尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「〈アメリカ世〉の沖縄」を読むー「復帰50年」の前にあったこと

2022年05月13日 23時27分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 1972年5月15日沖縄の施政権が日本に返還されてから、今年で50年目となる。マスコミでの報道も多くなってきた。こういう「節目報道」には、それで良いのかという声が必ず出る。でも仕方ないんだと思っている。「5月15日」と言えば、今年は1932年5月15日に起きた「五・一五事件」から90年である。白昼堂々、時の首相が首相官邸で海軍の現役軍人に暗殺されたという異常なテロ事件である。その時から戦後になるまで、政党に所属する総理大臣は選ばれなかった。「政争政治の終焉」という大事件だったが、その時から90年、今やマスコミでの「節目報道」も全くなくなっている。

 今日のニュースで初めて気付いたのだが、沖縄返還の直前、1972年5月13日深夜に大阪で「千日デパート火災」が起こっていた。死者118人を出した日本のビル火災史上最大の惨事となった大事件で、当然その時点では僕もニュースで見て大変な火事が起きたと思っていたはずだ。しかし、この大火事については全く覚えていないのである。ウィキペディアを見ると、ものすごく長くて多くの情報が書かれている。火災原因や行政の対応など重大な問題を明らかにした大火事だったことが判る。

 一方で、「沖縄返還」はよく覚えている。1972年というのは、直前に書いた早乙女勝元さんの講演を聞いた年、つまり高校生だったわけだが、5月15日は休日になった。政府としては「国民こぞってお祝いする」べき日だったのである。何をしていたかは覚えていないので、多分家でノンビリしてしまったのだろう。前年国会で審議された「沖縄返還協定」をめぐっては、強い反対運動があった。東京でも大きなデモが何度も行われ、高校の同級生でもデモに出掛けた人がいた。そういう時代だったのである。

 節目だからというわけではないが、今回岩波新書の宮城修ドキュメント 〈アメリカ世〉の沖縄」を読んだ。今年3月に出た本で、まあ15日前に読んでブログに書くべきだろうと思ったのである。「アメリカ世」の「世」は「ゆー」と読む。1945年6月から、1972年5月までの「アメリカ統治時代」のことである。戦争に負けて占領されたまま、アメリカ軍による直接統治が行われたのである。その時代のことは、沖縄でも詳しく知らない世代が増えてきた。地方紙琉球新報では2017年に「沖縄戦後新聞」という企画を行い、この本はその企画をもとにまとめたものである。宮城修氏は当時の企画の中心となり、現在琉球新報の論説委員長を務めている。

 読んでみて、僕はまあ中身的には知っている話が多いが、必読本だなと思った。沖縄に継続的に関心を寄せてきた人でも、現代史の研究進展をきちんと追っているわけではないだろう。アメリカや日本の外交資料がずいぶん公開されてきて、アメリカ統治時代の米国内部の事情、あるいは沖縄返還をめぐる日米交渉は、いわゆる「密約」を含めて相当に解明されてきた。特に、琉球新報社から刊行された屋良朝苗瀬長亀次郎西銘順治の日記が有効に活用されている。戦後沖縄史を少しでも知っていれば、この3人の重要性は判るだろう。いずれも日記が刊行されていたことも知らなかった。読んでる人なんて、よほど専門的な研究者以外にはいないんじゃないだろうか。日本政府の最高責任者だった佐藤栄作首相の日記も刊行されているから、折に触れ活用されている。

 僕は自分の関心事でもあり、また仕事の必要上もあるから、日本現代史で焦点となる問題は大体何かしら本を読んでいる。戦後沖縄史に関しては、中野好夫・新崎盛暉沖縄戦後史」(岩波新書、1976)、新崎盛暉沖縄現代史」(岩波新書、1996、2005年に新版)などが一番身近でまとまった本だった。だから、そこで触れられている「島ぐるみ闘争」や「宮森小ジェット機墜落事故」は知っている。僕の生まれた年に起こった「由美子ちゃん事件」や「琉大事件」なども忘れがたい。しかし、今では沖縄でもずいぶん昔のことになった。当時の日本では大きな報道がなかったから、「本土」では全く知らない人もいるだろう。せめてこの本ぐらいは読んで、多くの人が戦後沖縄史をもう少し認識しておく必要がある。

 沖縄の人々は無理やり農地を収奪する米軍に抵抗を始め「島ぐるみ闘争」が起こった。これらの闘いや、宮森小の事故(なんと小学校に米軍ジェット機が墜落して多くの犠牲者が出たのである)を読めば、今もなお胸が熱くなる。涙を禁じられなくなる。そのような沖縄民衆の闘いを象徴するのが、瀬長亀次郎(1907~2001)の那覇市長当選である。その後、米軍はいかに卑劣に瀬長市長を圧迫したか。ついには市長の座を追われるに至るのだが、今もなお亀次郎の名は多くの人に記憶されている。近年記録映画が作られたので、知っている人もいるだろう。沖縄人民党を結成し、70年の国政復帰選挙で衆議院議員に当選し、7期務めた。復帰をめぐって佐藤内閣を追求した様子が議事録で紹介されている。
(瀬長亀次郎)
 しかし、瀬長亀次郎は「抵抗者」であって、現実の沖縄でもっとも重要な役割を果たしたのは、沖縄復帰当時の知事を務めた屋良朝苗(やら・ちょうびょう、1902~1997)である。戦前から沖縄や台湾で教員をしていたが、戦後沖縄の悲惨な教育環境を見て「沖縄教職員会」を結成し会長となった。管理職も含めた会で労働組合ではないが、多くの離島を抱えた沖縄では教員の社会的地位が高く、屋良への信頼は厚かった。1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、屋良が会長となった。そして、1968年の初めての琉球政府主席公選で、革新系から押されて出馬し当選した。
(屋良朝苗)
 屋良はもともと「穏健派」なのだが、ベトナム戦争が激化し核兵器や毒ガス、B52爆撃機などが配備された沖縄では、復帰運動は反米化して、屋良知事は板挟みにあうことが多かった。その苦労は日記を通して随所にうかがわれる。一方、政府側も声望の高い屋良知事を立てることで、復帰をスムーズに実現させたい。さまざまな策略を弄していたことも、外交記録から判明している。つまり、実現が難しいようなことを、ここまでは譲歩すると決めておくが、表面上は出来ないと突き放す。屋良知事が陳情することで、その声に何とか答えたというような演技をするわけである。政府側の策略を屋良知事が見抜けなかった場面もあることが判る。

 一方、戦後沖縄史で「保守」を代表するのが、西銘順治(にしめ・じゅんじ、1921~2001)である。主席公選で、屋良の対抗馬として自民党から出馬した人物である。衆議院議員を務め、1978年から90年まで復帰後3代目の知事を務めた。初の「保守知事」で、沖縄県立芸術大学開設や世界ウチナーンチュ大会開催を進めたことで知られる。現沖縄・北方対策相の西銘恒三郎は次男になる。戦後沖縄の保守政界を代表する人物で、どのような気持ちで政治に関わったか、日記で触れられているのは貴重だ。
(西銘順治)
 佐藤首相は1965年に日本の現職首相として初めて沖縄を訪問した。その時に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」は終わっていない」という有名なフレーズを発した。この言葉も事前によく練られていたものだった。その間、佐藤日記には「現在沖縄の祖国復帰ということを言っているが逆に言って日本本土が沖縄に復帰するということも言えるのではないか」などと書いていた。沖縄側は「平和憲法」のある日本に復帰したい。しかし、米軍が占領したままの沖縄から米軍が去れば、そこには明治憲法が「復活」し、そっちに「本土」が復帰すればいいんじゃないかという「妄言」である。現実にはあり得ない発想だが、そこまで日本国憲法は嫌いだったのである。

 戦後沖縄のあまりにもひどい人権状況を読めば、僕はいつもなんというか血のたぎるよ憤激、怒りを覚える。そのような怒りは「祖国復帰」という方向でまとまって、戦後沖縄の「正統思想」になった。しかし、それは「基本的人権」「国民主権」「平和主義」の原則に立つ「日本国憲法」の下に帰属したいということである。現実の復帰後の政治過程は、復帰に賭けた夢が裏切られてきた過程だった。その意味で「未完の復帰」だったということがよく理解出来る。

 ちょっと具体的な記述を紹介する余裕があまりなかったが、この本は「アメリカ世」に特化して詳述した本である。その前後の「沖縄戦」や「復帰後の50年」は、ほとんど出てこない。「沖縄戦」に関しては、また別の本が必要になる。それはともかく、この本は大学2年生に理解出来ることを目指して書かれたという。それは十分に果たされたと思う。判りやすくて、心に響く。是非多くの人が手に取って欲しい本だ。
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早乙女勝元さんを悼むー東京大空襲、定時制高校、下町の映画の話

2022年05月12日 22時53分12秒 | 追悼
 作家の早乙女勝元(さおとめ・かつもと)さんが5月10日に亡くなった。90歳。実は早乙女さんには一度お目に掛かって直接話を聞きたいと思ってきた。しかし、昔以上に活動力が落ちてしまって、ずっと先送りしているうちに、どうも体調が良くないらしいという話を聞いたままになっていた。聞きたい話というのは、東京大空襲や空襲から始まる平和への思いではない。また山田洋次監督を柴又に案内したことから、「男はつらいよ」シリーズの舞台に選ばれたという映画史上のエピソードでもない。
(早乙女勝元)
 一番聞きたかったのは、敗戦直後に入学した「都立七中夜間部」(後の「墨田川高校定時制課程」)時代のことを聞きたかったのである。そのことは、東京新聞に連載された「この道」(2017年)に書かれているけれど、もっと聞きたい気持ちがあった。というのも、この墨田川高校定時制は、自分が後に勤務した学校だからだ。「下町の夜間高校」は、60年前後に幾つもの映画に描かれている。またノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さんが都立墨田工業高校の定時制で教えていたのもその頃だ。早乙女さんの通学した時代はそれより10年も前になるが、是非もっと証言を聞いておきたかった。

