である。レイチェル・ジョイスの原作は、日本でも2014年本屋大賞翻訳小説部門第2位になったという。しかし一般的には原作も出演者も監督(ヘティ・マクドナルド)も、ほとんど知名度がないだろう。どこかの映画祭で賞を取ったというわけでもない。予告編を見て、キレイな場所だなあと思ったので見たかったのである。そして、これは今年一番の(かどうかまだ知らないが)感動映画だった。お涙頂戴じゃなく、美しい風景の中に「これが人生か」と思わせる。高齢者にも若者にも、是非見逃さないで欲しい映画だ。

 この映画は簡単に言えば、知人女性が末期ガンでホスピスにいると聞いて年寄りの男性が会いに行くという、ただそれだけの映画である。だけど、その距離が半端じゃない。イングランド南西部のデヴォン州から、イングランド東北部まで800㎞を歩いて会いに行くというのである。東京から(電車の距離で言えば)、西へ向かって広島県の福山あたりまで歩くのと同じ。ハロルド・フライジム・ブロートベント)は特に運動もしてない高齢者。しかも突然思い立って歩き始めたから、何の準備もしていない。
(地図)
 昔職場で同僚だったクウィーニーからホスピスにいると手紙が来る。返事を書いて、郵便局に行くと妻に言って家を出た。そして、そのまま突然歩いて会いに行ったのである。なんで? 人生で何もしなかったから、ここでやるんだという。それはいいとして、車や電車じゃダメなのか。お金の問題じゃなく、歩いて行くことに意味があるらしい。そうだとしても、一度家に帰って妻に説明したうえで、靴や服装などウォーキングに向く準備をするのが普通だろう。しかし、「普通」って何だ? そこにドラマがある。

 それにしてもイングランドの農村も都市も美しい。800㎞は嫌だけど、自分も少しハイキングしたくなる。もちろん疲れてしまう。でも助けてくれる人もいる。一緒に歩きたいという青年も現れる。写真を撮っていいかと聞かれて、写真を撮られたら、いつの間にか人気者になっていた。多分SNSに投稿され、そこからテレビや新聞にも取り上げられたということなんだろう。世界中どこも同じである。「巡礼者」(ピルグリム)と胸に書いたTシャツが作られ、皆で一緒に歩くようになってしまった。でも、それだと遅くなってしまう。もう一月以上歩いているのである。結局皆と別れて、また一人歩き続ける。
(巡礼者と評判になる)
 だけどクウィーニーって誰? 何で会いに行くの? 妻は自分が置き去りにされ、何が何だか判らない。妻との家庭は冷えていたようである。過去のシーンがインサートされ、辛い過去があることが次第に理解されていく。クイーニーに会いに行く理由も、やがて判明する。夫婦関係、親子関係、世界中皆同じような悩みを抱えている。そんなことは知っていたけど、改めて深く感じるところがある。
(妻と)
 ハロルド・フライを演じるジム・ブロートベント(1949~)は、『アイリス』(2001)で米アカデミー賞助演男優賞を受けた。戦後イギリスの女性作家アイリス・マードックの伝記映画で、作家の夫役だった。その他、ハリー・ポッターシリーズや『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のサッチャーの夫など、いろいろ活躍してきた。しかし、今回は「妻の夫」役ではなく、堂々たる主役をやってる。妻はペネロープ・ウィルトンという人で、「ダウントン・アビー」シリーズなど活躍して来たという。監督のへティ・マクドナルドは、主にテレビで『名探偵ポワロ』などを作ってきた。撮影のケイト・マッカラは、今年公開された『コット、はじまりの夏』も撮影している。どっちも風景を見事にとらえていて忘れがたい。
(原作・脚本のレイチェル・ジョイス)
 原作・脚本のレイチェル・ジョイスはテレビ、ラジオ、舞台で活躍してきた女優だったという。この映画の原作が作家デビューで、大きな評判になったという。その後、『ハロルド・フライを待ちながら クウィーニー・ヘネシーの愛の歌』と、妻モーリーンを主人公にした「Maureen Fry and the Angel of the North」(原題・未翻訳)という小説も書いているらしい。なるほど、ハロルド以外の人から見ると、また違っているだろう。とにかく最近出色のロードムーヴィーで、いろいろと人生について考えさせられる。面白くて感動的。
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映画『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』、♪あの素晴らしい愛をもう一度

2024年06月12日 22時36分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 (6月11日の)夜に落語に行く前に映画を2本見たのだが、これは今では「暴挙」だったかも。でもどちらも内容に満足できたから後悔はしてない。最初が『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』という映画。やってるのを知らない人もいるかも知れないけど、これぞ「待ってました」と声を掛けたいような映画だ。中に出て来る高橋幸宏坂本龍一はすでに亡くなっている。作るにはギリギリの時期だったのである。と言っても加藤和彦って誰だという人もいるだろう。

 2009年10月17日、加藤和彦が軽井沢のホテルで自ら命を絶ったというニュースの衝撃は今も忘れてない。62歳だった。僕はちょっと前の8月28日に(今は無き)新宿厚生年金ホールで開かれた「イムジン河コンサート」で加藤和彦を見たばかりだったのである。変幻自在に音楽活動を行った加藤和彦に一体何があったのだろうか? 

 しかし、この映画はそれを追求する映画ではない。デビューから80年代までの音楽活動を証言やアーカイブ映像で振り返る映画である。外国にはこのような音楽ドキュメンタリー映画が多いのに、日本には何故ないのかと常々思っていた。日本では社会問題や「障害者」に長年密着取材したような記録映画が多い。それも大切だけど、こういう音楽映画ももっと見たい。相原裕美監督。題名の「トノバン」は加藤和彦の愛称で、イギリスの歌手ドノヴァンから来たという。
(加藤和彦)
 加藤和彦(1947~2009)の名前を知ったのはいつだか覚えてない。でもフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』(1967)はよく覚えている。小学生だったけど、この奇想のコミックソングはレコード化されてよく売れた。日本初のミリオンセラー、つまり100万枚以上売れたという。ラジオでもいっぱい掛かった。小学生でも誰もが知ってたし、真似していた。

 その「フォークル」が、加藤和彦北山修(1946~)、はしだのりひこ(端田宣彦、1945~2017)の3人だと名前を覚えたのはいつなのか、今では思い出せないことである。一年限定でプロ活動をしたフォークルの、2枚目のシングルレコードが発売中止になった『イムジン河』、3枚目が『悲しくてやりきれない』、4枚目が『青年は荒野をめざす』。そして1968年10月17日にフォークル解散コンサートが行われた。(今気付いたけど、41年後の同じ日に加藤和彦の遺体が発見された。)
(フォーク・クルセダーズ)
 その後、多くの歌手に楽曲を提供しながら、自らも歌い続けた。その中で最大のヒットが1971年に北山修と歌った『あの素晴らしい愛をもう一度』だ。僕が中学教員になった80年代半ばには、生徒たちはこの歌を合唱コンクール用の歌と思っていた。普通に大ヒットした曲だったんだけど。そして1971年11月にサディスティック・ミカ・バンドを結成した。このバンドはイギリスで評価され、大きな反響を呼んだ。しかし、今までのようなシングルレコードのヒット曲と違って、内容的にも複雑で僕も今までよく知らなかった。バンド名の「ミカ」は加藤の妻だが、どういう人かよく知らない。存命だが映画には出て来ない。それなりの複雑な経過があることが示されるが、このミカ・バンドの時代の映像は凄く楽しいし、今見ても興味深い。
(サディスティック・ミカ・バンド)
 1975年にミカと破綻した後で、8歳年上の安井かずみ(1939~1994)と結婚した。70年代を代表する伝説的な作詞家である。小柳ルミ子の「わたしの城下町」や沢田研二の「危険なふたり」などの他、僕にとってはアグネス・チャンの「草原の輝き」や天地真理の「ちいさな恋」を作詞した人。竹内まりやの「不思議なピーチパイ」は二人が作詞、作曲している。二人による『ヨーロッパ三部作』は今映画で聞いても驚くほど魅力的だ。二人は時代を象徴するファッショナブルなカップルとして有名にもなった。加藤は美食家で自ら料理も作った。それらの様子は生き生きとして楽しい。

 だが安井かずみはガンに冒され、1994年に55歳で早世したのである。Wikipediaを見ると、1995年にはオペラ歌手の中丸三千繪と結婚した。そのことは覚えていなかったが、2000年に離婚している。中丸は存命だが映画には出て来ない。加藤はその後も様々な分野で活動していた。フォークルやサディスティック・ミカ・バンド(ミカじゃなく木村カエラだけど)を期間限定で再結成したり、スーパー歌舞伎も『ヤマトタケル』など何作も手掛けた。映画音楽でも『探偵物語』など何本も担当し、中でも井筒和幸『パッチギ!』(2005)は評判になった。この映画で「イムジン河」に再び脚光が当たったのである。2009年に開かれたコンサートでは、「イムジン河」はアジアの「イマジン」と言っていた。
(証言する北山修)
 多くの人が映画内で証言を寄せているが、中でも北山修は何度も出て来る。北山修は当初からのフォークルメンバーである。精神科医になるため学業に専念するのが、フォークル解散の理由でもあった。そして実際に日本を代表する精神科医となり、特にカウンセリング論の大家である。「あの素晴らしい愛をもう一度」の他、「」「戦争を知らない子供たち」「白い色は恋人の色」などの忘れられない歌詞も書いた。エッセイ『戦争を知らない子供たち』は時代を象徴するベストセラーになった。

 その後もつかず離れず、時には音楽活動を共にしてきた友人が「自死」したのである。精神科医としても、友人としても、痛恨という言葉では語りきれないだろう。幾つか追悼文を書いているが、加藤和彦を語る時に北山修を抜かすことはできない。だから何度も出て来るわけだが、それでも語り切れた感じはしない。人間の生と死は、そうそう簡単にまとめきれるものではない。僕も書いているうちに、何だか「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」、「広い荒野にぽつんといるようで 涙が知らずにあふれてくるのさ」と口ずさんで悲しくなってきた。

 ところでこの前書いた代島治彦監督の『ゲバルトの杜』、その前作『きみが死んだあとに』が扱う60年代後半から70年代初頭は、ちょうど加藤和彦のフォークル、サディスティック・ミカ・バンド時代と重なっている。どっちがA面で、どっちがB面かはともかく、その両面を合わせ見ないとあの時代を理解出来ない。新左翼運動が高揚した同じ時に、「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたというのは、日本の大衆文化の健全さを示すものじゃないだろうか。(なお、大島渚監督の怪作映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルの若き三人の姿が留められている。)
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『文枝と小朝の二人会』を聴くー文枝傘寿の老人噺

2024年06月11日 23時02分25秒 | 落語(講談・浪曲)
 上方落語の6代目桂文枝(1943~)は、昨年傘寿を迎えた。「傘寿」(さんじゅ)というのは、もちろん80歳のことだ。ええっ、もうそんなになるのか。この人は2012年に亡き師匠の文枝を襲名するまで、長い間(45年間)桂三枝として活躍していた。若い頃には東京のラジオで深夜放送をしていて、僕はそれを聞いていたのである。ということで、東京でも何回か記念公演があったけれど、去年は忙しかったので行けなかった。今回東京で春風亭小朝と二人会をやるというので、思わずチケットを買ってしまった。

 そうしたら、何だ上野の鈴本演芸場で10日間トリをとるというじゃないか。落語協会100年でいろんな企画がある中の一つである。それなら、夜じゃなくてそっちの方が良かったかな。今回は10日間鈴本でやったあと、連日夜にも公演をやるんだという。凄い80歳である。実は大昔(20~30年前)の三枝時代にも鈴本でトリを取ったことがあり、それを聴きに行った思い出がある。上方落語でも有名な師匠になると、東京でも結構聴ける機会はある。しかし、まあフラッと寄席に行ったら出てたということはないから、わざわざチケットを取る必要がある。だから文枝(三枝)も前に聞いたのはその一回切り。今回が二度目になる。
(桂文枝)
 高齢になると、「病人あるある」がマクラになる。今回も「病院はネタの宝庫」と言って始まったが、待合室はともかく診察室の会話は聞こえないだろうから、作った噺なんだろう。昔は威張っていた夫も高齢になると妻に引きずられて病院に連れて行かれる。まあ身につまされるテーマである。それに続いて88歳の米寿を迎えた男の噺になった。還暦の長男が一家を集めて今やホテルでパーティが開かれる。しかし、今や孫・ひ孫どころか子どもの名前もおぼろになっている。そしてパーティ直前にトイレに行くと行ったまま男性トイレにいない…。そこから爆笑、微苦笑の『誕生日』というネタ。文枝の老人落語道は注目。
(春風亭小朝)
 前座は鈴々舎美馬(れいれいしゃ・みーま)という二つ目昇進直後の女性落語家。「マッチングアプリ」という新作で笑わせる。次が文枝で休憩。後半は僕のごひいきの「のだゆき」さんの音楽パフォーマンス。初めての人も多いようで、受けていた。そして最後に春風亭小朝。ホントは文枝師匠がトリなんだけど、80歳を超えると夜8時以降仕事してはいけない決まりがあるなどとまず笑わせた。歌舞伎の話題などから入って、ネタは「中村仲蔵」。講談でもよくやられる江戸時代の歌舞伎役者中村仲蔵の人情噺。長い噺なので、ホール落語じゃないとなかなか聴けない。小朝はこういうサゲなのか。まあ安定した実力で安心して聴けるけど、席の関係で聞こえが悪かった。鈴本にも行こうかな。(中央会館=銀座ブロッサム)
*(鈴本演芸場で桂三枝がトリを取ったのは18年前だった。6.12追記)
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映画『ゲバルトの杜』、「内ゲバ」をいま振り返る意味