 早乙女さんに話を聞くというのは、本人の健康問題が許せば全く不可能ではなかったはずだ。「東京大空襲・戦災資料センター」には行っているし、歴史関係の知り合いをたどれば連絡が付きそうだ。しかし、そんな面倒なことをしなくても、会えそうな場所があった。早乙女さんは実は僕の家から20分ほどのところに住んでいて、自宅の場所は知らないけれど、ちょっと前まで僕の最寄り駅直近にあった「エリカ」という「純喫茶」が早乙女さんの「アジト」だったのである。川上文子珈琲店エリカの半世紀」(草土文化、2017)という本に早乙女さんの文章が載っていて、自分でそう書いている。
(「珈琲店エリカの半世紀」)
 僕が早乙女さんの話を最初に聞いたのは、1972年の秋のことだ。高校2年生の時の文化祭である。その頃には忘れがたい思い出がいっぱいあるが、当時は生徒会役員の末席にいた。早乙女さんの名前も生徒会の中から出てきたと思う。「早乙女勝元」とは、前年(1971年)に岩波新書「東京大空襲-昭和20年3月10日の記録」が大ベストセラーになっていた作家である。早乙女さんとは連絡が付くようで、それはどうやら「党派的」なものだったようだが、僕は詳しくは知らない。

 僕の高校は「下町」のど真ん中にあって、空襲を語り継ぐことは大切なことだったから、学校側も企画を受け入れたのだと思う。開会式後の全校生向けの講演だが、話の中身は全く覚えてない。校長が「話は予想と違ったが」などと言ったのは覚えているから、多分昔のことだけでなく、現代のベトナム戦争や沖縄のことなどにつなげて語ったのかもしれない。話は面白くて好評だったと思う。ちなみに、僕の高校では生徒向けの講演会が時々あって、気象学者の根本順吉氏、仏教学者(禅宗)の秋月龍珉氏、サッカー選手・指導者で後にIOC委員となった岡野俊一郎氏などそうそうたる顔ぶれだった。内容は忘れたが名前と風貌は記残る残る。

 「東京大空襲」は歴史の中で非常に象徴的な位置を占める出来事だと今では認識されている。だが、空襲は全国各地にあって、それぞれ個別には語られていたが、「原爆」や「沖縄戦」と並ぶような「重大な歴史」だと認識されたのは、早乙女さんが書いた本の力が大きい。それが全国に波及して、空襲の記憶を語り継ぐ運動が大きくなった。そして、その中で「一晩に10万人が亡くなった」東京大空襲は、もっと国民的記憶にならなければならないという意識が広まり、東京都も証言や遺品を集めて、やがては公的な記念館が作られる運びとなった。それが暗転したのは、1999年に都知事に石原慎太郎が当選してからだ。結局、市民の力で2002年に「東京大空襲・戦災資料センター」を江東区に開館し、早乙女さんが館長に就任して2019年まで務めた。
(「東京大空襲・戦災資料センター」)
 その活動なくして空襲の記憶は国民に忘れられていたかもしれない。ただ、早乙女さんの本業は作家である。戦争と平和を考える絵本や児童文学がいっぱいある。ベトナムへ、アウシュビッツへ、そしてオランダにアンネ・フランクを訪ねた。「ベトナムのダーちゃん」シリーズを初め、話題になった本が多い。でも、そこまでは読んでないので、僕には評価出来ない。実写映画化されたものとしては、今井正監督の遺作となった「戦争と青春」がある。若い世代に大空襲を伝えるには最適の映画だろう。
(映画「戦争と青春」)
 しかし、若い時には瑞々しい青春小説がいっぱいあって、それらも当時映画になっている。1958年の「二人だけの橋」(丸山誠治監督)は「美しい橋」の映画化。その橋とは隅田川にかかる白鬚橋である。同じく1958年の「明日をつくる少女」(井上和男監督)は「ハモニカ工場」の映画化。桑野みゆきが魅力的で、東武線堀切駅付近が出ている。これは小津安二郎「東京物語」にも出ている駅である。1960年の「秘密」(家城己代治監督)は同名作品の映画化で、佐久間良子と江原真二郎の悲しい運命を描く。あれ、皆見ているな。初期の映画化はこの3本だけだと思う。
(「明日をつくる少女」)
 先に書いた「この道」を切り抜いておいたのだが、それを書き出すと長くなってしまう。2012年の東京大空襲・戦災資料センターの集会で、話を聞いたのが直接話を聞いた最後だと思う。長年、3月10日が近づくと、朝日新聞に投書し「声」欄に掲載されていた。それがならいとなっていたのだが、今では3・10と3・11が続くことになってしまった。こうしてみると、ずいぶん縁があったなと思って書いておく次第。
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「教員不足」の原因と対策-「常勤講師」を制度化したら?

2022年05月11日 22時43分49秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育問題に関して二つ書くと言ったが、「部活動の大転換」の次は「教員不足問題」である。新聞やテレビで数多く取り上げられている。朝日新聞(5月7日)には「新年度 公立で教員不足相次ぐ」「自習続き・教頭が授業…子どもの学習に影響」「長時間労働などで教職敬遠か」と大きく報じられている。この問題に関しては、5月10日朝日新聞にも「公立校の4割で教員不足」という調査結果が報道されている。もっとも大学教授によるインターネット調査なので、行政当局による悉皆調査ほどの正確性はないだろう。不足しているところほど回答すると考えられるので、実際はもう少し少ないと思う。それにしても、文科省も「特別免許」という制度を活用せよという通達を出しているぐらいで、やはり相当深刻な状況と考えられる。
(「特別免許」を活用せよと文科省は言うが)
 ただし、記事の書き方は「長時間労働が背景にある」などとちょっと紋切型。それもあると思うが、実際は複合的なさまざまな要因があるはずだ。その前に「教員不足」というと、どういう事態を想像するだろうか。「自習続き」とあるが、現場では多くの場合「負担増」で対応しているはずだ。教師一人当たりの授業の持ち時間数は決まっているが、クラス数は学校ごとに異なるから、教科ごとに端数が出る。それを非常勤講師などで対応するが、講師が見つからないときは、結局正教員がその分を分け持って基準以上に授業をする。それが一番多いんだろうと思う。少し講師の授業クラスがあっても、試験範囲を合わせるのが面倒だ。生徒理解のためにも、自分でやっちゃおうとなるわけである。

 なお、「教頭が授業」とあるが(東京は「副校長」などと呼んでいるから、これは東京じゃない)、昔は当然教頭は授業を持っていたものだ。初めから授業担当者数に入れられていたのである。(もちろん、担当時間は少ない。)ただし、それは何十年も前のことだから、今では知らない人ばかりかもしれない。僕の生徒時代はそうだったし、教員になった時点でもそうだった。担当教員が見つからないならば、教頭(副校長)も校長も昔は授業してたのだから、当然率先してどんどん授業するべきものだ。
(2021年度冒頭での「教員不足」の実態)
 「教員のなり手不足」と言っても、採用試験の倍率が1倍を切っているわけではない。正教員の採用予定数を満たせないということではない。だから、「学級担任がいない」なんていう事態が起こっているわけではない。正教員はいるけれど、非正規教員が足りないのである。そして非常勤講師は授業だけ担当し、授業が終われば帰れるんだから、「長時間労働」が敬遠されてなり手が見つからないわけではない。じゃあ、なんで足りないのか。学校としては非常勤講師の前に「産育休代替」「病休代替」を先に探さないといけない。正教員が産育休などに入る場合、「フルタイムで働ける非常勤職員」が必要になる。働ける条件を持っている人は、引く手あまただろう。講師をしていても、急に病休などが出れば、そっちが優先になるのではないか。

 そういう条件は昔から同様で、自分の生徒時代もあったし、自分が教員になったときもあった。講師が見つからないことは昔から時々あったが、今騒がれるような「4割の学校」なんてことはなかっただろう。では特に今この問題が大きく言われるようになったのは、何が理由だろうか。そもそも「正教員の数が抑制されてきた」という前提条件がある。小泉内閣の「三位一体改革」で「義務教育の教員給与の国庫負担」が「二分の一」から「三分の一」に削減された。それ以来、特に地方では財政不足から非正規教員が増加したと言われる。では、そのような非正規教員には誰がなるのだろうか

 ①教員を目指しながら、教員採用試験に合格していない若手
 ②定年または勧奨退職した高齢の教員経験者
 ③結婚、育児、家庭事情などで途中退職した教員経験者
 ④教員免許を取得したが、民間などに就職した「ペーパー・ティーチャー」

 ①はもともと少子化で若い世代の数が少ない上、コロナ禍前は民間の求人が好調だった。長時間労働が避けられたこともあるだろうが、待遇面で公務員は民間に及ばないのだから、希望者が減ってきたと考えられる。③④は今まで最後に頼る砦のようなものだったが、「教員免許更新制」なる愚策の実施によって、免許が少しすると無効化してしまい雇用できなくなってしまった。非常勤講師になるために免許を更新する人なんて、まずいないだろうから、頼みようがなくなってしまったわけである。それなのに、今まで「教員不足」が問題化しなかったのは、21世紀になって続いていた退職者の増加が終わったからではないか。

 ベビーブーム世代(団塊の世代)は1940年代後半に生まれている。その世代から10年ぐらい、つまり1950年代生まれころの世代はもともと数が多い上に、大学を卒業した70年代、80年代前半に教員の大量採用が続いた。高度成長で都市人口が急増し、また高校まで進学することが一般化した。クラスの生徒数も減ったし、第2次ベビーブーム世代が学校に通う時代がやって来ることが予想された。(なお、義務教育の生徒数の基準は、60人から50人、45人と漸減していって、1980年代から1クラス40人と定められた。)そして、今は2022年なんだから、もう1960年代生まれの教員が定年退職しつつあるのである。急に減っては困るから、校長などは「定年延長」、教員は「再任用」「再雇用」など出来るだけ現場に引き留めようとしている。