2024年06月10日 21時43分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 代島治彦(だいしま・はるひこ)監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ~』を見た。代島監督は『きみが死んだあとで』で60年代末の新左翼運動を取り上げた。その次に作ったのがこの作品で、題名を見れば判る人も多いと思うが、樋田毅彼は早稲田で死んだ』が扱った1972年の「川口君リンチ殺人事件」の映画である。これは「革マル派」の拠点校だった早稲田大学で、中核派活動家と疑われた学生・川口大三郎が学内でリンチされ死亡した事件である。事件経過や党派の説明は先の記事に譲り、映画を見て考えたことに絞りたい。

 ドキュメンタリー映画というと、対象人物(あるいは地域等)に長く密着取材して作られた映画が多い。今年の映画では『かづゑ的』(熊谷博子監督)や『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督)などが典型。しかし、代島監督の前作が扱った「山崎博昭君事件」もそうだが、もう半世紀以上も前の出来事である。探せば当時の映像もかなりあり、証言可能な関係者も多いのだが、昔の事件という根本的な問題がある。特に今回のテーマ「内ゲバ」(新左翼党派間の暴力)は、それを知らない世代にはなかなか通じないのではないか。そこで今回の映画では早稲田大学出身の鴻上尚史が演出した「再現ドラマ」が冒頭で出てくる。
(再現ドラマ)
 NHKの番組「チコチャンに叱られる」の「多分こうだったんじゃないか劇場」みたいなものである。いや、もちろん内容が内容だけにもっと大真面目に作られている。それは見ていて辛いものではあるが、若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)という超弩級の映画ほどではない。その映画は上映中に出て行ってしまう客が異様に多かったが、今回はそんな人はいなかった。(実際当時を生きていた自分にとっても、連合赤軍によるリンチ殺人事件の衝撃の方が大きかった。)

 当時の事件関係者は逮捕・起訴され有罪になっているし、監禁・リンチの実態もおおよそ判っているんだろう。そう思いつつも、この再現ドラマという手法には幾分かの違和感を覚えた。現在の若者に当時の状況を説明するために、池上彰氏が招かれて講義している。またオーディションの様子や「メイキング映像」も出て来て、盛りだくさんの134分である。(前作は200分とさらに長いが。)だが若い役者たちが何を感じたのか、この映画に出て何か変容があったのかは語られない。若者からの「当時と比べて何が変わったか」という質問に、池上氏は「教室の椅子や机が固定された」と答えている。しかし、本当にそれしか言わなかったのだろうか。『日本左翼史』シリーズではもっと触れていたと思う。深く考えるための「題材」を外した感もするのである。

 僕はこの映画は長すぎると思ったけど、多くの若い世代に見て欲しいとは思う。テーマからして、そんなに大ヒットする映画じゃないだろうが、樋田氏の本を読む人よりは、映画を見る人の方が多いだろう。それでは今「内ゲバ」を振り返る意味は何だろうか。僕は2つあると思っている。一つは「非暴力抵抗は可能か」という問題である。例えばウクライナに対して、ロシアとの全面戦争は犠牲が多くなりすぎるから、武装抵抗はするべきではないと主張する人もいる。そこから類推すると、もし中国が台湾に侵攻した場合も、台湾民衆は「非暴力抵抗」に徹するべきだと言う人も出て来ると思われる。それをどう考えたら良いのか?

 当時の早稲田大学では革マル派の暴力支配への反発が強まり、新しい自治会が結成された。しかし、大学は新自治会を公認せず、やがて革マル派は暴力的対抗策を取ってくる。他大学の革マル派勢力も動員して、新自治会派学生を狙い撃ちしたのである。それに対し、新自治会に結集した学生たちの中にも「武装」は避けられないと判断する人が多くなっていった。そして、他大学も巻き込む内ゲバの本格化の中で、非暴力抵抗は挫折するに至る。単に半世紀前の一大学のキャンパスで起きたことだが、現実の国際環境の中で本当に戦争が始まった場合も、「非暴力など夢のまた夢」となって軍拡競争になってしまうのだろうか。
(当時の運動)
 もう一つは「組織の恐ろしさ」である。こんな政治運動(左右を問わず)に参加しなければ、暴力事件を起こすことはない。そう思う人もいるだろうし、現実に多くの若者が政治から遠ざかってしまった。しかし、それでは済まなかった。企業の中にも、学校の中にも、「暴力の芽」はあった。思い込みによって組織が暴走するとき、「個人の良心」で抵抗できる人は少ない。「暴力」を単に政治党派間に問題に留めるのではなく、また「肉体的暴力」に限定するのではなく、人間が生きる時にどこでもぶつかる問題ととらえる必要がある。そう考えた時、この映画で本当に再現ドラマにすべきだったのは「教授会」の方ではないか。

 それは題材的に難しいのかもしれないが。それでも大学構内で起きた刑事事件なんだから、大学当局に責任がある。先に見た『正義の行方』(飯塚事件を扱った映画で、今もユーロスペースで上映中)に、一番肝心な裁判官や法務大臣(死刑執行を命じた)の証言が出て来ないように、この映画でも当時の革マル派関係者や大学関係者は出て来ない。まあ学生は二十歳前後だから存命だが、教授には存命の人がいないかもしれない。それにしても、当時は刑事裁判にはなったが、民事裁判にはならなかった。今ならほぼ確実に、遺族が大学当局の責任を問う裁判を超したのではないだろうか。あるいは革マル派に「組織責任」を問うこともあったかもしれない。多くの人もまだ「被害者支援」の大切さを実感していなかった時代だった。
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A・マンロー、R・コーマン、武田花、吉田ルイ子他ー2024年5月の訃報②

2024年06月09日 19時47分22秒 | 追悼
 2024年5月の訃報2回目。外国人の訃報から。カナダの作家アリス・マンローが5月13日没、93歳。2013年ノーベル文学賞受賞者である。短編小説のみ書いたことで知られるが、それは育児をしながら創作できるジャンルだったからである。カナダ東部のオンタリオ州に生まれ育ち、一地方に住む人々を描き続けた。特にエディンバラから移住した自らの一家のルーツを描いたことで知られる。日本では21世紀になってから、「新潮クレストブックス」で『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』と次々に翻訳され評判になった。クレストブックスはほとんど文庫化されないので、僕はアンソロジー収録作しか読んでない。人生の真実を一瞬の中に追求する鋭さに定評があった。
(アリス・マンロー)
 アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
 アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
 アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
 5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領アブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
 他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。

 写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
 フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
 元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
 元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
 大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
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唐十郎、中尾彬、小山内美江子他ー2024年5月の訃報①

2024年06月07日 22時29分53秒 | 追悼
 2024年5月の訃報特集。今回も芸能関係の訃報をまず書いて、その他及び外国人の訃報を2回目に書きたい。一番大きく取り上げられたのは、唐十郎だった。肩書きは劇作家、演出家、俳優、作家などである。5月4日没、84歳。1983年に47歳で亡くなった寺山修司と命日が同じだった。生年は寺山が5年ほど早いが、60年代末の「アングラ演劇」の旗手として当時から並び称せられる存在だった。1969年12月12日には、唐十郎主宰の「状況劇場」と寺山修司主宰の「天井桟敷」が役者どうしの乱闘事件を起こしてお互いに現行犯で逮捕された事件もあった。狂乱の60年代末期を文化面で象徴する一人だった。
(唐十郎)
 1867年に新宿の花園神社境内で紅テントを建てて公演を始めた。評判になったというが、その時点では僕は小学生なので全然知らない。天井桟敷もそうだが、街頭やテントで「演劇」と称して怪しげな見世物を行う連中と見られていただろう。しかし、1970年に『少女仮面』が岸田国士戯曲賞(劇作家の新人賞として有名)を受け、その頃から演劇的な評価も高くなっていった。70年代初めに『少女仮面』が角川文庫から出た時に読んだ記憶がある。詩的なセリフが飛び交い、読んだだけでも熱気が伝わるような戯曲だった。実際に見たのは大学時代だと思うが、実は紅テントはあまり見てなくて、佐藤信の黒テントの方が合っていた。
(若い頃)
 紅テントは何回か見てるけど、正直よく覚えていない。最後に見たのは2003年に高く評価された『泥人魚』。腰痛持ちなので、もうテント芝居は辛いなと痛感した記憶がある。作家では『佐川君からの手紙』で1983年に芥川賞を受けた。映画では1976年にATGで『任侠外伝・玄界灘』を監督した。正直どっちもあまり面白くなかった。僕は唐十郎とは相性が良くないのだが、状況劇場から多くの異才を輩出した功績は大きい。妻だった李麗仙(88年に離婚)、麿赤児四谷シモン根津甚八小林薫佐野史郎らである。つげ義春夫人の藤原マキもそう。大島渚監督『新宿泥棒日記』(1968)が当時の様子を伝えている。
(紅テント)
 俳優、タレントの中尾彬が5月16日に死去、81歳。元々武蔵野美大在学中に日活ニューフェイスに合格したが、絵を諦めきれず退社してフランスに留学した。その後も絵は描き続け認められている。帰国後、劇団民藝に所属(71年退団)しながら、映画にも出演した。中平康監督『月曜日のユカ』(1964)が実質的デビューで印象に残る存在感を発揮していた。『本陣殺人事件』(1975)では主役を務め、何人目かの金田一耕助を演じた。テレビドラマでは多くの大河ドラマや『暴れん坊将軍』(徳川宗春役)などで活躍した。晩年はヴァラエティ番組やCMが記憶に残る。池波志乃(10代目金原亭馬生の娘で、古今亭志ん生の孫)と「おしどり夫婦」の印象が強いが、実は再婚で前妻との間に子どもがいる。
(中尾彬)
 脚本家の小山内美江子が5月2日死去、94歳。当初は映画監督になりたかったが、女性では無理と言われスクリプター(記録)を務めた。長男(俳優、映画監督の利重剛)出産後、家でできる仕事として脚本を書き始めた。数多くのテレビドラマを執筆したが、特に1979年に始まり何シリーズも作られた『3年B組金八先生』が大きな評判を呼んだ。時の社会問題も取り入れ、教育界にも影響を与えた(と書かれることが多いが、「一人の教師の頑張りで学校を変えられる」と誤解させた面もあると思う。)他には朝ドラ『マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』、大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。晩年になっても国際的な教育支援活動を行い、カンボジアを中心に400を越える学校を建てた。カンボジアからは叙勲されている。
(小山内美江子)
 漫才師の今くるよが5月27日死去、76歳。高校時代にソフトボール部で一緒だった相方今いくよ(2015年に67歳で没)とコンビを組み、80年代に女性漫才コンビとして大活躍した。なかなか売れなかったが、80年代になって認められた。84年に上方漫才大賞、88年に花王名人大賞受賞。80年代の「漫才ブーム」を支えたコンビだが、「夫婦漫才」ではない女性どうしのコンビとして先駆的だった。大柄な体格に派手な衣装のくるよと、反対に痩せたいくよの容姿をネタにした掛け合いが爆笑を呼んだ。吉本の後輩女性芸人の面倒見が良かったと言われている。
(今くるよ)
 作曲家のキダタローが5月14日死去、94歳。全く知らなかったが、案外大きな訃報で驚いた。何でも「浪花のモーツァルト」と言われていたとか。今いくよ・くるよは東京のテレビにもいっぱい出ていたから知っているが、関西圏のテレビCMは全く知らないのである。まあ「バラエティ生活笑百科」や「プロポーズ大作戦」のテーマ曲と言われると、聞いたことはある。でも「かに道楽」や「日清出前一丁」のCMは関西人は誰でも知っているそうだが、東京では思い浮かばない。そういう地域性がある。
(キダタロー)
井川徳道、16日没、95歳。映画の美術監督で、東映映画の任侠映画の多数を担当した。テレビでも『暴れん坊将軍』『水戸黄門』などを担当している。加藤泰監督の『明治侠客伝 三代目襲名』『沓掛時次郎 遊侠一匹』『緋牡丹博徒 お竜参上』などの名作の美術担当である。他にも深作欣二監督の『仁義なき戦い 頂上作戦』『北陸代理戦争』『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などがある。日本映画アカデミー賞、毎日映画コンクールなど受賞多数。
増山江威子が20日死去、88歳。声優。『ルパン三世』の峰不二子役で知られた。60年代の『鉄腕アトム』から『アタックNo.1』『天才バカボン』など長年テレビアニメで活躍したほか、劇場アニメや洋画の吹き替えなどでも活躍した。
真島茂樹、22日没、77歳。ダンサー、振付師、大ヒットした『マツケンサンバII』の振付を行った人である。紅白歌合戦で美川憲一『さそり座の女』でも振付を担当した。
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「板倉鼎・須美子展」(千葉市美術館)を見る

2024年06月06日 21時34分19秒 | アート
 千葉市美術館で開催されている「板倉鼎・須美子展」を見に行った。(6月16日まで。)千葉市美術館は、京成線千葉中央駅が一番近いけれど、案外行きにくい。京成線は成田方面が幹線で、千葉市方面へは京成津田沼から普通電車に乗り換えるしかない。前に行ったこともあるが、一日つぶれてしまう。どうしようかなと思ったが、見る機会を逃したくない気がして出掛けてきた。
(チラシの絵は「休む赤衣の女」1929年頃)
 と言っても、「板倉鼎をご存じですか」という感じだろう。これは最近出た水谷嘉弘氏の本の題名である。そういう本が出るぐらいで、ほとんどの人はまだ名前も知らないのではないかと思う。僕もNHK「日曜美術館」をたまたま見ていて、なかなかいいじゃないかと初めて知ったのである。板倉鼎(いたくら・かなえ、1901~1929)は埼玉県に生まれたが、幼いときに千葉県松戸市に転居し、松戸の小学校、千葉の中学を経て、東京美術学校西洋画科を卒業した。