 教師としても、年金支給までなるべく働きたい。今の60歳は昔と違って、人にもよるけれど元気な人が多い。その退職教員を各校に配置することで、今までは「教員不足」が顕在化しなかったのではないか。この間、20世紀末の頃から学校が希望したわけではないのに、嘱託員(退職教員)が配置されることがかなりあった。そのため例年お願いしてきた非常勤講師を断らざるを得ないようなこともあった。しかし、60年代生まれの教員はそれ以前より少ない。退職教員の数が減ってきたことが、最近になって「教員不足」が大きなニュースになっている最大の要因ではないだろうか。
(「こころの病」による休職者の推移)
 学校現場では「精神的失調による休職」が再び増えている。もっともコロナ禍前の資料だが、より大変になってオンライン授業などを行うようになって、常識的に考えれば増加しているのではないか。それともあまりにも大変過ぎて、教員の方が倒れてはいけないとアドレナリンが出ていたような2年間だったのかもしれない。それなら、コロナ禍が一端落ち着いた段階で、「燃えつき」症候におちいる教員が激増する可能性があるだろう。(それは他のどの職種にも言えることだけど。)

 何か抜本的な対策がなければ、どんどん「教員不足」が続くに違いない。僕が前から考えているのは、「常勤講師」という制度である。非常勤講師という仕事は、大学もそうだけど、それだけで生計を立てるほどの収入にならない。さらに次年度以後の職が保証されていない。そんな仕事をしたい人がいるだろうか。しかし、必ず非正規教員の仕事は必要になる。もちろん、正規の教員をもっと増やせればいいわけだが、そうなっても授業数に半端な数は出て来るし、学年途中で病気になる教員も出てくる。それなら、必要が生じてから「非常勤講師」を探すのではなく、ある程度「いつでも各校に赴任出来る人」をプールしておくべきではないか。

 ちゃんと「正規の公務員」として、年金や保険は公費で負担する。その代わりに、給与はある程度減額される。授業は他の教員より多く持つけれど、学級担任、学校行事、校務分掌、部活動などにはタッチしない。従って、原則として勤務時間通りに下校出来る。場合によっては、2校、3校と授業することもある。65歳を定年とし、それまで職が保証される。早めに退職して、そっちに回りたいという高齢教員は結構いるのではないか。その分、退職金や給与の節約になる。一方で、若い層では教員採用試験不合格でも次年度以降正教員を目指す人は、希望すれば「常勤講師」に優先して雇用し、問題がなければ2年後から正教員に試験なしで採用とする。最初は面倒かもしれないが、結果的には何年かすれば、教員確保と同時に人件費節減にもなるのではないか。
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教育産業が部活を経営するときー「部活改革」を考える③

2022年05月09日 22時32分55秒 |  〃 (教育問題一般)
 「部活改革」に関しては、4月にもう一つ大きなニュースがあった。4月16日付朝日新聞スポーツ欄に出ていた「開かれる憧れの『全中』」「全国中学大会 来年度地域クラブ容認」という報道である。内容は見出しを読めば判るだろうから、特に詳しくは書かない。記事によれば、実現に際してはなかなか難しい問題も残っているようだが、基本的には実現するだろう。もっとも、すでに地域クラブがリーグ戦を行う仕組みを整えているサッカーでは、リーグ戦が大切でトーナメントは必要ないという。しかし、総合型地域スポーツクラブからは「画期的」という声があると載っている。

 中学で実現すれば、やがて学年進行で「高校はやらないのか」という動きも出て来るだろう。僕が前に書いたように、「高校野球大会」から「高校生野球大会」へと変わる日も遠からず訪れるのではないだろうか。ただし、Jリーグチームの下部組織が整備されているようなサッカーは例外だ。サッカーは五輪では「23歳以下」という制限があり、年代別のワールドカップが行われる。それに対し、野球駅伝のように「高校」「大学」の競技として定着している競技も多い。だけど、高校野球のように、私立強豪校ばかりが全国から有力選手を集めて、地元出身選手がほとんどいないのに地域代表として出場するというのはどうなのか。

 ①②で書いたように、少子化がさらに進行していく中で、教員の長時間労働問題も解消しつつ「部活動」を行っていくためには「地域移行」が避けられない。しかし、…と多くの教員は思っているに違いない。それは果たして本当に実現するのか。一体地域で活動する人を集められるのか。学校との連絡は十分に出来るのか。土日に行われることが多かった試合はどのように運営されるのか。地域で活動する指導者の研修はどのように行うのか。昔風の高齢指導者では、昔ながらの暴言や体罰が出かねない。一方、卒業生の大学生などに頼んだら、指導力に問題があったりSNSにどんどん生徒の画像を投稿したり…、いろんな心配がある。

 じゃあ、どうすれば良いのだろうか。結局のところは、「教育産業」が「教育行政」と協力しながら、新しい部活動のあり方を模索していくということになるだろうと思う。要するに、今までは部活も学校の諸活動の一部として、学校予算から必要な用具を整備し、教員の引率費を支出していたわけである。それを地域に移行するというのは、新しい枠組を作ってそこに公費をつぎ込むということである。つまり部活動が「教育産業」になってくるのである。
(教育産業と部活動のイメージ)
 部活動とは、放課後や土日に中学生、高校生を集めて行うものである。それはつまり、「」や「予備校」と同じではないか。塾や予備校といえば、高校受験、大学受験に向けて勉強を指導する場所と思っている。だが、甲子園出場を目指して野球を指導する「野球塾」があってもいいではないか。それならば、教員の長時間労働問題は解消されることになる。生徒は学校が終わって塾へ行くように、学校が終わって「部活塾」に行くわけである。

 もっとも今「塾」と書いたけれど、現実の塾産業がそのまま地域の部活動に参入すると考えているわけではない。もちろん塾や予備校は少子化の中で、企業としての将来を模索しているだろう。今まで養ってきた教育界への影響力や企画力は非常に大きいものがある。だけど、スポーツや文化活動を実施する場所や人材はなかなか塾や予備校だけでは整備できない。スポーツ系では地域のスポーツクラブ、文化系では専門学校との協力が欠かせない。教育行政と関わりがあり、学校現場とのつながりも深い「教育産業」がネットワークの中心となって、行政や地域との関係を作る。そうするしかないんだし、そこにビジネスの可能性があるんだから、もういろいろな試みが検討されているだろう。
(気仙沼市の取り組み)
 それでは学校現場から部活動はなくなってしまうのか。今まで部活をガンガンやってきた教員はどうすれば良いのか。後者に関していえば、副業規定を柔軟にして、やりたい教員は部活指導員の資格を取って続けることが考えられる。地域でも土日の活動を担当する人には、平日は他の仕事をしている人が兼務することもあるだろうから、教員も同じ手続きでやれば良い。現場の一教員というよりも、全国大会運営の経験豊富なベテラン教師の場合なら、むしろ教育産業の方で三顧の礼をもって迎えるのではないか。部活に関するノーハウは企業が欲しいだろう。

 前者に関しては、今後も部活動は学校にあるだろうが、あり方は大きく変えるしかない。そもそも80年代頃の「荒れる学校」対策として、課外活動なのに全員参加のような理不尽なルールを作った学校があったことがおかしい。何も地域に移行した部活動に全生徒が参加する必要はない。生徒の本分は学業なんだから、勉強でつまずいている生徒が部活で偉そうにしている方がおかしかった。地域の部活動には、参加のためのセレクションを行うべきだ。

 学校では教員が担当できる範囲で、教員と生徒が一緒に出来る活動をやれば良い。そのためには「勉強系部活」を振興するべきだと思う。英語部、パソコン部(プログラミング部)などは生徒の希望も多いだろうし、国際交流部、環境活動部(SDGs部)、歴史研究部(郷土部)、漢字検定部など、いくらでも生徒も希望し、教員も担当できる部活動が考えられる。週3回程度、5時までの活動で成果も上がるはずだ。
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部活動「地域移行」論、少子化の中で学校を残すためにー「部活改革」を考える②

2022年05月08日 22時57分11秒 |  〃 (教育問題一般)
 4月26日に、スポーツ庁が有識者の「運動部活動の地域移行に関する検討会議」を開き、改革の提言案をまとめた。2023~25年度の3年間の「改革集中期間」で、すべての都道府県で休日部活動の地域移行を達成するという。将来に向けて平日の活動の移行も奨励されている。現時点では「提言案」だけど、これは非常に重要な論点である。朝日新聞はスポーツ面で「部活のあり方 歴史的転換」と報じた。このようにマスコミ報道もされたが、教育関係者の中にも気付いていない人がいるのではないか。(なお、この提言案は「スポーツ庁」と打ち込むだけで検索予測に出て来る。関心のある人は是非見ておくべきものだろう。)
(改革案)
 今部活動改革は「教員の働き方改革」の問題として語られることが多い。もちろん「教員の長時間労働の解消」は、重大な問題だ。しかし、ここではちょっと違った観点から、この問題を考えてみたい。それは「少子化」の中で、どのようにして学校を残していくかという問題である。「学校」や「部活動」は子どもたちの教育というだけの問題ではない。地域住民の「心の拠り所」でもあるし、経済的な視点も重要だ。学校の近くに文房具屋や本屋が残っているところも多いだろう。

 また地方で高校が閉校になれば、鉄道やバス路線の廃線問題に直結する。また日本には世界屈指の楽器やスポーツ器具のメーカーが存在するが、子どもの世界から野球部や吹奏楽部がなくなってしまえば、それらの企業にも大打撃になるだろう。またコロナ禍で判ったように、学校は「給食」を通して、地域の農業や食品産業と密接に結びついている。日本は少子化がどんどん進行していて、今までもずいぶん学校の統廃合が進められてきたし、今後も減ることは避けられない。しかし、どこまで学校を減らすのか、社会的な合意が必要だと思う。そこで、まず「少子化」のデータ的な確認をしておきたい。
(出生数の経年変化)
 戦後の日本では、まず「ベビーブーム」が起こった。一番多かったのが1948年で、年間に209万人が生まれた。次第に漸減していくが、70年代前半に「第2次ベビーブーム」がやってくる。第1次で生まれた子どもが結婚適齢期を迎えて、子どもが生まれたわけである。それが一番多かったのは1973年で、やはり209万人が生まれている。その前年の、ちょうど50年前の1972年は203万人である。(当時は女性の結婚が今よりずっと早く、第1次の25年後に第2次の最多年があったわけである。)僕が最初に教員になったときは、その時代に生まれた生徒が中学生になる頃で、その当時の高校進学は非常に大変だった。