 1925年に文化学院在学中の昇須美子(1908~1934)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で結婚した。ロシア文学者として多くの翻訳を手がけていた昇曙夢(のぼり・しょむ)の娘で、周りからあの二人を会わせてみたいと声が挙ったらしい。24歳と17歳のカップルだった。翌1925年2月にパリを目指して旅立つが、その時珍しく太平洋航路でハワイに寄ってから、アメリカを横断してパリへ向かった。そして「エコール・ド・パリ」の一員として活躍したのである。
(板倉鼎・須美子夫妻)
 パリでは岡鹿之助らと画業に励み、美術展にも入選するようになった。また日本に送られて「帝展」にも出されている。それらパリ時代の作品は、今見ても鮮烈な色彩で驚くほど魅力的だ。独特の構図、赤を多用した色彩感覚など、当時の日本人の感覚を突き抜けている。日本では必ずしも高く評価されなかったというのも判る気がする。「日本的風土」を超越しているのである。
《雲と秋果》1927年
 展示されているほとんどの絵は撮影禁止だったが、一部に撮影可能な絵があった。ここで挙げる3枚の画像は、スマホで撮影したもの。非常に鮮烈な色彩感覚の静物画である。
《垣根の前の少女》1927年
 少女像は主にパリでは妻の須美子がモデルになっている。しかし、結婚前の学生時代などは妹の板倉弘子をモデルにしたものも多い。それらを見ると、何もパリへ行って突然ヨーロッパ風になったのではなく、日本時代から不思議な作風の風景画、人物画を書いていたことが判る。板倉弘子は兄の作品を守り通し、Wikipediaによると2021年に111歳で亡くなった。そして遺志によって松戸市や千葉県、千葉市に寄贈された。近年になって再評価されているのは、そういう事情があったのである。
《黒椅子による女》1928年
 パリでは二人の娘も生まれ、絵も順調に描いていたようだが、運命は突然暗転した。1929年9月に歯槽膿漏の治療から敗血症になって10日間の闘病で亡くなってしまった。当時は病弱な芸術家が多かった時代だが、板倉鼎は普段は病弱なタイプではない。それが彼の絵の明るさに表れている。世界恐慌も世界大戦も知らず、20年代のパリの記憶のみを留めているのである。
板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》1927-28年頃
 妻の板倉須美子は日本では「文学少女」であり、ピアノを弾けたが絵の訓練は受けていなかった。しかし、パリで夫から手ほどきされ、絵を描くようになった。主に描いたのは、パリへ行く途中で過ごしたホノルルの美しさだった。「ベル・ホノルル」という題で幾つもの作品を残している。それらは夢幻的に美しく魅惑的で、当時パリでは鼎より人気があったと言われている。
板倉須美子《ベル・ホノルル24》1928年頃
 しかし、夫の死以前に誕生直後の次女を亡くしていた。残された長女とともに帰国したが、長女も亡くなってしまう。実家に戻って、有島生馬について絵画を習い始めたが、今度は本人が結核に倒れ、1934年に亡くなった。わずか25歳だった。夫妻ともに早世したために、日本で評価される機会もなかったが、多くの作品の寄贈を受け、松戸市を中心に顕彰の動きが始まったところである。全く知らなかったが、とても魅力的。板倉須美子の絵もナイーヴアートかなと思うが忘れがたい。
(さや堂ホール)
 なお、千葉市美術館は1927年に建てられた旧川崎銀行千葉支店が基になっている。ネオ・ルネサンス様式の壮麗な建築だが、新しいビルで元の建物を覆う「さや堂」方式で残すことになった。1階には「さや堂ホール」として歴史的建造物が残されている。常設展では草月流に関わる作品が展示されていた。司馬遼太郎『街道をゆく』の挿画で有名な須田剋太(すだ・こくた)が描いた勅使河原蒼風の絵も展示されていた。須田剋太の絵をこんなに見たのは初めて。
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武力を行使すれば、「独立」が正当性を得るー「台湾有事」考④

2024年06月05日 21時56分52秒 |  〃  (国際問題)
 「台湾有事」問題は考えるべき問題が多く、延々と書くことがあるんだけど、そろそろ他の問題を書きたくなってきた。今回はリクツの問題に絞って、4回で一端打ち止めにしたい。さて、この問題をネットで調べてみると、「台湾の独立を承認している国」という言葉が出て来る。しかし、世界中で「台湾の独立を承認している国」は本当はゼロである。

 「中華民国」を承認している国なら、世界に12国程度存在する。それらの国は「中華人民共和国」は承認していない。中国全体の合法的政府として「中華民国」を選択しているのである。従って台湾独立を承認しているわけではない。だが「中華人民共和国」が建国75年を迎えるという段階で、「中華民国」を中国全体の支配者だとみなすのはいくら何でも無理筋だろう。

 台湾帰属問題は中華人民共和国側から見れば、「内戦の続き」になるんだろう。内戦が終わってないのだから、武力を行使してでも統一を目指すのは当然と思っているはずだ。もともと武力革命で政権を獲得した中国共産党には「唯銃主義軍事力優先思考」が強い。第一次世界大戦からロシア革命が起こったように、日中戦争が中国革命を成功させた。中国共産党は日本の侵略に果敢に戦ったことで民衆の支持を集めていった。「武力」こそが共産党の革命神話になってきた。

 昔から「台湾独立派」は存在する。その人々は本土と台湾島は歴史的経過から、別々の国家になるべきだと考える。台湾を支配した蒋介石の国民党にとっては、認められない思想だった。しかし、南部には独立派が多く、現在の与党である「民進党」もホンネは独立派だという見方もある。それは政権担当者としては公に言えないことで、口にしたら中国との関係が完全に破綻し、武力侵攻の引き金になりかねない。
(台湾独立派の集会)
 自由で民主的な社会だから、台湾で独立を主張することは出来るだろうが、公然と国論にすることは不可能である。僕は将来的には「中国の連邦化」などで解決するべき問題だと思う。異民族で慣習が違っているウィグル族チベット族とは違うのである。(ウィグル、チベットは独立国家を建設する権利があると考える。)そこが台湾問題が特別なところだが、この認識は絶対のものではない。「台湾が独立せざるを得ない状況」が生じれば、「台湾独立」が現実的な問題になるときもあり得る。