 それからまた漸減していって、30年前の1992年は122万人と何と4割も減ってしまう。減り方のペースは多少緩やかになるが、やはり少しずつ減っていき、21世紀初頭の2002年は115万人である。2022年に20歳になる世代で、現在の中学、高校生が生まれた2007年前後は大体106万人ほどだった。10年前の2012年、つまり東日本大震災の翌年生まれの子どもは103万人強、2015年に100万人。2016年についに97万人と100万人を割り込む。2019年は86万人、20年は84万人、21年速報値も84万人になっている。これはコロナ禍で出会いの機会も減り、結婚も減ったという理由が大きいと言われている。

 コロナ禍がいつどのように終結するか予測出来ないが、そこでミニ・ベビーブームがあるとは考えにくい。よく「一人の女性が一生で何人の子を産むか」という率(合計特殊出生率)が問題になるが、もはや少子化対策などでどうなるという段階は過ぎている。今から30年前に産まれた世代そのものが少ないんだから、その世代が少しぐらい子どもをたくさん産んだからといって、すぐに日本の人口が増加するレベルにはならない。そして2020年代後半から、コロナ禍世代が小学校に入学して、2030年代に中学、高校へと進学していく。つまり、今でもずいぶん少子化なんだけど、10年後にはさらに今の学校から20万人が減るのである。

 今からさらに2割生徒数が減るんだから、今のクラス数で単純計算すれば学校も教師も2割減らす必要がある。僕が考えるのは、それで良いのだろうかということだ。もちろん学校規模が小さくなりすぎれば、教育環境が悪くなる。地域の学校を統合して多数の生徒を集めることで、行事や部活動を維持するのも一つのやり方だ。通学バスが各地区を回って生徒を乗せてきて、ある程度大きな規模の学校で教育するのである。しかし、僕はこれ以上学校を減らすべきではないと考えている。何故なら、学校は地域の防災拠点であり、いざという時の避難所だからだ。学校は地域の中でちょっと高い土地、水害、津波、土砂崩れなどの災害被害を受けにくい地区にある耐震建築の高層ビルだ。せっかく耐震化したのに、それを廃校にしてしまうのか。

 もちろん廃校にしても建物は残るが、使ってないとどんどん劣化する。不審者が集まらないようにカギを掛ける必要があり、数年もすれば地区の誰がカギを持っているか不明になりかねない。それに学校は教師というソフトパワーあってこそ、地域の中で意味を持つと思う。体育館もあれば、パソコンも整備されている。給食設備はなくなった学校が多いと思うが、家庭科調理室は必ずあるから、電気やガスが復旧すればお湯を沸かしてレトルト食品や即席麺を温かく食べられる。そんな素晴らしい防災拠点をいま減らしてしまうのは、国家的愚策としか思えない。

 もちろん「教育」という観点で見れば、せめて2クラスか3クラスは欲しいだろう。あまりに小規模になれば、行事も活発に出来ない。部活動も小規模にせざるを得ない。教師の問題もあるが、単に生徒数の問題で野球部、サッカー部、バレーボール部などで試合に出る人数にならない。日本中にある団体競技を小規模校の生徒が出来ないのは、確かに可哀想だ。だから、僕の考える部活動の「地域移行」というのは、単に土日だけ地域の経験者がボランティアで指導するというようなものではない。幾つかの学校の生徒をまとめた「地域チーム」を作るということである。

 地域の中で「学校」を残すとするならば、部活は地域合同にするしかない。これが僕の考えで、恐らくそうなっていくのではないかと思う。そして単に部活動だけではなく、運動会や文化祭も「各校合同」で開催すれば良いと思う。どの地域にも素晴らしい運動場や市民会館などがあるはずだ。学校は小規模でも残して「少人数授業」を行い、行事は地域の素晴らしい施設を利用して行う。もはや一校では呼べないオーケストラや劇団なども、地域でまとめれば鑑賞会が出来るだろう。そして修学旅行なども、各校まとまって幾つかのコースを班別で選んで実施する時代になるのではないか。
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部活動とアンペイド・ワークー「部活改革」を考える①

2022年05月07日 22時57分46秒 |  〃 (教育問題一般)
 最近めっきり教育問題を書かなくなっている。もう現場を離れて長くなったし、特にコロナ禍の教育事情はよく判らない。大変なんだろうなあと傍から想像するだけである。そんな中でも、時事的に考えることはあるので、二つのテーマに関して書いてみたい。一つは「部活動改革」で、いままさに大きく動き出そうとしている。マスコミでも紹介されることが増えてきて、この前は「4時半で全員下校」という取り組みを進めている地域が紹介されていた。検索すると「部活動改革」のケースがいろいろと出て来る。
(スポーツ庁の取り組み)
 その中身も重要なんだけど、その前に最近になって気付いた問題を最初に考えてみたい。5月のゴールデンウィークが終わったところだが、学校の正教員に採用された年からゴールデンウィークがなくなった。僕は1980年にフレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)の韓国キャンプに参加した。その後で関東でもやってると教えられ、1981、82年の2年間のゴールデンウィークは群馬県渋川市に泊まりがけで出掛けた。83年も行こうかなと思っていたら、就職とともに祝日は部活の試合引率になって行けなくなったのである。

 職場では一番下っ端だから、○部の副顧問だと言われて、5月3日、5日は試合だから引率だということになった。部活引率手当もなく、もちろん代休もなかったが、そのことの法的な説明もなかった。ただそういう現場だったわけで、今から考えてみれば、これでは確かに「ブラック企業」と言うしかない。何の報酬もなく、事実上強制されるわけだから、「アンペイド・ワーク」(unpaid work)だったわけである。しかし、そのような概念は知らなかったし、僕にも最初は「ただ言われるままに動く」以外の働き方は出来なかったわけである。それは何故だったのだろうか。

 幾つか理由があるが、そもそもどんな仕事でも内部から改革するのは難しい。理由があってそうなっているので、新米教員がすぐに改善は出来ない。勉強は嫌いでも部活なら出て来る生徒も多い。教員の中にも「部活イノチ」みたいな人が結構いる。一生懸命やっている生徒や同僚に対して、おかしいとはなかなか言いにくい。それに実は当時はあまり「アンペイド」という意識が薄かった。学校だけではなく民間も含めて、その頃は「ユルい職場慣行」がいっぱいあったからだ。(例えば、学校行事の後では管理職が率先して校内で豪快な飲み会をやっていた。今なら処分ものだ。)早く帰れる日もあって相殺された感じだったのだ。

 もう一つ、学校には「アンペイドな領域」が必要だとも思っていたのである。あらゆる仕事には「共同体」的な部分があって、特に学校のような人と人が関わる仕事、「教育」という領域には、単に「契約で結ばれた労働」だけでは収まりきらない部分がある。水田農耕の共同体では、一年に一度村人が集まって水路を掃除するといった仕事が必要だ。同じように、日本の学校には宿泊行事や生徒会活動、掃除など、それも「広義の勉強」だけど、教科書のないような狭間の領域がある。部活動は中でも生徒にとって非常に大きい。そういう狭間の領域は「アンペイド」になりやすい。

 「バブル崩壊」期頃から、公務員バッシングが横行するようになり、「慣行」はどんどん法規に則ったギチギチの運用に変えられていった。しかし、法律で規定されていない「ブラック」な部分はそのままだから、負担感が半端なくなったのも当然だ。もう戻ってこない昔を懐かしんでも仕方ない。教師の半分以上はもう「昔」を知らないんだし、これからは新しいやり方を作らなければと思いつつ、僕はなかなか「学校の中のアンペイドワーク」という問題意識は持たなかった。その一番の理由は、学校の共同体的な部分をなくしてしまって良いのかと思っていたからだ。
(アンペイド・ワークの内容)
 「アンペイドワーク」という概念はフェミニズムの中で登場した。資本主義社会で「賃金」として評価されない「労働」がある。最近「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(カトリーン・マルサル著、河出書房新社)という本が刊行されたが、まさにそういうことである。資本主義を理論化したようなアダム・スミスにも、見えてない問題があったのである。そもそも「労働」と呼ぶときには、第2次、第3次産業で雇われて働き、労働の対価として「賃金」を受け取るというイメージが強かった。「社会主義の祖国」ソ連邦の国旗は「槌と鎌」で、それは「労働者と農民の連帯」だと言われたが、では「農民」は「労働者」ではないのだろうか。

 我々の生命としての持続を支える仕事、つまり「家事」や「育児」は、多くの場合は「家庭」の中で行われる。そして、その担い手が誰であっても(多くは「妻」、場合によっては「夫」や「親」など)、大体は賃金は支払われない。(富裕層では、家事や育児を金銭で「外部化」する場合もある。)そして、企業の定年退職後も「長い老後」が存在するようになると、「介護」という問題が発生した。それらが実は世の中を支えている「隠れた仕事」(シャドウ・ワーク)であり、「支払われない仕事」(アンペイド・ワーク)だという「発見」が、フェミニズムの発想の中で見えてきたわけである。
 
 今の事例で判るように「アンペイド・ワーク」は大体が「家庭」の中で発生している。話を部活動に戻すと、労働契約に基づかない部活動は「家族関係」なのだろうか。そういうことになってくる。そうか、とそこで思ったわけである。まるで部員を家族扱いしている顧問が多かった理由がわかった気がしたのである。よく女子スポーツの部活では、顧問が部員を名前で呼びつけている。ミスを注意するときなども、「マユミ、何してるんだ」とか「ユカ、そんなんでどうする」とかである。そうか、これは「家族意識」だったのかと初めて気付いた気がした。

 部活動で体罰や行き過ぎた勝利至上主義が起きるのも、アンペイド・ワークがもたらす家族意識が間違った方向に行き着くことから来るのではないか。やはり、学校の労働はきちんと労働法に合致し、ワークとペイが正当に対応するようなものでないと、歪んだ部分が出て来るのではないか。段々そう思うようになってきたわけである。では、どのように変わってゆくべきなのかは次回に。
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藤子不二雄Ⓐ、柳生博、山本圭、ジャック・ペラン他ー2022年4月の訃報

2022年05月06日 22時27分32秒 | 追悼
 2022年4月の訃報のまとめ。僕にとって、見田宗介先生の訃報がすべてだった。東京新聞に掲載された上田紀行氏(文化人類学者、東京工業大教授)の追悼文から。「現代を耕しながら、種をまき続けてきた見田宗介氏。あなたがいなければ今の自分はなかった…、どれだけ多くの人たちがいまそう感じていることだろう。その希望の種は著作で、そしてその強烈な個性に触れた人たちの中で、これからも成長し続けるだろう。託されたバトンを強く意識しながら、心からの感謝を送りたい。」

 一番大きく報道されたのは、「藤子不二雄Ⓐ 」だろう。本名は我孫子素雄(あびこ・もとお)、4月7日没、88歳。「藤子不二雄」という名前はもちろん子どもの頃から知っていた。「オバケのQ太郎」がテレビで放送されていたからだ。実は二人の共作だというのも大体知っていたと思う。まさか二人が別々になってしまうとは想像もしなかった。藤本弘が「藤子・F・不二雄」(1996年没)で、我孫子素雄が「藤子不二雄Ⓐ 」である。そして実は共作名で発表されていても、「ドラえもん」や「パーマン」は「F」の作品だった。そして「Ⓐ」が「怪物くん」や「忍者ハットリくん」だったとは。あれま、と思ったけど、読んでないからよく判らない。
(藤子不二雄Ⓐ)
 二人とも富山県出身で、高卒後に就職していたが、夢をあきらめず21歳の時に上京。1年後に手塚治虫がトキワ荘を出たので、その後に入った。1987年にコンビを解消、「プロゴルファー猿」、「笑ゥせぇるすまん」、「まんが道」などがある。同郷の芥川賞作家、柏原兵三の「長い道」を「少年時代」として漫画化。篠田正浩監督によって映画化され井上陽水のテーマ曲が大ヒットしたのも忘れがたい。この映画は戦時中の「縁故疎開」を描き戦時下の子どもの様子がよく判るので、授業で使った思い出がある。

 俳優の柳生博が4月16日に死去、85歳。映画「あれが港の灯だ」(1961年、今井正監督)がデビューというのに驚いた。テレビ「いちばん星」の野口雨情役で知られ、クイズ番組の司会、ナレーションや外国映画の吹き替えなどで幅広く活躍した。それ以上に八ヶ岳山麓にレストラン、ギャラリーを開き、自然の魅力を発信したことで知られる。2004~2019年には日本野鳥の会の会長を務めた。本当に柳生一族の末裔だったのも驚き。
(柳生博)
 俳優の山本圭が3月31日に死去していた。81歳。訃報は4月25日に発表された。70年代には非常に有名な人だったけれど…。叔父が山本薩夫監督で、その超大作「戦争と人間」3部作などで重要な役を演じた。そもそも俳優座養成所出身で、舞台の出演も多かった。テレビの「若者たち」の三男役で人気が出て、同名の映画3部作にも出演した。今井正監督の「小林多喜二」(1974)のタイトルロールもやったから、左翼系映画の印象が強い。兄の山本學は最近右寄りになっているようだが、この人はどうだったのか。弟の山本旦も俳優で、山本三兄弟で知られた。妻の女流棋士、小川誠子とは2019年11月に死別した。
(山本圭)
 映画プロデューサーの佐々木史朗が4月18日に死去、83歳。もともと早稲田を中退して鈴木忠志らと早稲田小劇場を結成、その後TBSに勤務し、さらに「東京ビデオセンター」を設立してテレビ番組を製作した。映画「星空のマリオネット」製作に関わって、そこから1979年に日本アートシアターギルドの2代目社長に就任した。2017年に国立フィルムセンター(当時)で佐々木史朗特集が行われたが、そこで判ったことは「ヒポクラテスたち」「ガキ帝国」「遠雷」「風の歌を聴け」「転校生」「家族ゲーム」「廃市」「ナビィの恋」…、若い頃に見ていた映画の多くの傑作が佐々木史朗製作だったことである。
(佐々木史朗)
 書籍デザインの第一人者、装幀家の菊地信義が3月28日に死去、78歳。澁澤龍彦「高岳親王航海記」などで講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。手掛けた本は1万5千冊を越えるという。俵万智「サラダ記念日」や、この前読んだ平野啓一郎「決壊」もこの人。広瀬奈々子監督「つつんで、ひらいて」という記録映画にもなった。映画にも出て来るが、作家古井由吉のほとんどの本を担当した。講談社文庫、講談社文芸文庫、河出文庫、平凡社新書のフォーマットを担当している。
(菊地信義)
 元ミズノの野球グラブ職人、坪田信義が4月3日死去、83歳。15歳でミズノに入社、長い下積みを経て40歳で特注品作りを任された。ポジション別のグラブを初めて作った人で、労働省の「現代の名工」に選定された。王貞治、イチロー、松井秀喜、野茂英雄、松坂大輔…、皆この人のグラブを使っていた。イチローは「いつも想像を超えるものをつくっていだいた。まさに名人芸だった」と追悼している。
(坪田信義)
 フランスの俳優ジャック・ペランが4月21日に死去、80歳。日本では「ニュー・シネマ・パラダイス」で大人になった主人公を演じたのが一番知られている。しかし、若い頃から活躍し、イタリア映画「鞄を持った女」「家族日誌」などで人気を得た。その後、「ロシュフォールの恋人たち」「ロバと王女」などに出演したが、1970年のコスタ=ガブラス監督の「Z」では製作者も兼ねた。これはロシア語ではなく、ギリシャ語で「彼は生きている」の意味。アカデミー賞外国語映画賞を獲得した。他にも「戒厳令」「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」など社会的なテーマの映画を製作した。2002年に製作・総監督・ナレーターを務めた「WATARIDORI」は渡り鳥に密着したドキュメントでアカデミー賞にノミネートされ、日本でも話題を呼んだ。童顔のイメージが禍して、重厚な老け役に恵まれなかったが、プロデューサーとして大成したと言える。
(ジャック・ペラン)
 ルーマニア出身のピアニスト、ラドゥ・ルプーが4月17日に死去、76歳。12歳でデビューし、モスクワ音楽院に留学。1966年にヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝しながら、副賞のコンサートをすべて断って帰ってしまったことで知られた。詩情あふれる演奏で知られ、非常に有名な人だったらしい。
(ラドゥ・ルプー)
中川イサト、7日死去、75歳。「五つの赤い風船」メンバー。最近文庫化された、なぎら健壱関西フォークがやって来た! 五つの赤い風船の時代」(ちくま文庫)に中川イサトのことが詳しく書かれている。
ひろさちや、7日死去、85歳。宗教評論家。仏教の教えを判りやすく説いた多くの著作で知られた。
照屋寛徳、15日死去、76歳。前社民党衆議員議員。参議院1期、衆議院では沖縄2区から6回当選。
尾身幸次、14日死去、89歳。元衆議院議員。自民党から8回当選(一番最初は無所属)。財務相などを務めた。
村生ミオ、16日死去、69歳。漫画家。ラブコメ漫画で知られ「胸騒ぎの放課後」「結婚ゲーム」「サークルゲーム」など映画、ドラマ化された。
横山マコト、22日死去、87歳。漫才師。兄弟トリオ「横山ホットブラザーズ」の次男。
岸野猛、30日死去、86歳。コメディアン。「ナンセンス・トリオ」で、「親亀の背中に子亀を乗せて」や「赤上げて白下げて」などのギャグで知られた。

デヴィッド・マッキー、6日死去、87歳。絵本画家。「ぞうのエルマー」で知られた。
ウラジーミル・ジリノフスキー、6日死去、75歳。ロシアの極右政党、自由民主党党首。近年は体制内野党になっていた。
彭明敏(ポン・ミンシン)、台湾の国際政治学者、政治家。早くから「台湾独立」を主張し、64年には戒厳令下に「台湾人民自救運動宣言」を発表しようとして逮捕された。その後特赦受け、70年にアメリカに脱出。96年の初の民選総統選に民進党から出馬して、李登輝に敗れた。
ジャック・ヒギンズ、9日死去、92歳。冒険小説の大家。「鷲は舞い降りた」「死にゆく者への祈り」など多数。
ミシェル・ブーケ、13日死去、96歳。フランスの俳優。舞台・映画で知られ、映画「トト・ザ・ヒーロー」に出演した。
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清水宏監督「明日は日本晴れ」、敗戦3年目のバス映画

2022年05月05日 22時36分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「発掘された映画たち2022」という特集上映を行っている。非常に貴重な映画が「発掘」されているが、このレベルの映画まで全部見ていると他のことが出来ない。しかし、清水宏監督の戦後第2作「明日は日本晴れ」(1948)は是非見ておきたいと思った。公開以来、ほとんど知られることなく、74年ぶりの上映である。独立プロ「えくらん社」の第1回作品で、東宝で配給された。しかし、何故か松竹から16ミリフィルムが発見されたという。戦前に所属して関係の深かった松竹だからだろうか。松竹作品でもないのに、松竹のホームページの「作品データベース」に記載があるのも不思議。