 それはいつかと言えば、中国が台湾に武力侵攻を行った時である。国連安保理の常任理事国である中華人民共和国が、国連憲章や国際人権規約に公然と反して、平和的に暮らしている民衆生活を破壊することは許されない。もっともアメリカのイラク戦争、ロシアのウクライナ侵攻など、常任理事国の無謀な軍事行動には多くの前例がある。しかし、ロシアのウクライナ侵攻はウクライナの民心を完全にロシアから離れさせてしまった。今後数百年にわたって禍根を残すに違いない。

 武力で統一したことで、結局は独立を承認せざるを得なかった実例が東チモールである。ポルトガルの植民地だった東チモールでは、1975年にポルトガルが撤退した後、インドネシアが武力で制圧し1976年にはインドネシアの一州として正式に併合した。国連安保理はインドネシアの撤退を決議したが、事実上「黙認」されてしまった。しかし、1998年にインドネシアのスハルト独裁政権が崩壊した後で、住民投票を行うこととなった。その結果に基づき、2002年に東チモールの独立が実現したのである。
 (独立を祝賀する東チモールの人々)
 この論理(というか「背理」と言うべきか)が中国政府に通じるとは思ってない。だが中国が台湾に非道な武力侵攻を行い、多くの人命、財産が失われたとするならば、中国は永遠に台湾民衆の人心を失うことになる。武力で「統一」を実現すれば、歴史上のいずれかの時点で「台湾独立」につながるのである。そういう事態が起きたら、もう「平和的統一」は二度と不可能である。その後、仮に中国が自由で民主的な政体に転換したとしても、台湾は中国に帰属したくないだろう。

 歴史的に同じ民族が複数の国家を樹立することは珍しくない。ドイツオーストリアはその一例である。インドパキスタンは宗教の違いで別々の国家となった。当初はパキスタンは東西に分かれていたが、やがて東パキスタンはバングラデシュとして独立した。歴史の道筋を間違えれば、中国は自ら台湾独立への道を開くことになる。中国はいまウクライナ情勢を注意深く見つめているだろう。個々の戦闘経過ではなく大局的な歴史的教訓を学び取るならば、台湾侵攻のような愚挙を実行しないはずだ。
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独立は支持しないが、台湾民衆の獲得した自由を支持するー「台湾有事」考③

2024年06月04日 22時22分25秒 |  〃  (国際問題)
 台湾問題に関する原則を確認しておきたい。今までにも折に触れ書いたことがあるが、何回も確認した方が良いだろう。基本的には「二つの中国」には反対し、「台湾独立」は認められない。これは日本政府の公式的な立場と同じである。理性的に判断して、これ以外の立場に立つことは不可能である。「台湾民衆が独立を望んだとしたら、それを尊重するべきではないか」。そういう考え方もあるというかも知れない。だが、中国(中華人民共和国)と「台湾」は同じ民族である。台湾には多くの先住少数民族が存在するが、大部分は漢民族である。国連の原則として認められている「民族自決」は台湾問題には適用できない

 もともと「台湾問題」の始まりは、日清戦争後の「下関条約」(1895年)で、大日本帝国が台湾(及び澎湖諸島)を植民地として獲得したことにある。1943年のカイロ宣言で連合国首脳は「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」という方針を表明した。1945年のポツダム宣言も同じ方針を踏襲し、日本は同宣言を受諾した。9月2日の降伏文書調印をもって、台湾及び澎湖諸島の統治権は「中華民国」に返還されたとみなすべきだ。

 しかし、台湾を支配した国民党は強権的な支配を行って、台湾民衆の反発を買った。1947年2月28日には、国民党当局と民衆の衝突が発生し、残虐な弾圧が繰り広げられた。(二・二八事件。ホウ・シャオシェン監督の映画『悲情城市』に描かれている。)一方、中国本土では国民党と共産党の内戦が激化し、次第に共産党が有利な情勢となった。1949年10月1日には中華人民共和国が建国を宣言し、中華民国の蒋介石総統らは12月に台湾に逃れ、台北を臨時首都とした。

 その後中華人民共和国では50年代の反右派闘争、60年代の文化大革命で大きな犠牲を出す。その意味では台湾の国民党も、本土を支配した共産党も、支配の正当性に問題があったとも言える。だが、その判定は中国民衆が行うべきことで、支配権を放棄した日本が口を挟むべきことではない。そして20世紀の終わり頃に、中国と台湾では大きな変化が起こった。台湾では「総統直選制」が実現し、民主的な政治改革に成功した。経済的にも発展し、「成熟した民主主義社会」を実現したのである。一方、中国では1989年の天安門事件以後政治改革が停滞し、それ以前にもまして抑圧的で非民主主義的な社会となった。

 21世紀になって、さらに台湾では様々な改革が行われた。2019年にはアジアで初の「同性婚」が法制化された。中国では同性愛が違法とされているわけではないが、近年では性的少数者のための人権活動は事実上不可能になっている。(そもそも自律的な人権擁護運動の余地がほとんどなく、「欧米的価値観」の流入として敵視される傾向が強い。)では中国が台湾に侵攻し制圧した場合、同性婚はどうなるのだろうか? それは「本土並み」になるということだろう。香港に適用されたはずの「一国二制度」は欺瞞でしかなかった。台湾でも同じようになるだろう。つまり台湾の人権水準は低下するのである。
 
 そのような事態は認めがたい。「同性婚」は一つの象徴的事例だが、言論・結社の自由が完全になくなってしまう。香港を見れば、それは明白だ。ところで不思議なことに、日本国内で「台湾有事は日本有事」(故安倍晋三元首相)などと台湾支持を打ち出し、中国には武力で対抗するようなことを言う人々は、同性婚反対の超保守派が多い。このような日台間の「ねじれ」が「台湾有事」には存在する。日本でも同性婚を法制化する(あるいは再審法を改正するなど)、台湾が獲得した人権水準を日本でも実現することこそ、まず「台湾有事」を考える時に最初にやるべきことではないのだろうか。
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「台湾侵攻」と日米安保、米軍基地への攻撃可能性ー「台湾有事」考②

2024年06月03日 22時13分46秒 |  〃  (国際問題)
 米軍筋からは「2027年台湾侵攻」の可能性が度々発信されている。それが確定的な情報だとは思ってないけれど、完全なガセネタとは決めつけられない。当然そこは「情報戦」の様相を呈して、今後も様々な情報が乱れ飛ぶと思うが、一応いずれかの時点で中国軍が台湾に侵攻すると仮定する。そうした場合、一体どうことになるんだろうか? 世界経済に与える影響など未確定の部分が多いけれど、取りあえずは侵攻作戦そのものは成功するのだろうか?

 もちろん予測不能な要因がいっぱいあるけれど、「台湾侵攻のシミュレーション」は幾種類もなされている。特にアメリカの「戦略国際問題研究所」(CSIS)というところが、2023年2月に報告書を発表しているそうだ。朝日新聞2023年3月26日付の記事(佐藤武嗣編集委員執筆)が簡潔に紹介しているので、記事を参照しながら考えてみたい。そのシナリオでは「2026年」に侵攻作戦が始まると想定されている。24通りもの戦闘シナリオがあるというが、「中国海軍が台湾を取り囲み電撃的に攻撃を開始して航空機や艦艇を壊滅させる」という風に始まるとされる。
(台湾有事シミュレーション)
 「台湾侵攻」は中国にとって大作戦なので、多くの艦船が台湾沖に集結するなど、ある程度事前に予想可能だと思われる。だが台湾や米軍が「先制攻撃」することは難しい。中国側に「自衛」の口実を与えるだけで、米側の大義名分を奪うからである。アメリカは1979年に「中華民国」の承認を取り消し、中華人民共和国を「唯一の政権」として承認した。その結果「米華相互防衛条約」が無効となったが、米国は「台湾関係法」を制定し台湾とのそれまでの取り決めは維持されるとしている。

 米国歴代政権は台湾に武器を援助してきたし、大統領選、議会選の結果にもよるが、現時点では民主、共和両党ともに対中国強硬派が多い。「台湾侵攻」に何のリアクションもしなければ、今後中国の行動に何も言えなくなってしまう。一方、中国軍は緒戦で制空権・制海権を握ったとしても、(ロシアとウクライナのように地続きではないので)、ぼうだいな占領軍を海上から送り込む必要がある。それは空爆やミサイル攻撃と違って一瞬で出来ることではない。その間に台湾各地で自衛的な市民の行動が湧き起こると思われる。その様子が全世界に発信され、同情的な世論が形成されるだろう。米軍はそれを見殺しに出来ないはずだ。
(CSISの机上演習における日米中の被害想定)
 そこで米軍が中国軍の補給線を断つとともに、台湾防衛軍を派遣することになる。この後に幾つかのヴァリエーションがあり得るが、台湾防衛のために米軍は日本の基地を発進、補給の基地として利用することになる。それに対して日本はどのように対処するのか? 多くのシナリオでは、「中国が台湾を制圧するのは、米軍が本格的に参戦した場合は極めて難しい」とされているようだ。しかし、「米軍が台湾を防衛するためには、日本の基地を全面的に利用することが必須になる」ともされる。

 日本とアメリカの間には「日米安全保障条約」があるわけだが、条約に「極東条項」がある。米軍は「日本国の安全」だけでなく「極東における国際の平和及び安全の維持」のためにも活動する。そして、米軍が日本領外での戦闘活動に基地を使用する場合には「事前協議」となる(はずである)。従って、日本は米中の対立に「中立」を表明して、米軍には日本領内の基地を使用させないという選択も理論的にはあり得る。だが政治的、国際的、社会的に、日本は米軍基地の使用を認めざるを得ないだろうし、むしろ積極的に米軍と協力して自衛隊の活動を活発化させる可能性が高い。(その是非は別として。)

 命運を賭けた大作戦を始めた中国は、米軍基地のインフラをそのままにしておけない。必ずそうなるということではないが、中国が米軍基地に攻撃を掛ける可能性は否定出来ない。台湾から近い沖縄に集結している米軍基地を一時的にも使用不能にすれば、軍事的にかなり有利になるだろう。米軍基地は条約に基づいて米国に使用を許可しているわけで、(治外法権区域ではあるが)米国領土ではない。米軍基地を攻撃すれば、それは日本への攻撃になる。それに基地には日本人労働者もいるし、誤爆もあるだろうから、日本国民にも被害が生じるだろう。そうなったときに日本の世論はどう反応するだろうか。
(日本国内の米軍基地)
 これこそ「日本が戦争に巻き込まれる」最も可能性の高いシナリオだと考えられる。これは安保条約について、反対運動の中で言われてきた「安保巻き込まれ論」そのものの事態だ。だが、昔はアメリカ(帝国主義)の無謀な戦争に日本が否応なく巻き込まれるという文脈で論じられていた。しかし、今後あり得る「台湾有事」では中国の軍事侵攻の方に無理があり、世界の多くの国は「台湾を救え」となるだろう。日本国内でも台湾支援論が盛り上がると思われる。その上で「中国の侵攻を失敗させ、日本の被害を最低限にする」ための自衛隊の活動も「許容」される可能性が高い。

 このように「日本が米国とともに台湾支援に本格的に乗り出す」ことが台湾侵攻作戦の成否を握っている。それが台湾有事シミュレーションの結論となる。だが昔の日中戦争を思い起こすまでもなく、ウクライナやガザの戦争を見れば、一度始めた戦争は終わらせるのが難しいことが理解できる。どこまでなら「許容」できる被害なのか、今の日本社会で冷静に議論できるだろうか? 一歩間違えば、シベリア出兵のように日本だけが延々と戦争を続けることにもなりかねない。そうなると、どうしても「台湾有事そのものを起こさせないためにはどうすれば良いか」と真剣に考え抜くことこそ今必要なことだろう。
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「2027年台湾侵攻」説は本当だろうか?ー「台湾有事」考①

2024年06月02日 21時52分53秒 |  〃  (国際問題)
 2024年5月20日に、「台湾」で頼清徳総統が就任した。この書き方にも本当は説明が必要だが、大方のマスコミはそう報じている。その就任演説が注目されていたが、中国との関係については「現状維持」を強調する一方で、「台湾は中国の一部だ」とする中国の主張を否定した。中国はその主張を「台湾独立派」として厳しく非難し、中国軍(中国共産党人民解放軍)は23日~24日に台湾を取り囲むように演習を実施した。画像のように軍を展開したのだから、まるでウクライナ侵攻直前のロシア軍が「演習」と称して国境に大軍を集結させたようなものだ。一体、中国(中華人民共和国)は本当に台湾を軍事侵攻するのだろうか。

 ここ数年、日本では「今は戦前」だという言葉が多く聞かれるようになった。今にも戦争に巻き込まれるかのようである。その現状をどう考えるかは別にして、厳しい現実が見られるのは事実だろう。だけど、「日本が戦争に関わる」というときのイメージは人様々。きちんと国際状況を理解していないと、今にも日本が攻められるみたいに思い込みやすい。日本はロシアとの間に「北方領土」問題を抱えているが、今のところ「武力で取り戻そう」などという議論をまともにしている人はいないだろう。

 問題は「台湾有事」に絞られる。「台湾有事」とは、中華人民共和国がまだ支配下に置いてない「台湾省」を武力で統一する事態である。(中国には国家の軍はないので、中国共産党人民解放軍が攻撃することになる。)台湾には「中華民国」という国家が、内戦に敗れた地方政府として存続している。台湾が中国の一部であることを、日本国は承認している。僕もそれは正しい方針だと考える。日本が台湾独立を支持することはあり得ない。しかし、中国が台湾を武力攻撃することも許されない
(来日したアキリーノ司令官)
 2024年4月に来日したアキリーノ米インド太平洋軍司令官は「(台湾侵攻を)習近平国家主席が軍に対し、2027年に実行するする準備を進めるよう指示している」と語った。アメリカ情報は、他にも「2027年侵攻準備指示」説に言及している。アキリーノ氏は退役して、後任にはパパロ海軍大将が就任する予定だと記事に出ている。従って、アキリーノ氏は実際に台湾侵攻が起きても、自分では対処しない。いわばキャリアの最後に、言うべきことを言い置くということなんだろうと思う。