 清水監督には「有りがたうさん」(1936)という映画がある。伊豆を走るバスの運転手(上原謙)は乗客に「ありがとう」と声を掛けることから「ありがとうさん」と呼ばれている。ただその様子を淡々と映すだけのロード・ムーヴィーなんだけど、乗客には身売りされていく娘もいるし、街道を日本に働きに来た朝鮮人労働者たちも歩いている。ほのぼのとしたムードの中に、日本のさまざまな状況が写し取られている。「明日は日本晴れ」は清水監督が再び描いたバスと運転手の映画である。
(「明日は日本晴れ」)
 たった65分の映画で、特に深いドラマも起こらない。それは清水監督の多くの映画と同様だけど、この映画が特徴的なのは、バスが2回故障して立ち止まることである。恐らく敗戦後の日本では、実際にボロバスが多くて故障が多かったんだろう。1回目は何とか動き出すが、2度目はついに立往生。峠まで皆で押してゆき、そこで救助を待つことになる。町は遠くて救援を呼ぶことが出来ない。向こう側からもバスが来るので、そのバスに救援車を送ってくれるように頼むしかない。あるいはもう歩いてしまうか、通りかかったトラックの木材の上に乗せて貰うか。それとも逆のバスに乗って出発地に戻るか。その間の様子を描くだけだが、そこから戦後3年目の日本が見えてくる。

 客の中には闇屋もいれば、戦傷者もいる。目が見えない按摩(日守新一)もいる。按摩は目が見えないのに、乗客の人数、性別などを当てる。後で判るが、失明したのは満州事変の戦傷だった。実際に戦争で片足を失った御庄正一(清水監督の前作「蜂の巣の子供たち」で浮浪児の元締め役で出演していた)も出ている。バスには戦死した部下の墓参を続けている元将官もいる。その事を知って、戦傷者の御庄が怒り出す。それも当然だろうが、運転手は何とか止めようとする。乗客同士のケンカを止める立場だが、それだけではなく運転手(水島道太郎)は「もう戦争のことは忘れよう」と思って生きているのである。

 若い女性車掌(三谷幸子)は運転手の「清(せい)さん」に気があるようだ。しかし、乗客に若い女性がいて、都会帰りの様子が皆の気になっている。実はその女性は清さんのなじみだったらしい。どうやら事情があったようだが、戦時中に「徴用」されたら、病気の家族を養えないために、「徴用逃れ」で都会に出て働き始めたらしい。子どもを産んだが、死んでしまって墓にいれるために帰郷したのである。清さんには東京に出てきて欲しい、何とか自分が面倒を見るという。清さんは「五体満足」で復員出来たが、やはり戦争の哀しみを抱えている。

 皆が「あのバカげた戦争」「いまいましい戦争」と呼んで、戦争を呪っている。戦争に人生を狂わせられた悲しみと怒りを抱えている。普段は隠しているが、バスが故障して待っているだけというような時に、そんな思いも出て来る。しかし、題名は「明日は日本晴れ」だ。若い世代には人生への希望も芽生えている。峠から見る風景は絶景である。新しい時代への希望を託すような題名。監督がよく撮影した伊豆かと思うと、松竹データベースには京都で撮影したと出ている。名手杉山公平によるオール・ロケである。杉山は前衛無声映画の傑作、衣笠貞之助「狂った一頁」「十字路」以来の長いキャリアがあり、戦後に衣笠監督の「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを受賞した。

 主演の水島道太郎は日活や東映でギャングのボスやヤクザを何作も演じていた。日活の「丹下左膳」が代表作とウィキペディアに出ている。按摩役の日守新一は戦前の松竹映画で多くの映画で名脇役を演じた。中でも小津安二郎「一人息子」の息子役で知られる。戦後では先に見た黒澤明監督「生きる」で、のらりくらりしている同僚たちの中で課長を評価する正論を葬儀の場でぶつ部下役で知られる。他の俳優は知らないんだけど、シロウトも多くキャスティングしているという。
(清水宏監督)
 清水宏(1903~1966)は戦前の松竹で小津安二郎と並ぶ巨匠とされていた。しかし、次第にスタジオ撮影に飽き足らなくなって、子どもたちの情景をロケで撮るような映画を作って評価された。戦後になると、自ら戦災孤児を多数引き取って暮らし、その様子をもとに「蜂の巣の子供たち」シリーズを3作作った。一時は忘れられていた感じだが、その自由で既成の映画文法に捕われない作風が近年再評価されている。ある意味、「ヌーヴェルヴァーグ」以前に「映画=万年筆論」を日本で実践していたような監督だ。「明日は日本晴れ」は「有りがたうさん」に及ばないとは思ったが、敗戦後の人々の心情を今に残す貴重なフィルムだった。

 「バス映画」は結構多く、ちょっと小論を書こうかと思ったが、長くなったので名前だけ。戦前には同じ清水監督の「暁の合唱」(1941)、「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男、1941)があった。戦後では鈴木清順「8時間の恐怖」は、雪で列車が不通となりギャングがバスに乗ってくる。五所平之助が田宮虎彦原作を映画化した「雲がちぎれる時」(1961)、中島貞夫監督の超絶アクション「狂った野獣」(1976、渡瀬恒彦がバスを暴走させ、本人がノー・スタントで転倒させている)、青山真治監督「EUREKA」(2001)などが思い浮かぶが、まだあるかもしれない。外国映画では、最近のジム・ジャームッシュ「パターソン」が良かったな。もちろん、ヤン・デ・ボン「スピード」も凄かった。
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ホロヴィッツ「絹の家」「モリアーティ」ーシャーロック・ホームズの「続編」を読む

2022年05月04日 22時05分59秒 | 〃 (ミステリー)
 アンソニー・ホロヴィッツと言えば、現在各種のミステリー・ベストテンで4年連続第1位を獲得して、もっとも注目されているミステリー作家だ。「カササギ殺人事件」「ヨルガオ殺人事件」、「メインテーマは殺人」「その裁きは死」はここでも感想を書いたが、圧倒的な面白さと充実感には大満足である。そのホロヴィッツはこのように認められるまでに、テレビや少年小説など多方面で活躍してきた。その中には、シャーロック・ホームズ007シリーズの「公認」の続編を書くという仕事もあった。

 ホームズものでは「絹の家」(2011)と「モリアーティ」(2014)、007では「007 逆襲のトリガー」(2015)がそれで、いずれもアーサー・コナン・ドイル財団、イアン・フレミング財団の公認を得た正式な「続編」という扱いである。日本ではどれも駒月雅子訳で、角川文庫から出ている。しばらく入手できなかったのだが、最近たまたま本屋の棚で見つけた。去年の12月に増刷されていたのである。007はもともとを読んでないので、まあいいか。でもホームズは是非読んでみたいなあと思って、買ってみた。
(「絹の家」)
 ホームズものは全部読んでるが、何度も読み返したり細かな知識を競うほどではない。だから、ホームズの贋作、模倣作はいっぱいあるらしいが、読んでない。「絹の家」(The House of Silk)を手に取ったのは、多分ホロヴィッツの「名人芸」を味わえると思ったからで、全く期待を裏切られない。文庫本だが400頁もあって、ホームズものは長編でも案外短いから、読みでがある。「続編」の書き方にはいろいろとあるだろうが、これは「公認」だけに本格派。当時ワトソンによって書かれていたのだが、国家的スキャンダルを恐れて100年間公表禁止にしていたという設定になっている。

 「もともとワトソンが書いていた」のだから、当然ヴィクトリア朝時代(設定は1890年)らしき文体と描写が完璧に再現されている。それでも原作との食い違いは存在するらしく、訳者によって指摘されている。それに公表禁止って言っても、ホームズが関わるのは市中の事件であって、国家間の外交的機密じゃないはずなのに、そんなことがあるんだろうか。しかし、最後まで読んでみると、なるほど「当時は公開できない」ことが納得出来る。そして、今ならそれが書けるということも。でも、それだけに「多分あれかな」と読者は想像出来てしまうかもしれない。(僕は想像が的中した。)

 もう一つ、今回書かれた2作は、いずれもアメリカ絡みになっている。アメリカも発展してきて、イギリスまで犯罪者が「進出」してくる。それは時代を表現するだけでなく、世界最大のミステリー・マーケット向けのサービスかもしれない。ホームズが「ベーカー街別働隊」(街頭の悪童連)に捜査の協力を頼むと、少年の一人が殺されてしまう。真相を探っていくうちに、ホームズ史上最大の危機、ホームズが逮捕され監獄に送られるというあり得ない事態が起きる。そこから「脱獄」する経緯など、実に上手く作られて関心する。そして驚くべき真相に至るわけだが、それは王室まで巻き込みかねない大スキャンダルだったらしく、公式には「封印」されてしまったということになる。「よく出来ました」という作品。
(ライヘンバッハの滝)
 「絹の家」事件の翌年、1891年にホームズはスイスにある「ライヘンバッハの滝」で宿敵モリアーティと対決、二人して滝に落下して行方不明となった。公式的には二人とも死亡したとされる。コナン・ドイルはホームズものばかり書かされるのに飽きてしまって、歴史小説などを書くためにホームズを死なせることにしたらしい。しかし、読者の期待、あるいは抗議が絶えず、結局「過去の未発表の事件」を書かざるを得なくなり、さらに「実は生き残って東洋を放浪していた」ことになって復活した。テレビで死んだはずの寅さんが、要望が多くて映画化されたようなものである。
(「モリアーティ」)
 ところで、そのイギリス犯罪界の黒幕、モリアーティ教授という人も取って付けたように登場する感じが強い。そんな黒幕がいたんだという突然の登場である。ホロヴィッツの「モリアーティ」(Moriarty)は、そのモリアーティが国外に出た事情がはっきりされる。アメリカの犯罪王がイギリスを支配下におくべくロンドンに来ていた。そしてモリアーティの部下たちも、どんどん寝返るか、殺されるか、逮捕されてしまった。そんな中で、ホームズとモリアーティは追われるようにヨーロッパ大陸へやってくる。

 そして彼らを追って、アメリカのピンカートン探偵社から調査員が送られる。また、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)からもジョーンズ警部が出張してくる。(この人は原作にも登場するという。)調査員によれば、アメリカの犯罪王クラレンス・デヴァルーからモリアーティに手紙が送られた形跡があるという。モリアーティらしき死体から、確かに手紙が発見され、その暗合が解かれる。かくして二人はイギリスに戻って、二人の出会いの場で待ち受けることにするが…。そこから続く謎また謎、殺人また殺人の連続を語るのは、ピンカートンのフレデリック・チェイスという調査員である。