 中国共産党の最高指導者、習近平総書記は2012年11月の共産党大会で選出され、2017年に再任された。そして異例なことに2022年11月に3期目の総書記に就任したわけである。従って、2027年に3期目の任期が終わる。習近平は1953年6月15日生まれだから、その時点で74歳を迎えている。バイデン、トランプ、モディを見れば、まだまだ年齢的に可能かもしれないが、健康に問題がなくても「異例の3期目に何をやったのか」ということになる。その最大の業績になりうるのは「未解放の台湾回収」しかない。

 「建国の父」毛沢東、「改革開放の父」鄧小平と並ぶためにも、何とか「台湾統一」を実行したいと思っているだろう。武力を行使するしかないとなれば、軍事侵攻も想定可能である。その事態は中国経済に大影響を及ぼすだろうが、「原則問題」だから譲ることは出来ない。もちろん世界各国の反対を押し切って、本気で軍事侵攻するのかは判らない。そして、それが果たして成功するのかどうかも難しい問題だ。だけど、何の準備もせず任期の終わりを待っているとは僕には思えない。侵攻可否は置いておいて、「準備指示」はあり得ると考える。必ず侵攻作戦を発動するということではない。だが「準備」は軍に指示している。

 そういう事態は大いにあり得ると思っていて、「絶対に侵攻など起こらない」と思い込むわけにはいかない。ウクライナでもガザでも、どんな予想でも事前に想定出来ないような悲劇が眼前で進行している。「台湾有事」だけは起こらないと希望を持てる状況ではない。そして、もし実際に台湾侵攻作戦が始まれば、日米安全保障条約に基づき必然的に日本も巻き込まれていく。ウクライナやガザはいくら悲劇であれ、日本からは「遠い戦争」である。しかし、台湾での戦争は日本にとって他人事ではない。

 ここでは「台湾有事」は起こりうる事態だという認識に立って、ではどのようなことが起きるか、我々はいかに対処するべきか、東アジアの平和を維持するために何か出来ることはあるのかということを数回にわたって考えてみたい。いつかきちんと書きたいと思っていた問題だが、今書くのは「天安門事件35年」ということもある。これは単に「戦争か平和か」というだけの問題ではない。むしろ「自由か独裁か」という問題でもあるし、「人権保障か抑圧社会か」という問題でもあると思っている。
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映画『碁盤斬り』、格調高い運命ドラマ、草彅剛が名演

2024年06月01日 21時58分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 『凶悪』『孤狼の血』などで知られる白石和彌監督の新作『碁盤斬り』は、最近の日本映画の中でも出色の出来だった。古典落語「柳田格之進」を基に話を発展させた白石監督初の時代劇。2時間を越えるが、常に緊張感が漂う画面が素晴らしい。草彅剛が演じる主人公柳田格之進に対し、敵役柴田兵庫斎藤工)が登場すると、人間を見つめるテーマ性がくっきりと浮かび上がってくる。このラスト近くの展開は落語にない部分らしい。脚本の加藤正人は自ら小説化(文春文庫)もしていて、貢献が大きい。

 柳田格之進はかつて彦根藩に仕えていたが、身に覚えのない罪を着せられ藩を追われた。妻も失い、今は江戸の裏長屋に娘お絹清原果耶)と暮らしている。その事情は後半になって明らかになるが、とにかく「冤罪被害者」でありながら卑屈にならず清廉潔白に生きている。碁が得意だが、碁を打つ時も真っ直ぐに碁を打つことを心がけ、賭け碁などはしない。草彅剛はこの主人公をまさに彷彿とさせる名演で、最初に見た時はその見事な生き方に敬愛の念を抱くだろう。同じように彼を敬愛したのが、質屋を営む萬屋源兵衛國村隼)だった。碁会所でふとしたことから知り合い、その高潔な碁風にひかれていったのである。
(格之進とお絹)
 裏長屋に浪人が娘とひっそり暮らすというのは、例えば2023年の『せかいのおきく』(阪本順治監督)と同じで、多くの時代劇に共通する定番設定だ。それなりの武士がそこまで落ちぶれるには、秘められた過去がある。そこは普通あまり突っ込んでは描かれないが、この映画では後半になってその部分に合ってくる。さて、格之進と源兵衛はよき碁友となり、月見の会に招かれることになる。この時萬屋で五十両が紛失するという事態が起き、格之進は部外者として疑いを掛けられる。武士に向かってあらぬ疑いを掛けるとは言語道断。同じ頃かつての冤罪の真相も判明し、父と娘は悲愴な決意をするのだが…。
(格之進と源兵衛)
 ところがこの辺りから、清廉な人格者と思っていた格之進の「もう一つの面」が見えてくる。あまりにも狷介(けんかい=頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと)で融通が効かない。もちろん支配階級である武士が「正しさ」を貫くのは当然ではあるが、柴田兵庫は後に格之進に向かって言う。「賄(まいない)は世の習い」で、収入の低い下級武士にはやむを得ぬ習慣だった。格之進がそれをいちいち取り上げて上訴したために、何人もの武士の妻子が苦しむことになったと。
(柴田兵庫)
 「柴田兵庫」という人物を創ったことで、運命ドラマは格段に深くなったと思う。ここではラストには触れないことにする。実はこの落語は名前を知ってはいたが、聞いたことがない。長い話なので、演目が公表されるホール落語じゃないと演じる機会が少ない。だから僕はラストは知らずに見たわけだが、知ってても同じように見入ったと思う。一応想定通りに落ち着くのだが、格之進はまだ腑に落ちなかったようだ。映画を見ていて「こういう人」は時々いるなあと僕は思った。格之進のように「正しい人」「義を貫ける人」である。間違ってはいないが周囲にあつれきを生むのである。どう対応すれば良いのだろう。
(白石和彌監督)
 白石和彌監督は2018、2019年など一年に3作品も監督していた。コロナ禍でペースが落ちたようだが、何だか久しぶりに見た気がする。初めての時代劇はどこにも破綻なく一気に見られる。当時の碁盤などは日本棋院が全面的に協力して古風を再現しているという。それも見事。碁を打つシーンが多いが、碁のルールを知らなくても見られる。それは和田誠監督『麻雀放浪記』(阿佐田徹也原作)と同様だ。(そう言えば、怪作『麻雀放浪記2020』の監督は白石和彌だった。)なんと言っても草彅剛が『ミッドナイトスワン』を越える名演だった。「狷介」ぶりを見事に演じていて見ごたえがある。
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