 この作品は、直接にはホームズもモリアーティも登場しないという体裁で進行する。いわばホームズ外伝なのだが、本当にそうなのかと最後まで疑いながら読む。それでも最後近くの展開は予想外で、いやあ驚き。この小説では、基本的にはアメリカの犯罪組織対イギリスの犯罪組織という構図がある。ホントにそんなことがあったわけではないだろう。まあ、今の時点で面白くする趣向だ。どっちも「過去に書かれた犯罪実録」ということになっているが、実際は現代ミステリーである。ホームズものは案外簡単に結論が出てしまうが、この2作はあちこちに飛びながら細かな分析がなされる。長いから「ホンモノ」のホームズより、読むのが大変だが充実感もある。さすがホロヴィッツだなという読後感。
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旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設を見る

2022年05月03日 22時50分16秒 | 東京関東散歩
 東京にも歴史的に貴重な近代遺産が数多く残されている。一度は行きたいなと思いつつも、なかなか行ってない施設がいっぱいあるが、その一つが「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」だ。「喞筒」なんて漢字があるのか。後ろの方は「筒」(つつ)だが、前の方は見当も付かない。ここは日本の下水道の始まりの施設で、何と重要文化財に指定されている。東京駅のような赤レンガ建築だが、建築美というよりは社会史的な意義の大きな施設というべきだろう。

 場所は東京都荒川区にあって、今は「三河島水再生センター」の一部となっている。都電荒川線の荒川二丁目停留所で下りると真ん前に見えている。入口はちょっと歩いて道を曲がったところになる。もともと火曜、金曜を除き見学者を受け入れているが、予約が必要になる。(インターネットで予約可能。)ただし、春のつつじの季節には予約不要の「通り抜け」をやっていて、一度花の季節に行こうと思っていた。3年前にちょうど都合の良い土曜日につつじ鑑賞会があったので行く気満々だったのだが、当日に突然原因不明の体調不良になってしまった。その後2年間コロナ禍だったので、今年ようやく行くことが出来た。
  
 全景写真を最初に載せたが、入口から入ったところは高くなっている。そこから見ると、大きな建物としては奥の方に大きな施設がある。それが「喞筒室」で、ホームページを見ると「下水を地下のポンプ井から吸い上げるポンプが10台設置されています」と書かれている。施設の中には入れなくて、パンフレットもない。案内版はあるけど、まあ忘れてしまうから、書く時に確認がいるわけである。そこに行く前に幾つかの施設がある。最初にあるのが「入口阻水扉室上屋」(下の最初の写真)で、「メンテナンス等のために下水の流れを一時的に止める扉」が地下にあって、その上屋になる。
   
 上の写真の2枚目が「土運車引揚(どうんしゃひきあげ)装置(インクライン)用電動機室」で、「下水から取り除いた土砂やゴミを積んだ土運車(トロッコ)を坂の上まで引き上げる機械」があった。中は見られない。どうも建物の名前が古風で難解なので、なじみにくい。そもそも下水道の歴史など全く知らないのだが、あちこちに案内板があって説明している。3枚目は重文指定の案内板。ところで今回はつつじが見どころということだった。ここは桜も名所なんだというが、つつじも立派なものだった。
 
 そもそも何年に出来たのかというと1922年(大正11年)のことで、1999年まで使われたという。ちょうど100年前である。出来るまでは長い時間があった。都市化ととも伝染病なども多く発生し、家庭下水をそのまま川に流して良いのか大きな問題になっていた。御雇外国人のバートンという人が三河島に処理場を作る計画を立てたが、財政上の問題で頓挫。その後1907年に中島鋭治によって計画が練り直され、1914年に着工された。中島は世田谷区にある駒沢給水塔を設計した人である。現在の台東区や千代田区を対象にしたが、「下水道」というものがあったわけではなく、糞尿を自動車で搬入し、処理した汚泥は品川沖に投棄したという。
  
 坂道を下に下りていくと、「沈砂池」と「濾(ろ)格室上屋」がある。場所としてはここが一番大きく、中庭に当たる部分の大部分を占める。「東・西に各1池あり、下水を池の中でゆっくり流して、下水中の土砂類を沈殿させて、取り除きます」ということになる。下水処理の中心だったところだろう。二つあるうち、片方は当時の施設のまま見えるようにされている。それが2枚目の写真である。そういう場所なので、ここには「日本の下水道発祥の地」という碑が立っている。(字は鈴木俊一元都知事)
  
 そして一番奥に「ポンプ室」があるわけである。ここが一番大きな施設で、花とともに写された写真ではなかなか美しい感じだが、近くに寄ってみると、やはり実用的な建築だなという感じがした。下水処理施設が「美しさ」を目指して建設されたはずもなく、歴史的価値によって重文に指定されたものだ。こういう施設が遺され公開されていることは、日本近代の都市発展史を振り返る意味でも大きな意義がある。一度は見ておくべきところかなあと思った。もっとも今回は電車事故のため時間が少なくなってしまい、駆け足的に見た感じだったんだけど。
 
 都電を降りた道も、今はバラが咲いていて気持ちよい。そこから見える壁の向こうが、もう下水処理場である。その隣には「荒川自然公園」というのがあるが、今回は行かなかった。家から近い割には行ったことがないところが多い地域である。
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「大ロシア共栄圏」の下のウクライナ窮乏化

2022年05月02日 22時53分02秒 |  〃  (国際問題)
 国連のグテーレス事務局長が4月末にロシアとウクライナを相次いで訪問した。普通ならそこでは何か停戦に向けたリップサービスなどがあるものだが、プーチン大統領は全く取り合わなかった。一応マリウポリから避難する市民に対する「人道回廊」を国連が関与して作るという話は出た。しかし、その後現実化しているという報道がない。それどころか、モスクワからウクライナに移動したグテーレス氏の滞在中に、ロシアはキーウにミサイルを撃ち込んだ。信じられない話だが、それが現実のロシアの対応だった。
 
 上記2つの画像を見ると、その雰囲気が何となく判る。前がウクライナで行われたグテーレス事務局長とゼレンスキー大統領の会談。後ろは同じくグテーレス事務局長とプーチン大統領の会談。開戦前にヨーロッパ首脳が相次いでモスクワを訪問した際も、異様に離れてテーブルに向かい合ったプーチンと相手方の写真が公開された。新型コロナウイルスを恐れた「ソーシャル・ディスタンス」だとも言われるが、何か「世界からの孤立」を象徴するかのような風景である。

 ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって2ヶ月以上。改めて思うのはロシアが、というかプーチン大統領がというべきだろうが、「何を目指しているのか判らない」ということではないだろうか。ウクライナに何があったにしろ、ウクライナの各地に容赦なくミサイルを撃ち込むということの目的は理解しがたい。逆に言えば、「東部地域(ドンバス)に侵攻する」だけなら、理解することは可能である。もちろんそれは非難されるべきことだが、すでに2014年に「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」という「偽国」をねつ造してしまった。ドネツク、ルガンスク両州の全域支配を目指すだけならば、「理解」は可能になる。

 しかし、ロシア側がはっきりした目標を明示しないこともあって、一体何のための戦争なのか誰にもよく判らない。戦時では「国難に立ち向かう強い指導者」に支持が集まるもので、ロシア国内でもプーチン政権の支持率が高くなっている。恐らくは「ただ支持している」のだと思う。「ウクライナに侵攻している」という意識もロシア国内では少ないのではないかと思う。よくロシアとウクライナにさらにベラルーシを加えて、「スラブ系民族の兄弟国」などと呼ぶことがある。確かに歴史的、文化的、言語的にも共通性が多いのは確かだ。しかし、ロシア人の意識ではロシアが兄であって、ウクライナが次男ベラルーシが三男といった感じに違いない。「兄弟」と表現した時点で、「長幼の序」意識が入り込んでくる。

 1991年末にソ連が突然崩壊した時点で、ソ連邦構成国には多くのロシア人が居住していた。ソ連は経済、交通などで一体化していたから、仕事などでロシアから各社会主義共和国に移り住んでいた人が多かった。例えば、カザフスタンでは今でも2割ぐらいはロシア人である。かつての大日本帝国が崩壊したときにも、朝鮮や台湾、「満州国」などに多くの日本人が住んでいた。しかし、日本の場合は戦争敗北によるものだったから、「外地」に住んでいた日本人は苦労を重ねながら全員が「引き揚げ」てきた。(帰国できずに死亡した人、現地に残された「残留孤児」も多かったが。)

 しかし、ソ連崩壊は「平和的」に起こったので、ロシア人たちの多くはその後も住み続けてきた。例えばバルト三国の一つ、ラトビアでは国民の4分の1近くがロシア系である。その中にはラトビア国籍を取得しないままの人も多く、社会問題になっている。ロシア語も使われているが、ラトビア語を使わなければ不利になるようなラトビア化政策が行われてきた。ロシアとの間で長く揉めているが、ラトビアはNATOに加盟しているから、ロシアもうかつには侵攻出来ない。EUにも加盟していて、もう西欧社会の一員という構図が定着している。バルト三国は独ソ不可侵協定の秘密条項によって、第二次大戦勃発時に強制的にソ連に編入された。それ以前は独立国だったわけだから、ロシアも不満ながら認めざるを得ないのだろう。

 そこがウクライナと違う点だと考えられる。ウクライナも第一次大戦直後に独立を宣言したことがあったが、結局ソ連(西部はポーランド)に支配された。ウクライナは帝政ロシア、ソ連と体制は異なっても、ロシアの「帝国」の内部だった。「独立」を果たしても、長年の関係はすぐには切れない。ロシアからすれば、「事実上の属国」である。そうであらねばならない。しかし、はっきりとウクライナは西欧入りを目指してきた。サッカーのヨーロッパ選手権大会ウクライナとポーランドが共催したのは、もう10年前の2012年のことである。調べてみると、キエフ(キーウ)、ハリコフ(ハルキウ)、ドネツク、リビウの4都市で試合が行われた。意識ではロシアよりポーランドの方が近しくなったとしても不思議ではない。(なお、同大会の最優秀選手はイニエスタ。)

 ウクライナで民主的な方法で親ロシア政権が誕生することはあり得ない。何故なら、ドネツク、ルガンスク両州の一部、及びクリミア半島がウクライナから「独立」して、ロシア系住民の有権者数が大幅に減ったからである。大統領選挙でも議会選挙でも、親ロシア派はもうウクライナの選挙では勝つことが出来ない。従って、ロシアがウクライナの政策を変える手段は、武力行使しかなかったことになる。しかし、武力侵攻でウクライナを支配権に再び組み込んでも、それは長続きするものじゃないだろう。それで良いということなんだと思う。ウクライナが窮乏化しても、むしろロシアに逆らったことへの見せしめになる。

 ロシアは周辺国のロシア系住民が虐待されていると訴える。そのような国でロシア系住民の「独立」国を作る。かつてナチスドイツがチェコスロヴァキアの(当時ドイツ系住民が多かった)ズテーテン地方の割譲を要求したようなものだろう。そのように旧ソ連圏でロシアを中心にした「大ロシア共栄圏」のようなものを作ろうとしているのだと思う。かつての「大東亜共栄圏」のようなもので、「共に栄える」といいながら、どこの国が「指導国」なのかは決まっている。決して対等ではない。

 ウクライナ政権が緒戦で崩壊しなかった時点で、「ウクライナ全土の保護国化」は不可能となった。そこで残された目標は「ウクライナの破壊」ということになってくる。ロシア系住民地区は「独立」(いずれはロシアに編入)させるが、その他の地域はロシアが支配する地域ではないから、責任を持つ必要がない。ロシアの現時点での戦闘行為を見ている限り、いずれは訪れる停戦後にウクライナと友好関係を結ぼうと思ってはいないだろう。そのような「戦後への布石」が感じられない。取りあえずは、ウクライナの分割親ロ派支配地区以外のウクライナの窮乏化が目標にならざるを得ないのではないか。
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司法改革の必要ー1回だけ書く「憲法改正論」

2022年05月01日 22時19分36秒 | 政治
 5月3日は憲法記念日。クイズ番組を見てると、これを知らない人が結構いる。近年祝日を動かしたり、名前を変えたりするケースが続いていることも影響しているだろう。しかし、一番の問題は日本国民に憲法に対する関心が薄くなっているということだと思う。(なお、4月29日が「みどりの日」から「昭和の日」が変えられたのに続き、11月3日を「文化の日」から「明治の日」なる名称に変えようという動きが自民党右派に存在する。どこまで「復古」が好きなんだろう。ちなみに4月29日は昭和天皇、11月3日は明治天皇の誕生日である。日本の祝日には天皇に由来する日が極端に多い。)

 僕は今まであまり憲法問題に関して書いていない。書いても現実の政治過程に影響しないし、今の政治状況では憲法「改正」を目指しても、「改悪」になりそうである。利用されたくないから、書きたくない。僕は憲法9条に関しては、「戦略的護憲論者」とでもいうべき考え。明らかに(米軍の「下請け」として)戦争をしたくて憲法を変えようとしていると判断しているから反対である。(1950年代の岸内閣で憲法9条が変わっていれば、日本もヴェトナム戦争に参戦して多くの戦死者が出ていたのは間違いない。)ただ「永久に守っていくべき人類の宝」などとも考えていない。

 世の中には「世界各国に憲法9条があれば、戦争は起こらない」と主張する人がいるが、僕はそうは考えていない。「自衛のための自衛軍は持てる」と解釈して、過大な「自衛軍」を持つようになって、「自衛のための特別軍事作戦」が頻発すると判断している。憲法の文言だけでは、戦争や差別や貧困などを完全には防げない。現段階の政治状況をリアルに認識すれば、「戦略的に憲法9条を保持することを支持する」というだけである。だけど、条文と現状との乖離が激しすぎるのは間違いない。いつの日にか(出来れば「集団的自衛権」や「海外派兵」を明文で禁じる方向で)「改正」するべきだろう。

 ただ憲法を変える変えないかという本質の問題でいえば、僕はずっと「改憲論者」である。「天皇制廃止論者」なので、憲法第1条を変えないと実現しない。しかし、国会で3分の2を超える勢力が共和制を支持するとは(現時点では)考えられない。取り組むべき多くの問題がある日本で、当面実現しない問題に取り組む元気はない。ただ憲法を変えるべき論点は幾つかある。一つは「外国人の人権」。憲法の条文では「国民は」と表現している箇所が多く、「国民以外の外国人には国民と同等の権利は及ばない」と解釈されかねない。というか、それが日本で起こっている外国人差別の原因だと思う。

 もう一つは24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」が、同性婚を禁じる規定に解釈される場合がある。そういうことを想定出来ない時代の憲法だから、やむを得ない。そこは同性婚も可能なように「両性の合意」を「両人」とか「当事者」とかに変えたほうがいい。そして、最後に書いておきたいのが「司法改革」である。この間日本では「司法制度改革」の名の下に、「裁判員制度」「裁判の迅速化」「司法試験改革」など幾つもの変化が進められたが、一向に裁判が身近というか、納得出来るものにならない。それどころか、僕にはどうしても納得出来ない裁判が幾つもある。どうしても裁判制度を抜本的に変える必要がある。
(「臨時国会召集義務」訴訟)
 前から日本の裁判はおかしいと思っていたが、その考えが決定的になったのは、安倍内閣の「臨時国会不召集」問題である。2017年の通常国会では森友学園加計学園など安倍首相に関わる問題が追及された。しかし、内閣は通常国会を6月18日の会期末で閉会して、延長に応じなかった。そこで野党側は憲法に則って臨時国会の召集を要求した。(第五十三条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。)ところが安倍内閣は臨時国会を98日間召集せず、9月28日に開会したものの何の審議もせずに冒頭で衆議院を解散した。

 これは明白な憲法違反だろう。確かに何日以内に召集せよとは憲法に書いてないけれど、いくら夏休みをはさんだといっても「3ヶ月以上開かない」のは認められない。それ以上に問題なのは「冒頭解散」だ。憲法の規定は、ただ単に臨時国会を開くかどうかの規定ではない。議員の4分の1という数は、ごく少数ならともかく、ある程度の野党議員が要求したらちゃんと審議を行うべきだということだ。国会は政府・与党と野党がそれぞれ主張をぶつけ合うところである。その国会審議を野党側から求められる規定というべきだろう。安倍政権で2015年に強行された「集団的自衛権の一部解禁」も違憲だと思うが、まあこれは解釈の相違とも言える。しかし、臨時国会条項は解釈の問題ではない。普通に考えれば、安倍内閣に憲法に違反した行動があったのである。

 では、その違憲行為を司法権は止められるのか。止められないのである。例えば、「冒頭解散を差し止める仮処分」などを野党が裁判で求める規定はない。事前には止められなかったので、事後に裁判をすることになった。それもいろいろと考えて、野党議員が「質問する機会を奪われた」として賠償金を求めると共に、内閣は要求から20日以内に召集する義務を負うことの確認を求めた。各地で同様の裁判が起こされたが、那覇地裁など不召集は違憲とした判決もあるが、東京地裁などは臨時国会の召集要求の権利は裁判で救済される対象ではないとし、53条違反かどうかは門前払いして判断しなかった。

 裁判所は憲法によって「違憲立法審査権」を与えられている。本当に時々、その審査権を発動して法律が違憲とされることがある。それでも政府の行為を国民が違憲ではないかと問うことが出来ない。安保法制に関しても、多くの訴訟が起こされたが、下級審では門前払いである。これは理由がないわけではなく、今の憲法の解釈では、違憲立法は被害を受けた人が訴えて初めて裁判で判断の対象となる。おかしいでしょ。内閣が明白な違憲行為を行っているときに、それを裁判所が差し止められなくて、裁判所を「憲法の番人」などと呼ぶことは出来ない。簡単に言ってしまえば、日本国憲法には司法権に関して欠陥があるのである。

 じゃあ、どうすれば良いのか。諸外国には通常の裁判所とは別に、「憲法裁判所」を設けている国もある。憲法判断を求める人は、そこに訴えるのである。ただ、今からそのような新しい仕組みをゼロから作るのも大変だ。そこで現在の最高裁に対して、直接「憲法判断を求める仕組み」を創設することも考えられる。国民一人一人に認めると大変だから、「国会議員50人以上」といった条件になると思うが、下級審を飛ばして最初から最高裁に「合憲か違憲か」の判断を求める権利を作るのである。そして違憲の場合は法律施行の差し止めや臨時国会召集命令などを出せる権限を与えるわけである。
(最高裁判所)
 ただし現在の最高裁裁判官の任命方法をそのままにしておいたら、最高裁は内閣に有利な判断ばかりするだろう。最高裁裁判官の任命方法は憲法で決まっているので、それも変えなければならない。アメリカでは最高裁判事の任命には上院の承認が必要である。日本では内閣の任命なので(長官は内閣の指名、天皇の任命)、最低限「国会の承認」に変える必要がある。日銀総裁や公取委員長に国会の同意がいるのと同じである。もっとも最高裁裁判官は非常に大きな権限を持つから、国会の中に「裁判官弾劾裁判所」と同じような「最高裁判所裁判官推薦委員会」のようなものを作って、与野党で構成するような仕組みも必要だろう。

 その他にも、すべての裁判官は弁護士から選任する(法曹一元)も、検討するべきだろう。司法修習終了後は一端全員が弁護士として活動し、数年後に希望者の中から裁判官、検察官を選任するという仕組みだ。とにかく「憲法の番人」「人権の砦」といった言葉が泣くような実態が日本の裁判所にはある。それを変えていくためには、どうしても憲法改正が必要だというのが僕の考えである。明白な憲法違反がありながら、裁判所がそれを止められないのでは「違憲立法審査権」を持っている意味がないではないか。(ちなみに、よく知られているように「自民党改憲草案」では、憲法53条を「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と改正するとされている。)
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